2 現世の極楽

仏罰

10

 頭が叩き割られる。耳の内で甲高い金切り声がわめきあげる。

 沈んでいた意識が力任せに引き上げられる。ぼくはいつの間にか魚になっていたようで、目覚めた陸の上で呼吸できずに喘ぐ。眼が回る。唇は苦しみを訴えて、無言のうちに開閉する。なにがなんだかわからない。指一本動かせないほど疲れているのに、全力で走り続けようとするかのように動悸が激しい。今にも死にそうなくせ、意識だけは研ぎ澄まされていく。

 苦痛が終わることなく、層をなし、九十九つづらに折り重なって、ぼくが、ばらばらに、沈んで――。

「息を止めなさい」

 鼻が塞がれ、白い手が口を覆う。

 殺される。そう思って抵抗したかったけれど、まるで力が入らない。持ち上げた指が震える。

 呼吸を失くしてどれぐらいそうされていただろう。意識に黒い帳が降りはじめて、ようやく手が離れる。

 蓋が開けられ、我先にと空気が押し寄せる。突然取り戻された呼吸に体が驚いて咳込む。

「よかった、息を吹き返したわね。軽いパニック症状に陥っていたみたい。はじめての体験であれぐらいの劇薬を盛られたのだから、生きているだけ拾い物だと思うけれど。中毒死ぜずによかった」

「い、一体、なにがどうなって……」

 ぼくの口を塞いだのは黒江の手。彼女が助けてくれたらしいことはわかった。なんとか体を起こそうとするけれど、全身の血管に砂を詰められたみたいに重い。だるさで息が切れる。いままで経験したことのない部類の体調の悪さだ。

 彼女に手を貸してもらい、上体だけやっとのことで引き起こす。

「飲みなさい。すこしはマシになる。安心していい、これは正真正銘ただの水だから」

 差し出された水筒から、息切れの合間に一口ずつ。喉を通る冷えた液体が、やかましかった動悸をすこしだけ静めてくれる。

 人心地つくと、そこが漆喰に囲まれた部屋であることに気付く。ぼくら一行のために用意された部屋であるらしいことがわかった。灯籠がないから自分の部屋だろう。ぼくが持ち出したせいで、灯籠がなくなっている。室内は陰になって薄暗いが、開かれた扉から淡い光が差し込んでいる。

「あのあと、ここまで運ばれたみたい。さすがに昏倒させられるとは思わなかった。運が悪ければ、あの場で全員殺されていたかもしれない」

「どうして、そうなるんだ」

「人間死ぬときはあっさり、よ。あの女、私たちに脅しをかけたつもりかな。あるいは、あの体験を通して私たちをあちら側に堕としたつもりなのか」

 同じものを経験したはずなのに、彼女は平然と立ち上がる。ぼくはまだしばらく動けそうにない。

「他の人が心配だ。あなたは落ち着くまで寝ていなさい。しばらくすれば動けるようになる」

 そういって黒江は部屋を出ていった。ぼくは頭のなかで、なにがおこったのか記憶を整理しようと試みた。けれども、ちぐはぐな断片が浮かぶばかりで、思考もうまくもとまらない。彼女に言われた通り、体を丸めて横になる。

 しばらく、そうしていたら少しは体が動かせるようになる。眠っているわけにもいかず、廊下に頭を出す。視線の先に見える入り口から差し込んでいるのは朝日だろうか。いつのまにか夜が明けていたらしい。思考と共に多少なりとも体調を回復させたぼくは、五感も同時に取り戻す。廊下から入り込んでくる空気が身震いするほど冷たいことに気が付いた。今朝はだいぶ冷え込んだようだ。池の水は凍っているかもしれない。

 ふらつきながら廊下を行くと、同じように顔を青くした山素、国見がいた。

「田澤さんはどこに?」

「部屋にはいない。いつ抜け出たのか、気付いた時にはいなかった」

 言葉通り田澤が使っているはずの、入り口から二番目の部屋は荷物が置いてあるばかり。敷かれた布団が乱れているから、意識を失って部屋に運ばれたところまではぼくらと同じようだ。

「おれたちには一体なにが起こったんだ? 橋が消えたり、人肉を食わされたり、死体に体が生えてきたり。わけがわからない。そのあとで、急に目が回って変な幻がみえて……そもそも全部幻だったのか?」

 国見が眼鏡を外して眉間を揉む。彼の持った眼鏡の凹面に色が入っていることに気付いた。半透明の紫色になった、色ガラスだ。光を和らげる効果でもあるのだろうか。

「一服盛られたみたいです。おそらく、口にした肉片か、阿弥陀堂の内部で焚かれていた香がそうでしょう」

「じゃあ、人肉を食ったことも幻覚か?」

「いえ、あれは現実でしょう。橋が消えたのも、阿弥陀様とかいう少女の首からしたが生えたようにみえたことも」

「ほんとうに仏の奇跡とでもいうんじゃなかろうな」

 山素が怯えた顔で頭を抱える。

「トリックですよ。あんなものは陳腐な手品。あの場の異様な空気に呑まれて、もっともらしく魅せただけ。霊能者とか、怪しい宗教団体とまるきり同じ手口ですよ。心理的に追い込んで、挙句の果てに幻覚を見せる薬物まで盛った。種を指摘したところで言い逃れしてくるでしょうけど。ああいう、超能力系の手合いは厄介で、完全に能力でないこと証明するのは難しいものなんです……あの場で暴くことが一番よかったのですが、幻覚を見始めたら何を言っても無駄でしょうし」

 黒江は悔しそうに唇を噛む。

「あんたにはわかったってのか?」

「ええ、ある程度の予想はつきます。実物を確認すればはっきりするでしょうが、昨日の今日で、証拠は片付けられている可能性が高い。確実な証明は不可能なので、あくまでも私の推測になります。それでもよろしいですか?」

 黒江の確認に、ぼくらは頷いた。

 ぼくは少しずつはっきりしてきた頭で、昨晩の出来事を振り返る。

 あの晩、ぼくらは円筒形の堂内で、斜幕のかかった台座を半円に囲んで座っていた。西家都の合図とともに読経が始まり、再び合図で斜幕が外される。台座の上には阿弥陀様の生首と生肉が盛られてあった。山素が逃げ出そうとして阿弥陀堂の扉を開けたとき、かかっていたはずの橋は消失していた。ぼくらは取り押さえられ肉を無理矢理食べさせられる。西家都が阿弥陀様の首を持ち上げ、長い袖を払いのけると体が元に戻っていた。そのあとは記憶が混濁して、いつ意識を失ったのかもはっきりしない。

 大まかに、そのようなことが起こったはずだ。

「橋の消失と体の現出。なんらかの仕掛けが施されたのは、このふたつです。

 まずは橋の消失から。私たちが橋を渡ったとき、橋は固定されており、五人同時に渡っても揺れない安定したものでした。ごく短時間で撤去することは難しいと思います。破壊して水に沈めることはできるでしょうが、その場合はまだ橋は消えているはずです。私たちを騙すためだけに壊すのはあまりにも損ですし、消失させるということは現出させることでもあるので、安易に現出させられない破壊は行わないでしょう。

 私たちが堂内に入り、山素さんが扉を開けるまで外の様子は確認できませんでした。西家の号令で読経が始まると、読経の声量と踏み鳴らされたことによる激しい揺れを感じました。音と振動です。外で何かが起こっていてもその場で気付くことは難しいほどのもの。

 ここで思い出してほしいのですが、阿弥陀堂の外観は正方形でした。しかし、中に入ると室内は円形。加えて、中には三十人ほどの付き人がいましたが、外にも西家が引き連れた付き人が数十人いました。阿弥陀堂は池の中央に浮かんでいて、橋は表側にしかかかっていません」

「ちょっと待てよ。まさか、御堂を回転させたとでもいいたいのか?」

 国見の驚きと呆れの入り混じった問い掛けに、黒江はあくまで真剣に頷いた。

「馬鹿々々しいと思うでしょうが、仕掛けは単純であるほどばれにくいものです。誰もがそんなはずない、と思う発想の死角を突く。単純ですが、非常に手間が込んでいて大掛かりです」

「まさか、わしらを騙すためだけに建てたんか?」

「いえ、それは違うでしょう。もともとあの阿弥陀堂には堂の方向を変える機能が備わっていたのだと思います」

摩尼マニ車みたいなことか? 壁に経典でもならべて、回すことで読経、みたいな」

「それは流石に効率が悪すぎます。あれは手軽に、何度も回せることに意味があるのですよ、国見先輩。理由はこの空洞の日当たりにあると思います。この空洞では日中も火を焚かなければならないほど暗い。覆い被さる天蓋のおかげで、特定の場所にしか日が差しません。あの阿弥陀堂はちょうどその境に建てられているようです。日向の移動に合わせて開口部を向けられるようになっているのでしょう。あの御堂には日差しから守るべき本尊がありません。日光が差し込んでも痛むような仏像は安置されていませんでした」

 さすがに建物を、内部だけとは言え回転させるという発想には驚いた。でも、その方法なら確かに橋を消したり出したりできる。それに夜は月もでないほど暗かった。回転させても周囲の風景は見えない。景色が変わったとしても気付けないだろう。

「体が生えたことはどうやって説明する?」

「そちらはもっと単純です。少女の生首は、西家都が持ち上げるまで台座の上を動いていません。あれほど振動していたにも関わらず、頭が立ったままだったのです。これは非常に不自然ですし、西家都が首を持ち上げたときの仕草もかなり不自然なものでした。彼女は袖で覆いを掛け、垂直方向に持ち上げました。そして、西家都は斜幕が開けられて以降、終始台座のうえから移動しなかった。つまり、台座の下には少女の首から下があって、頭だけを出した状態だった。拾い上げる仕草に合わせて、台座の上にあがる。改めて体をさらすことで、体が復活したように見せかけた」

「そ、そんなことで?」

「私たちのなかで、あの場で頸の断面を見た人はいますか?」

 思い返してみても、首は台座に乗ったままだった。あの首が本当に切れていたのか断言することはできない。国見と山素も、それは同じだった。彼らは腑に落ちない様子で唸る。

「本当にそんな単純なことで、なぁ」

「切断マジックで使われる古典的な手ですよ。切り分けられたボックスの置かれた台の下は、実はつながっていたという具合です。単純ですが、あとは演技と演出次第、という感じでしょうか」

「な、なら、わしらが食った肉は、ひとのもんじゃなかったんだろ? 牛とか豚とかの生肉で」

「それはどうでしょうか。あいにく、人間の生肉を食したことがありませんので、なんとも言いかねます。可能性が高いのは鹿か猪、熊。獲物の量的には人間も十分あり得ます。牛と豚の可能性は低いですが、もし豚だったら危険ですね」

 一番否定して欲しかった可能性が否定されず、ぼくらは青い顔をさらに青くした。

「と、ともかく、仏の奇跡なんてない。超能力だとか、魔法だとかはない。そうだな?」

「仏の力なので、魔法ではなく神通力ですが、そんなものあっても人間には使えない。それは断言できます」

「消えた銃弾も、なにかの仕掛けってこと?」

 確信をもって頷いた彼女に、ぼくは問いかけた。

「おそらく。まだどんな仕掛けかはっきり言えないけど、推測はできる。けれど、銃弾に関して問題なのは仕掛けじゃない」

「それって、どういうこと?」

 彼女は答えようと口を開きかけ、何も言わずに閉じる。なにも説明せずに首を振った。

「だ、だれか来てくれッ」

 そのとき、外から男の声が聞こえる。田澤のものじゃない。

「今の、那智じゃないか?」

 国見の言葉に、黒江と山素は頷く。ぼくらは急いで玄関から外に飛び出す。

 外に出てすぐ、ぼくらは目にした光景に立ち尽くす。ぼくは手足が震え出すのを感じた。それは決して、冷え切った朝の空気のせいではない。

「……摩訶鉢特摩まかはどま

 黒江の囁きがしん、と響いた。

 白い池間に浮かぶ、一輪の紅い蓮華。

 体の皮が裂け、花が開くように、一枚ずつめくれあがった姿。紅い血液が凍り付いて垂れ下がり、咲き誇る。鮮やかな一輪の蓮の花。めくれて凍った皮の一枚一枚が、花びらのように。

 紅い蓮華には顔があり、それは紛れもなく、田澤弥敷のものであった。

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