「掟とは?」

 田澤が恐る恐るみやこに聞き返す。表情のなかった女の顔に歪な亀裂が走る。ぞっとする、人間の物とは思えぬ惨たらしい笑みだった。

「到来の地を暴くもの、びるばくしゃ来たりて打ち取り給ふ。汝いたりて、これより浄土を探してはならぬ」

 歌い上げるように、朗々と空洞に響き渡る。

 掟とは言ったものの、具体的に何がどうと述べられたものではない。ぼくには意味が分からなかったが、ほかの者たちもそれは同じようだった。

「今夜はささやかですが歓待の宴を催しましょう」

 みやこは意味ありげな笑みを残し、浮島の赤黒い建物へと少女の手を引いて戻っていった。

 彼女たちが立ち去ると、押さえつけられていた山素は抵抗をやめた。口の中で小さく、何故だとか、死なねば、とか言い続けていたが暴れるそぶりは見せない。ぼくらはひとまず彼を解放する。国見はすぐさま猟銃を回収して、触らせないよう抱き留める。一度地面に落ちて濡れたはずなのに、銃口はいまだに燻り、白い煙を吐いていた。

「平気? ずいぶん蹴られていたけれど」

 黒江が気を遣って手を差し伸べてくれる。

「けがはしてないと思う。それにしても、どうして山素はこんなことを? あれじゃ人間というより、獣だ。弾がどうのと言っていたけれど、銃はそんなにも威力が強いのかい?」

「至近距離でライフルに撃たれたなら、まず間違いなく弾丸が体を貫通するでしょうね。彼女は胴を撃たれた痕跡があった。左胸と右肋骨の下。ライフルの弾丸は回転しながら飛ぶから、銃弾よりも大きな穴が空く。間違いなく臓器を傷付けて、即死はしなくとも、すぐさま手当てしなければ出血で死ぬ。左胸は心臓や大きな血管を掠めていた可能性もある。

 私たちが駆けつけた時、あの女の子は倒れていた。撃たれた衝撃のせいかはわからないけれど、仰向けにね。死んだとおもったけれど、あの子は私たちの目の前で立ち上がった。なにごともなかったかのように」

「着物を剥がされたときにはそれらしい傷跡は見当たらなかったよ。まして、体を通り抜けた弾なんて、どこにも……着物にだけ穴をあけて弾は消えたってことになる。弾は一体どこに行ったんだ?」

 あたりを見回してみても何かが見つかる訳もなく。あるのは水の流れる青い池と白い大地。なにかが動いた気がして目を凝らしてみるが、それは池から発せられた単なる湯気だった。

「わからない。あるいは弾なんて撃ち出されなかったのかもしれないわ」

 黒江は未だ呆けたままの山素を詰問する。彼の襟首をつかんで激しく揺さぶる。

「あの子を撃ったときのことを詳しく話なさい」

「人間を見つけたんだ……この村にいる人間だ。子供だった、子供を産むだななんて許されることじゃねぇ。頭の先まで怒りが突き抜けて真っ白になっちまった。わしの子もあのぐらいの年頃だった。気が付けば構えていた。一発撃ったら、おかしな声をあげて倒れた。はしゃいだ子供の声だ。間違っても痛がっている声じゃねぇ。だから、近寄って、今度はもっと正確に狙って撃った。弾を込めて、仰向けの胸にむかって撃った。着物が爆ぜたのをしっかりと、この目でみた。間違いなく撃ったはずなんだ」

 ぼくは不思議に思った。なぜ最初に、撃ったことを責めないのか、と。なぜ彼が撃ってしまったのか、聞くべきではないのか、と。国見や田澤をみるが、彼らもまた「なぜ撃ったのか」を聞き出すつもりはないらしい。田澤は不安げな顔をしているけれど、国見は一度首を振ったきりだ。国見の性格ならば、山素を責めると思ったのだが。

「山素さんの言葉を信じるなら、きっちり、間違いなく弾を撃った。そして、当てたということね」

「わしも信じられん。幻でも見せられているようだ」

 ぼくが彼になぜ撃ったのか問うべく、口を開こうとしたとき、割って入る声がある。

「阿弥陀様の御業にございます」

 みやこという女と同じく、黒染めの着物を着た女だ。

「阿弥陀堂の庵主、西家さいけ都の言いつけにより、みなさまのお世話をさせていただきます、弓場でございます。どうぞ、なにもないところでございますが、ごゆるりとお過ごしくださいませ。お怪我をなされた方は私共の方で、十分に手当てをさせていただきますのでご心配召されぬよう」

 弓場と名乗る女は、みやこと同じく数人の御供を連れて頭を下げる。彼女のいう西家都が、先ほどのみやこという女なのだろう。格好こそ似通っているが、弓場は西家に比べると幾分質素だ。裾も短く、所作の飾り気もない。削ぎ落したごぼうのような雰囲気の、やつれた中年の女だ。

「それから、申し訳ございませんが、あなた方には監視を付けさせて頂きます。猟銃もお渡し頂けますでしょうか。暴発とはいえ、このようなことを何度も起こされては困りますので。双方の安全と無用な諍いを起こさぬためです」

「理解しております。例え事故でも、ひとに銃口を向けてしまうなどあってはならぬこと。逗留を許可して下さった寛大なお心に感謝いたします」

 弓場の言葉に、田澤が深く頭を下げる。ぼくは少なからず驚いた。山素は明確にひとを撃ったというのに、それを事故で済ませようというお互いの態度に。死人こそ出なかったが、水に流せるものではない。もしかして、ぼくの感覚がおかしいのだろうか。

 次いで、混乱が収まり余裕を取り戻しはじめた国見が弓場に突っかかる。

「あの都とかいう女、庵主と言う割に派手な格好だったじゃないか。法衣も着ずに尼なのか? あれじゃ十二単の平安貴族だぞ。色だけ揃えればいいってもんじゃないだろう」

「あれも当世流の法衣でございます。ここは俗世とは長く関わりをもっていなかったものですから、色々なことが異なるのでしょう。あまりお気になさいませぬよう……それではお屋敷にご案内いたします」

 ぼくはここでも違和感を覚える。国見の質問の仕方は、まるで華美な服装をした西家を非難するような言い方だった。彼ら一行の目的は生き仏の調査のはずで、住人との対立ではないはずだ。山素にしても同じことが言えるが、なぜか彼らはこの村の住人を快く思っていない節がある。むしろ、敵対的と言ってもいい。

 疑問が喉にしこりとなって残る。

「ご質問はまた後程」

 弓場はそれ以上の質問を遮り、彼女は一行の先頭に立って歩き始める。それ以上口を挟むこともできず、渋々ついて行く。

 ぼくはこの間に黒江の隣に並び、気になっていることを聞こうとする。

「あのね……赤ちゃんじゃないんだから、なんでもかんでも聞けばいいってもんじゃないの。私だっていくつも考えることがあって忙しいわけ」

 黒江は先手を切ってぼくを睨んだ。

「少しは自分のことがわかったの?」

「いいや、なんにも。ちっとも心当たりなんか」

「ええ、そうでしょうね。そうでしょうよ。まったく、気楽なもんだわ。ひとりだけ行楽気分なんでしょ」

 彼女は水面を蹴り上げて、ぼくの体を飛沫で濡らした。これじゃ不機嫌な子供と変わらない。澄ました顔をしているけれど、内面は案外癇癪持ちなのだろう。

 それでも聞かねば始まらない。ぼくは期を見計らって、再び隣に並ぶ。

「どうして人殺しの現場を、事故で流すことができるの? ぼくらにとっては追い出されないだけありがたい計らいだけれど、どう考えてもおかしいよ」

 ぼくは周りの人にまで聞こえないよう、声をひそめて問いかける。

 人を殺そうとした山素を監視程度で自由にさせておくことに、ぼくは大きな不安を覚えていた。またさっきの様なことが起こらないとも限らない。どうしても森の中の御堂でみた、あの惨劇とつなげて考えてしまうのだ。山素は憔悴して歩くのもおぼつかない様子だが、一度芽吹いた恐怖心はぬぐえない。

「じゃあ、手足を縛っておいとく? それとも熊の徘徊する森へ、ひとりで放り出す?」

「そういうんじゃないけど……」

「あのね、ここに警察はいないの。警察なんていってもわからないだろうけど、人間が法や規則を守るように見張る存在はいない。人を殺しちゃいけません、ものを盗んじゃいけません、壊しちゃいけません……そんな法はどこにもない。あるのは仏さまの力によって保たれている、奇跡と罰による秩序だけ」

「警察ぐらい知っているよ。人々を守る存在だ」

「違うわ、法と社会を守る存在よ。人間を守っているわけじゃない。それでその警察さまはこの山奥にはいないし、泣き叫んで助けを呼んでも来やしない。ここでは人を殺そうとすることは、それほど悪ではないのよ。そもそも善悪の基準が違う。ひとえに仏――阿弥陀様が許すか、許さないか。彼女の威光が唯一無二で、善悪の基準。絶対の法なのよ」

「そ、それじゃあ、あの子が許せばなにをしたって、どんな振舞いをしたっていいってことに」

 黒江は呆れて息を吐いた。

「現にその通りでしょ。ごく限られた数人の権力者が、多くの人間を好き勝手に従わせている。仏法の名のもとにね。みなさい、西家都に弓場、阿弥陀様。彼女たちの身なりはとても良かった。けれど、お付きの彼らはどうかしら」

 彼女の指示に従って、先導役の弓場に付き従う供の者たちに目を向ける。

 彼らはほとんどぼろ一枚の格好で、黄色が薄汚れて茶色になったような布きれを着ている。水にぬれた足元は草鞋で、割れた肌には汚れが詰まって黒ずんでいる。そして、もっともおかしなことには顔を隠すように、すっぽりと覆面に覆われていること。

 そのあまりに貧しく、みすぼらしい姿にはどこか覚えがあった。

「おそらく、彼らは仏の顔を直接みることができない地位なのよ。渋染だなんて、時代錯誤もいいところだわ」

「どうして彼らは黙って従っているんだ? こんなの不公平じゃないか。法がないっていうなら、彼らだって好きにできるはず」

「さっき言ったこと、もう忘れたの? 仏の意向がすべてなの。阿弥陀様がそうお決めになったことから逃れられないのよ、彼らは。逃げられないように縛り付ける術を心得ている。あの女は」

 憎しみを噛み締めた黒江の声色。どうして彼女はこれほど内情に詳しいのだろうか。何もかも知っているような口ぶりだ。とても一目見て察しただけとは思えない。黒江だけじゃない。大学の調査で訪れたはずの彼ら全員に対する違和感だ。彼らの目的は、本当に生き仏について調べるためなのだろうか。

「きみたちは一体――」

 言い掛けて口ごもる。

 きみたちは一体、何者なんだ。それを今、彼女に問うてもいいのか。

 自分が何者かもわからないぼくは、その判断を下せずにいた。

 なにか、よくないことに巻き込まれている。それだけははっきりと理解できた。

 ぼくはただ、自分のことが知りたくて外に逃げ出しただけなのに。

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