断章 救世阿弥陀

17

 私たちはぼんやりとした陽だまりのなかで育てられた。

 世界と私たちの間には、よくみえない隔たりがあって、光や音が届きにくかった。それと同時に、外からもたらされる悪いものも私たちには届かない。眠っているような、半覚醒の微睡のなかに私はあった。

 私という確固たる自我も曖昧で、自分が何者かも知らなかった。ただ無知で、ただあるがまま。私は私たちとして、知ることも、知らぬこともわからぬ茫洋を漂う。無垢で、まっさらな、生命のみの、自己という外殻を持たない魂そのままの姿で在った。生まれたままの赤子。それが私たちだった。

 あるとき、西家都と名乗る女がやってきたらしい。

 私が知ったのは、何もかもが変り果て、私たちが私になり、自我を得て無垢で居られなくなったあとのことである。すべては後から伝え聞いた話だ。昔ばなしのように、人伝に、口から口へ。この話には昔ばなしと違うところもある。それは西家都という女が目の前に形をもち、生きているということだ。そして、西家都とはこの私のことでもある、ということだ。

 女は言った。

「私たちが救われるべきなのです」、と。

 神仏は人間に救いを与える存在だ。ならば、人間がこうべを垂れて這いつくばって、希うやり方は間違っている。神仏の方から我々人間に奉仕し、誠心誠意救うべく努力すべきなのだ。我々の痛みも苦しみも罪さえも引き受ける。この地を懸命に生きようとする人々を救うとは、正しい救いを与えるとは云々。神仏かくあるべし。

 彼女が説いたのは究極の現世利益。この世の人々が救われてこそ、神仏に存在する意義がある。神仏は人間への絶対奉仕者なのだとする思想。

 神仏とは人間のための、救済機関だ。

 人を救わない神仏に存在価値はない。

 なぜ彼女はこんなことを言い出したのか。それはこの地に神仏が肉の体をもって、現実の生き物として存在したからである。

 神仏とはなにか。

 神仏とは私たち。

 つまり、私だ。

 彼女は私たちを救世阿弥陀と名をつけた。無垢なまま言葉も教えられず、生き仏として崇められてきた私たちの生活は反転した。人間の罪や痛みを引き受ける、奉仕者として。

 私がはじめに覚えたのは暴力と殺意。痛みと怒り。理不尽への憎悪。生への呪い。

 殺してやる、という言葉を名前より先に言えるようになった。

 毎日、時間の感覚も忘れる屈辱のなかで、私の自我は形成されていった。

 呪い、呪って、呪い続けて。なぜ、私が苦しまねばならないのか。その理由も定かでない。あの女の言うことが正しいのか、間違っているのか。だれもそんなこと教えてくれない。

 私が西家都に選ばれたから。私は西家都の権現で、あの女を救うために現世に現れた仏の仮の姿で、あの女が私の本地で、私の本来の姿である阿弥陀如来だという。なにをいっているのか、意味がわからない。あの女が仏の本性なら、なぜ人間なんだ? お前が仏なら、お前が私を救えよ。神仏は人間から生まれたものだから? 無知な私でも支離滅裂なことぐらいわかる。西家都の論理は矛盾している。

 毎日、毎日、呪いながら考えた。恨みながら耐えた。なぜだ、なぜだ、と問い続けた。憎め、憎め、と言い続けた。

 皮肉なことに、私はあの女の苦痛を引き受けるようになって、飛躍的に賢くなった。あの女の発する言葉を覚え、痛みで世界と繋がることで自己を得た。奉仕という形で世界を広げることができた。これまでまっさらだった反動かもしれない。生き延びる術を探すため、貪欲に知識を吸収していった。

 なぜあの女のめちゃくちゃな論理がまかり通っているのか。その理由は単純明快だった。あの女は聖地の秘密を握っていたから。聖地に生える神の霊薬。あの女の言葉でいうなら、麻薬。

 麻薬は面白いように人を壊した。快楽に陥れ、虜にする。いともたやすく人間を従属させる。

 逆らったものは麻薬でいいなり。より効果の強い麻薬の製法を知るのは西家都とその側近だけ。

 あの女が外から持ち込んだ聖地を穢す呪い。それは強力な麻薬の製法だった。素朴なまま、痛み止めや苦痛を和らげる薬としてありがたがっていただけの村人とは違う。その気になれば、一度で自我を溶かすことができた。

 麻薬を与えられたものは、極楽浄土に至ったという。

 西家都は宣言した。阿弥陀如来の本性である自分が降臨した、この村こそが極楽浄土なのだと。

 私はあの女のおもちゃにされた。何度も麻薬を盛られ、その度に快楽と苦痛の狭間を漂った。ぼろ雑巾より酷い有様になり、私たち権現の暮らす小屋へと放り込まれる。神仏を閉じ込めておくための小屋だ。小屋の中には私と同じ目にあった誰かの権現たちが転がっていた。中には壊れてしまった子もいる。死んでしまった子もいる。そんな中で、たったひとり、眠りこけるひとりの男の子がいた。

 無垢なまま、痛めつけられることも、麻薬で壊されることもない男の子。

 彼は松丸聖という本地の権現だった。松丸聖はとても変わった男で、私たちをいじめることにまったく興味がないのだという。それどころか西家都にも従わず、麻薬にも関わろうとしない。凍える地下水に潜ったり、山で石を掘り起こしたりする変人なのだそうだ。

 私たちのなかで、彼はいつしか勝手に救世主と呼ばれるようになっていた。別に彼が私たちに何かをしたわけではない。彼も所詮は外からやってきた悪人のひとりだ。だが、憎悪と呪いにまみれた私たちには、彼は希望に見えたのだ。

 ある種の象徴だ。

 私たちは私たちの方法で彼を崇めた。西家都を否定するために。

 西家都がこの地にくる以前の信仰を、私たちの間でだけ執り行ったのだ。無垢な松丸聖の権現を、生き仏として大切に守り育てた。外の知識と隔離して、西家都らに見つからないように、痛みも憎悪も、呪いも苦しみも知らない、無垢な赤子のまま。世界から匿った。

 西家都の思想は、元々この地にあった信仰をそのままひっくり返したものだ。本来、生き仏は人間たちの本性とされる。現世の体である人間たちがどれだけ傷付き穢れに塗れようとも、本性である生き仏を清浄に保てば人間たちの魂は救われる。大昔のならず者たちが、この地の僧侶らに示された考え方が変化したものだと言う。贖罪のための生き仏信仰。

 私たちの信仰は、生き延びる希望そのものだった。生の苦しみを少しでも忘れたい一心だった。私たちは元々一心同体だった。だから、私たちのうちひとりでも、苦しみから逃れ無垢なままでいられたらなら、私たちの魂もまた無垢できれいなままでいられる。

 私たちは信仰と希望を守り通した。その間にも、ひとり、またひとりと死んでいった。極楽浄土にあって、私たちだけが苦しみ抜いて、死に沈んでいった。最後まで呪いの言葉を吐き続けながら。その呪いは私たちに受け継がれる。誰かの呪詛が、私の呪詛を強める。

 憎悪は膨れる。しかし、私たちは未だ無力な子供だった。

 このままでは皆死ぬ。なにもできぬまま死ぬ。昨日は逃げ出そうとした子が、狩りの的にされて死んだ。死体を片付けたのは私だ。こんな山奥では碌な娯楽もないらしい。私たち権現をいかに有効活用するかが、あの女たちのなかでの流行りだった。

 もう誰も言葉を発しなくなった。

 小屋の中で死んでいるか、寝ているかもわからない日々だ。

 憎悪だけが、くらくらするほどに生きていた。

 そんなときだ。あのひとが、松丸聖が小屋の戸を叩いたのは。

 本物の阿弥陀如来が、私たちを救いにやってきたのだ。

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