断章 楽土の終わり

 あ――目が合った。

 寸での所で振り下ろしていた手斧の軌道を逸らす。勢い余ってすっぽ抜けた手斧は、樹海の暗闇のなかへと消えて行った。危うくこの子を殺してしまうところだった。

 白い亡霊のような女の子が暗闇に浮かんでいる。

 ずきり、と後頭部のこぶが脈打った。

 この子って、なんで知っている? 一体何者なんだ。この子は、おれは――おれは?

「さとしさんっ」

 手に持った懐中電灯を放り投げて、少女はおれに抱き着いた。

「探しました、さとしさん。あいつらに捕まってしまったのかと思って、私、怖くて。ひとりで逃げるなんてできっこないから。外にだって初めて出たのにッ。どこへ行けばいいのかも、なにをすれば生きられるかも、なんにも知らないんです。さとしさんが出ろって、言うから。さとしさんが外なんか教えるから。ちゃんと責任とってください。連れ出すなら、籠を壊すなら、ちゃんと最後まで私の面倒をみてよっ」

 白い着物の少女。まだ少女と言ってよい年齢かどうか。丸みを捨て、洗練され始めた輪郭のライン。目鼻立ちはすっきりと伸びる。幼さの殻を脱ぎ捨て、大人の女へと変わろうとする、ほんのわずかな変性の期間。

 そうだ。おれは彼女を解き放ちたいと思ったのだ。彼女だけじゃない。あの巨大な空洞に囚われた、多くの魂と人間達を解放しなければ、と。アイツらの支配からも。

 自らがなすべきことを思い出した。自分が誰なのかも。

 おれは松丸聖だ。それ以外の何者でもない。

「静かに。この辺りにはヤツが徘徊しているはずだ」

 縋りついて泣きじゃくる彼女の口を塞ぐ。少しずつだが頭の痺れが取れてきた。やはり記憶の混乱は脳しんとうからくるもので、一過性のものだったらしい。地面に落ちた懐中電灯を消し、ひとまず暗闇に息をひそめる。

「ヤツって?」

 彼女が囁き声で聞いてくる。

「きみもよく知っている怖いヤツさ。人食い山人、ヤマガガ、ビルバクシャ……ヤツには色んな呼び名がある。だけど、一番しっくりくる名は『殺人狂』だ」

 この脱出計画における最大の障害といえるのがヤツだ。現に阿弥陀堂で誰かがやられた痕があった。もう少し目覚めるのが遅ければ、おれもああなっていたに違いない。ヤツは類いまれなる才能の持ち主で、樹木と藪に囲まれた森はヤツの才能を発揮するのにもっとも適している。かつてヤツが暮らしていた東京の林立したビルや人混みでは存分に振るわれなかった才能だ。

 人狩りの天才。ヤツは生まれながらに研ぎ澄まされた五感をもって生まれた。人の腹から野生の狼が生まれ落ちたようなものだ。そんな人間もどきが社会に馴染めるはずがない。雑踏と騒音、ネオンと電光、排気ガスと香水。それらの充満するあの街に居場所などない。ヤツがはじめて人を狩ったのは、十二のときだったという。以来、その行為に憑りつかれているのだ。

 おれたちは様々な理由で外道に落ちたが、ヤツはただの化け物だ。

 そんな化け物を、あの女はどんな手段を使って手懐けたのか。

 とにかく今は考えるより、逃げることが最優先だ。おれは彼女の手を取って暗闇を手探りで進む。樹海の隙間からか細く差し込む、一条の月光を頼りに森を抜けようとする。

「ねぇ、ほかの人たちはどうなったの? どうして誰もいないの?」

「わからない……阿弥陀堂の隠し通路を抜けたのはおれが最後だった。運よく逃げ延びてくれることを願うしかない」

「あの子は? あの子も脱出したのよね?」

 彼女のすがるような眼を見ることはできなかった。おれはただ無力に首を振る。

「おれたちの計画は事前に察知されていた。仲間内に内通者がいたんだ。あの子を逃がす暇はなかった」

「そんな……」

「その代わりに聖地のなかで、もっとも安全な場所に隠されたはずだ。計画が破綻したとわかったときに、おれたちは決断した。脱出を強行するグループと内に潜伏するグループに分かれることに。幸い内通者もおれたちの全員を把握しているわけじゃないからな」

 おれたちはいくつもの小さなグループに分かれ計画を遂行していた。芋づる式に全員の面が割れることを恐れたからだ。追っ手から潜伏し、逃れることは、おれたちにとってあまりにも日常だった。それが油断に繋がった。手慣れているつもりで、相手も同じ思考をもつ人間だと忘れていた。計画の全容は見抜かれ、脱出の先回りをされた。残された希望は潜伏組と今ここにいるおれたちふたりだけ。

「それじゃあ、あの子は閉じ込められたままってことじゃない。そんなの、生きていても死んでいるのと一緒よ。さとしさんがそう言ったのよ」

 彼女の糾弾が胸に刺さる。そうだ、これはおれの甘さが招いた失敗だ。多くのひとを救えず、多くの命が消された。

 解放などと気取ったせいかもしれない。おれのような犯罪者が自分の本心を偽って、善人ぶって人助けをしようなどと詭弁を弄したからだ。こんなものは罪滅ぼしだ。自分が死んであの世に行くときに、ほんのちょっとでも減刑してもらえるように。この子を助けることで罪悪感を薄めようとしたに違いないのだ。

 彼女は震える指で、おれの服を握り締めた。決して離さぬよう。幼児が親に置いて行かれまいとするように。

「助けてよ。あなたしかいないんだから、助けてよ」

 ほんの数年の付き合いだ。体ばかり大人になっていく彼女の心は、飛び方も知らない雛同然だ。導いてやるものがいなければ、死んでしまうかもしれない。偽善でも、建前でも、罪滅ぼしでもいい。この子には、今おれしかいないのだから。

「もしあの子を助けたいと思うなら――」

 不意に葉擦れの音がした。おれと彼女は息を詰める。

 まだ遠く、微かな音だったが、不自然な物音だった。森に風はない。虫どもすら鳴かぬ、異様な静寂が横たわっている。森全体が息を潜めている。

 今の物音は動物か、それともヤツか。

 いや、間違ってもヤツがそんな物音を立てるはずがない。狩りの最中にへまなどしない。もしその程度のヤツなのであるならば、とうの昔に捕まっていたはずだ。

 ならば、意図的に立てられたものか。

 じりじりと忍耐が削られていくなか、再び物音がした。今度は先ほどよりも大きく、こちらに迫り藪を掻き分ける、動きのある音。

 逃げるべきか、留まるべきか。一歩間違えれば死が近づく。

 移動しようと低くした頭を動かしたとき、十数メートル離れた藪から何かが飛び出した。懸命に藪を抜け逃げようとする何か。しかし――断末魔が森に木霊した。それは人間の鳴き声だった。

 ヤツだ。ヤツが誰かを仕留めたのだ。

 拾える範囲で複数の物音が一斉に駆けだす。中には悲鳴をあげるものもあった。

 最悪の展開だった。おれたちははじめからヤツの狩場のなかで弄ばれていたのだ。生き残りはおれたちの他にもいた。正確にはわざと見逃されていた生き残りだ。そうして、森に放たれ逃げ惑う獲物たちをヤツが狩る。そういう遊び。マンハント。間違いなく、ヤツは人狩りを楽しんでいる。

 複数人を同時に逃がしても尚、絶対に逃がさない自信があるのだろう。あるいは数日かけてでも山中を追い回して、必ず仕留めるつもりなのか。

 いずれにせよ、おれたちからは捕食者の姿すら見えない。取れる作戦はひとつきり。ほかの生き残りを囮にして、時間を稼いで逃げきる。これだけだ。ヤツと勝負してはいけない。いかにほかの生き残りより目立たず、隠れながら長距離を移動できるか。

 この夜の間に麓に出ることは不可能だ。直線距離でも人の足で二日かかる。

 助かる筋道は、ヤツの弱点が現れるのを待つこと。それまで決して殺されないことだ。

 鋭敏すぎることがかえって仇になる。ヤツは日光を極端に嫌う。日中は視界が白飛びして、サングラスなしではほとんど目が見えない、とヤツ自身が話していた。暗い樹海の奥。ヤツ自身も必需品のサングラスを手放しているとは思えない。それでもこの作戦に懸けるしかない。

 おれは彼女の手を引いて慎重に移動し始めた。時折、叫び声が鼓膜を揺らし、その度に体が震えた。

 逃げろ、逃げろ。

 生き延びろ、生き延びるんだ。

 これまでの人生で何度も言い聞かせてきたことだった。結局、街でも樹海でもやっていることは変らない。逃げ回るだけのちんけな犯罪者。それがおれの本性なのだ。

 逃げろ。ただそのことだけに全力を注げ。

 生きろ、生き延びろ。それだけがお前の唯一無二の武器だろう。

 そうだ、逃げ足だけで生きてきたんだ。親から、警察から、銃弾から。

 何度目かの絶叫が消え去り、森は再び静まり返る。足を止めて耳を澄ましたが、ヤツの気配を感じ取ることはできない。こちらを見失っているのか。それとも近くまで来ているのか。手斧を拾っていればと悔やまれる。万に一つの可能性だが、撃退できたかもしれないのに。

 右手は彼女の手を握り、左手は懐中電灯。戦うにはあまりにも頼りない。

「あっ」

 突然、手を引いていた彼女が倒れた。何かにつまづいたのか。しかし、彼女を助け起こすより先に、自分の口から叫び声があがった。矢だ。矢がおれの太腿に刺さっている。

「くそっ、仕掛け罠かッ」

 傷口が燃えるように痛む。アマッポだ、毒矢に違いない。彼女が引っ掛かったのは仕掛けの縄だ。獲物が踏みつけたり、引っ掛かれば弾けて矢が飛んでくる。転んだことが幸いして、矢は彼女の上を通過したらしい。彼女の細い足を飛び越えて、突っ立っていたおれに刺さったのだ。

「さとしさんッ」

 彼女の叫びに反応するように、後方の枝が揺れた。ヤツがいる。ヤツめ、わざと存在を示してやがる。

「おれに構うな、走って逃げろッ」

「いや、いやだぁッ、いやぁあ」

 泣きじゃくる彼女はおれの傍を離れようとしない。腿の痛みは広がり続け、膝や股関節まで熱を発し始めた。おれはもう駄目だ。仮にヤツがいなくとも、毒が全身に回るのを止める術がない。このままではふたりとも死ぬ。それだけは何としても避けなければ。

 おれは足の痛みを無視して、片足で何とか立ち上がる。彼女の襟首をつかんで少しでも遠くへ引き摺って運ぶ。

「よく聞け。もし、あの子を助けたいなら……」

「いや、いやだぁ、さとしさんが、さとしさんが何とかしてよぉッ、私だけじゃ、ひとりじゃなんにもできないのにッ」

「いいから聞けッ……七年だ。七年周期で地下水脈の水位が下がる。たった一週間だけ、村から抜ける、道が開ける。今日から数えて、七年後。もし、お前が生きて、あの子を覚えていて、助けたいと思うなら……七年かけて準備しろ。力をつけ、知恵を磨き、心を強くしろ。奪われて泣くだけの人間になるな」

 行く手は下り坂。緩やかだが底まで長い谷が現れる。

 彼女はおれの足に必死でしがみつき、嗚咽を漏らす。

 無力で幼いただの子供だった。

「すべてを忘れてもいい。その時は二度と戻って来るな。おれのことも、あの子のことも、村のことも。なにもかも、記憶を捨てて別人として生きろ。お前には何の罪もない。なにかを背負う必要もない。逃げろ。どこまでも逃げ続けろ。そこにはお前が欲した、外の世界が広がっているはずだ」

 数メートル背後の頭上、樹木の枝に乗るヤツの気配を感じた。

「行け、都ッ! 走り続けろッ」

 おれは都の背中を谷へと突き落とした。あとはただ、逃げ切ることを信じるのみ。

 足の痛みが限界を迎える。もう下半身の感覚がない。尻もちをつき、荒い息をあげる。視界はかすみ、呼吸が細くなっていく。

 まだだ、まだ死なん。

 真上にヤツの影が覆い被さる。おれをどうやって殺そうか吟味しているらしい。

「こいよ、クソ野郎ッ! おれは簡単には死なんぞッ」

 ヤツが嗤った。一瞬、白い歯が闇に蠢くのがみえた。

「そこかッ」

 懐中電灯を向け、スイッチを押し込む。絶叫が樹海に轟いた。

 直線の光が油断しきったヤツの眼を焼く。暗闇に慣れ切った眼にはさぞかしよく効いたことだろう。ヤツが体勢を崩して、樹上から落下してくる。おれの目の前に落ちてのたうち回る。しかし、凶器の刃物だけは手放さず、すぐにこちらへと切りかかってきた。

 ヤツは手に持った凶器を振り回す。眼を焼かれてもなお、聴覚と嗅覚でこちらの位置を把握しているのだ。対して、おれはあと数分で死ぬ身。動く体力もこれが最後だ。

 ヤツの振り下ろした刃を左腕の肉で食い止める。手首から肘まで、易々と切り裂かれる。一瞬動きが止まればそれでいい。おれは自分の太腿から刺さった矢を引き抜き、毒の塗られた鏃をヤツの足にぶっ刺してやった。

「おれもお前も外道の犯罪者だ。地獄の道連れにしてやるッ」

 捕食者の二度目の絶叫。これでヤツは自ら足の肉を抉らねばならない。追う脚はなくなる。彼女はきっと逃げ切れるだろう。

 怒り狂ったヤツの刃がおれの首を撫でる。溢れ出た血の暖かさも、もはや感じられない。

 おれは走馬燈のなかで、彼女――西家都の姿を見送った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る