8
たっぷりと日が暮れた頃、弓場が迎えにきた。
ぼくは部屋に戻ってから田澤との会話を整理するのに、手一杯で他の人たちがどう過ごしているのかなど気にする余裕もなかった。大抵は部屋で休んでいたようであった。部屋に居てひとつ気づいたことがあるとすれば、ぼくの部屋のちょうど真裏に厠があること。室内に居ても足元を流れる水流が、床越しに聞こえてきた。夜に眠れるのか不安だ。それともこんな状況では深く眠らないほうがいいのだろうか。
「国見先輩の姿を見た人は?」
弓場の呼びかけに応じて外にでるが、国見の姿が見当たらない。部屋にもいないようだ。真っ暗な闇の中に視線を投げかけるも、動いている灯りはない。
空洞の夜は月明かりも満足に差しこまないため非常に暗い。唯一、阿弥陀堂だけは煌煌と赤く松明で浮かび上がっているが他の建物は影にしか見えない。
灯りを持っていなければ、段差のある地形を歩き回ることは難しい。目を凝らせばぼんやりと白い畦道が浮かび上がるけれど、濡れて滑りやすい道を歩けるか怪しいものだ。
「お揃いのようですので、参りましょう」
弓場は気にも止めず、一行の先導をはじめる。真っ暗な道を、各々灯りを使って足元を照らし歩く。ぼくは自前の灯りを持っておらず、やむなく部屋の灯籠を取り外して代わりとした。
「予想はしていたけど、電気もないんじゃ何も見えないか。まだ宵の口だってのに、森の夜と大差ないわね」
黒江が道を踏み外し、池に片足を突っ込んで毒づく。暗いだけでなく、気温も下がりはじめている。周囲が水場で囲まれているだけあり、季節的なもの以上に冷える。この空洞は、昨晩夜を明かした谷底よりも高い位置にある。その分だけ夜は凍えるだろう。
一行は再度、阿弥陀堂の前へとやってくる。池の周囲には数十本の松明が燃え上がり、円い天井から覗いた星空を焦がしている。
「ここは池ではなく、地下水脈が露出しただけだったのですね。洞窟の天井が崩れて、偶然この形状になったのでしょうね」
田澤が淵を観察していう。
阿弥陀堂は楕円形の淵に浮かぶ浮島のうえに建つ。近づいてみて分かったことだが、この淵の水には流れがある。足元に潜り、どこに流れているのかわからない。落ちれば水温で凍えるより先に、流れに押されて呑み込まれるだろう。照らしても底は見えず、足が付くほど浅くはない。
「そんなところに建っているだなんて、ぞっとしませんね」
ぼくらは陸地とただひとつ繋がる橋を渡っていく。煤で汚れたような錆赤の欄干から離れて、中央を一列になって渡る。大人ふたりが両手を広げられる幅で、古びた外見に反して堅固に造られている。橋はぼくら五人が一度に乗っても沈んだりしない。橋自体は水面から離れており、緩やかに弧を描いて浮島へと繋がる。
阿弥陀堂の前には西家と、彼女に従う付き人たちが扇状に並んでいた。
「待ちかねておりました。宴の準備は整えております。今宵は阿弥陀様の奇跡を存分に味わっていただきましょう」
ぼくらは西家に続いて堂内へと階段をあがる。阿弥陀堂は全体が木組みのうえに床面がある高床になっており、浮島の地面からはひと一人分高くなっている。改めて見ると圧倒される見事な建物で、反り返った瓦屋根は三つ股の組み物で支えてあり、他の白い箱型の建物とは比較にならない華美で複雑な構造をしている。木材は例外なく黒ずんだ錆赤色で塗られ、壁の白い漆喰との対比が目に焼き付く。中央の堂は一辺が柱七本の正方形で、左右両翼の廊下を挟んで小さい柱五本正方形の部屋がある。上下、左右が対称なつくりになっている。
堂内は外観と異なり、円筒形の空間になっている。角が丸い室内の壁は一面黒ずんでいる。天井からは金色の装飾で飾られた灯籠がいくつも吊り下がり、炎に熱された空気で揺らめく。堂の中央には斜幕の掛けられた台座が、それを囲むようにぼくらの席が用意されている。座席のひとつはすでに埋まっており、姿を見かけないと思った国見が座っていた。
「国見先輩、先に来ていたんです。行くなら一言あってもよかったのでは?」
「忘れていただけだ。ちょっと、確かめたいことがあったからな」
黒江がひと睨みしても、彼は軽く流したのみ。
「お前、変な気は起こさん方がええぞ。今さら、後にひくことなんぞできん」
山素が小声で釘をさした言葉が、最後尾で入ったぼくに聞こえる。相変わらず、彼らはなにか企んでいるらしい。しかし、その内容までは把握できない。
「気味の悪い空間ね」
蓮の台座を囲んで、各々半円に広がり席に着いたぼくらは息を詰める。それもそのはず。堂内にずらりと並んだ覆面の付き人たち。三十人はいるだろうか。みな一様に痩せこけ襤褸を纏っている。ぼくらの外側に円を為して座り、一心に祈りを捧げている。
そして、あの甘ったるい香りだ。堂内で焚かれているお香のものだろうか。円筒形の堂内が紫煙で曇り、息苦しさに拍車をかけている。黒江などは袖で口元を覆い、不快感を隠そうともしない。
「始めよ」
ぼくらが入ってきた観音扉の入り口が閉じられると、西家が合図を出した。弓場が深い響きのある鐘を鳴らす。頭のうちが揺さぶられるような波のある反響が耳朶を打つ。
『光顔巍巍 威神無極 如是焔明 無与等者 日月摩尼 珠光焔耀 皆悉隠蔽 猶若聚墨――』
付き人たちは一斉に立ち上がり、足を踏み鳴らし、堂内を震わせる声で経を唱え始める。
床が揺れ、吊るされた灯籠同士がぶつかり合う。阿弥陀堂が軋み上げるほどの大勤行。山素や国見などは怯えた顔で耳を塞いでいる。かくいうぼくも、とてもじゃないが平静な態度で椅子に座っておられず、床にへばりつく。今にも建物が瓦解し、淵の底に沈んでしまうのではないかと恐怖した。
田澤はこんな時でも好奇心に目を輝かせ、音の大小など気に留めた素振りもない。黒江は細すぎる眉を歪めて、毅然と西家を睨みつけていた。
『南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏』
聴覚が麻痺して読経が耳鳴りに変り始めた頃、再び鐘が鳴り響く。
「御開帳ッ」
西家の掛け声で、台座を取り巻いていた斜幕が取り除かれる。
そこには阿弥陀様と呼ばれた少女がいた。ただし、人の形を留めてはいなかった。
「仏さまはその身を投げ打ち、飢えた虎に我が身をお与えになられた。阿弥陀様もまた慈悲を示された。その身をもって我々をお救いになる。我々はその身を食らい、阿弥陀様の無量なる光明の一片を取り込む。この身に智慧を授かり、ただひとつの悟りへと至らんと欲す」
少女の生首と目が合った。
「人間の活き造り……なんて悪趣味な」
それは誰の呟きだっただろう。辺りに漂う香りのせいで、血の匂いには微塵も気が付かなかった。意識してしまえば、辺りはもう血の匂いで満ち満ちていた。
少女は首から下の肉という肉を切り分けられ、あばらと骨盤を器に見立てられ、一口大の切り身が並ぶ。あたかも自らを差し出すように両手のひらで抱えられた人肉の盛り。血液は腸詰にされ、肝臓は小鉢に盛り分けられる。頭部を取り囲むように、肉の鮮度を生かした料理たち。
「地獄じゃ、地獄の刺し盛りじゃッ」
山素が叫び上げ、半狂乱になって扉をこじ開ける。
逃げ出そうとした彼は、扉の前で立ち尽くした。
「橋が……橋が、消えた」
外は暗闇に沈んでいた。松明の灯りが消えて見えないわけじゃない。水面には阿弥陀堂の灯りが映っている。ないのだ。先ほどまで陸地と浮島を繋いでいた橋が、どこにも存在しない。
「阿弥陀様が自らの神通力をお示しになったのだ。仏の光と一体となるのだ。阿弥陀様の肉を通じ、我々は生の本質を理解する。生のあらゆる苦痛から解放される。極楽浄土がこの地に現れたこと。阿弥陀如来のおわすこの地こそ、極楽浄土であることを確信するのだ」
西家は肉盛りから、血を吐き出し萎んだ心臓を取り上げる。少女のものだったであろう心臓にかぶりつき、白すぎる歯を鮮血に染め上げた。
「喰らえッ」
そこから先は人の、人たる理性は存在しなかった。
付き人たちが覆面をかなぐり捨て、飢えた獣のごとく少女の肉に群がった。我先にと血肉を啜り、踊り狂い、嬌声をあげ、転げまわる。床が、壁が飛び散った血液と肉片で赤黒く染まっていく。それらは、この阿弥陀堂の黒ずんだ錆赤に馴染んで、ひとつの狂気となっていく。
枯れ木のようだった付き人たちは、生の快楽を取り戻し、だらしなく口を開いて言葉にならぬ嗤いを叫ぶ。
ぼくらは呆然と目の前の光景を眺めた。あまりに現実を離れていた。夢ならば間違いなく悪夢。
西家都がその台座の中央で、長ったらしい法衣を広げ舞う。肉を踊り食い、悦楽に血を滴らせる。
「この邪教徒どもが」
黒江の吐き捨てた言葉は、ぼくの心情を代弁していた。
こんなものが仏の救いであるはずがない。
「さあ、御客人方も遠慮為されず、箸をとられよ」
その瞬間、誰もが危機を察した。西家の号令を合図に、亡者のごとき付き人たちが襲いくる。
逃げ出すことは叶わない。橋は消え去り、手足は付き人たちに拘束される。細枝のような手足のくせに、付き人たちは恐ろしい力で自由を奪う。ぼくの体の肉すら引き千切り、喰らおうとするほど。力任せに皮膚が引っ張られ、体のあちこちが裂ける。
ぼくと国見は組み伏せられ、水に飛び込もうとした山素はすんでの所で引き倒される。腹這いに押し潰され、口だけが無理矢理開かされる。
「嫌だ、いやだぁッ」
山素の悲鳴が響く。ぼくは喉を引きつらせ、叫ぶこともできない。一体、ぼくたちには何の罪があってこんなことをさせられているのか。鼻先まで迫った付き人らの黴た匂いに涙がにじむ。
そんな地獄絵図の最中にあって、進んで肉を摘み上げたものがいる。
黒江だった。
「馬鹿々々しい」
彼女は脂身が少なく、皮膚のついていない赤身を一切れ摘まむと、西家に見せつけるように喉奥へと流し込んだ。何のためらいもない、狂気の沙汰だった。
田澤に至っては、なにかに憑りつかれたようにしたたり落ちた血を舐め、啜る。その表情は理知的に伝承を語っていた面影は何処にもない。みな、この場を支配する狂気に呑まれ始めているのだ。
残るぼくら三人は、こじ開けられた口にどこの部位とも知れぬ生肉を押し込まれる。吐き気がこみ上げるが、付き人どもに顎を固められ、呑み込む以外に道はない。
湿った肉塊が喉を滑り落ちる。その感触をたっぷりと時間をかけて味合わせられた。
「これであなた方も、極楽浄土の一員となる資格を得ました」
いやらしい笑みがぼくらを台座の上からぼくらを見下ろした。
西家は最後に残った少女の生首を法衣の袖で覆うように拾い上げる。付き人たちは満たされた腹を抱え、その場に平伏する。
「阿弥陀様は無限の寿命と、限りない光をもって我々をお救い続けてくださる」
西家が袖を払いのけると、そこには傷ひとつない体を取り戻した少女が立っていた。首と体は間違いなく繋がっており、生白い四肢は瑞々しい。実体があって、幻ではない。
少女はくるりと回って見せると、無垢な瞳で微笑んだ。
「阿弥陀様は奇跡を示されました」
付き人たちは涙を流し、合掌し、口々に阿弥陀如来を湛えた。
「如何でしょうか、皆さま。生ける阿弥陀如来の、その奇跡を味わっていただけましたでしょうか?」
少女の奇跡を前にして、再びの大勤行。付き人たちは激しく床を鳴らし、狂気を声高に叫び、阿弥陀如来を讃える。
『南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏』
ぼくらは拘束を解かれていたが、体を床に投げ出したまま動けずにいた。胃の底から湧き上がる熱気。思考が緩み、手足の力が緩くほどけていく。異変を感じ警告を発しようとしたけれど、呂律が回らない。視界がぐらつく。浮遊感で阿弥陀堂がばらばらに砕け散る。炎が渦を巻き、灯籠から飛び出して床を舐める。星の光が降り注ぎ、少女と西家の背後から陽光が線を引いて輝かせる。
なんだ、これは。
勇敢に立ち向かった黒江も膝を突く。ぼくはのたうつ床のうえで、転がり、踊り、光に体を貫かれた。
『青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光』
青い蓮の花びらが聞こえる。黄色の鮮やかな色づきが香る。鮮血よりも色鮮やかな赤が滴る。目を焼く白い光に空間すべてが覆い尽くされる。
五感が溶け、混ざり、どこかにあったはずの自分が歪んでねじれる。
頭が割れ幻想が流れ込んでくる。何が現実で、なにが幻なのか、判断ができなくなる。
「解き放ちなさい。その身に留めた苦しみのすべてを。さすればあなた方もいずれ、阿弥陀様によって救われるでしょう」
西家の宣下が鐘の音のごとく、層になって、五感すべてを通じて染みこんできた。
光の中で、ぼくはぼくを失った。
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