クロスドミナンス【KAC20221二刀流】
雪うさこ
天才か? バカか?
くぐもった鐘の音が響く。
「仕事。残業」
そこで初めて、客に視線を向ける。相手の男は左手を振って、「鬱陶しい」と言わんばかりの表情だった。
「形式上の挨拶。社交辞のようなものだよ。
中嶋はきらりと光る笑顔を見せた。彼はこの喫茶店の店主である。大英博物館に展示してあるような、ギリシア彫刻のように、彫の深い顔には影が差し込んでいる。鳶色の瞳は、生き生きと輝いている。その瞳と同じ色の髪は艶めき波打っていた。
一方の男——宮城は、中嶋とは違ったタイプだ。まるで死んだ魚のような瞳は、うすぼんやりとしてて、血の気もない。中嶋と比べると、まるで生気の感じられないのだ。更に、白髪交じりで短く切り揃えられている髪は、彼を年上に見せる。
二人は同級生だった。小学校からの腐れ縁——とでも言うのだろうか。進学し、一時期離れたことはあったが、地元に戻ってきた中嶋は、喫茶店を開店。宮城は市民病院で精神科医をしているのだ。
「珍しい。客が一人もいないだなんて」
「台風の予報が出ているからじゃない。雨、どう?」
「風は強くなってきたけれど、まだ降ってはいない」
宮城は隣の空いている椅子にリュックを置くと、ほっと一息吐いた。
「昨日は夜勤だったの? ねえ医者ってどうして、夜勤した次の日も勤務するんだよ。寝る時間あるの?」
「人手不足だよ。それに夜間帯は、余程のことがないと医者は出番ないし。看護師は忙しく働いている。僕は当直室で学会の資料でも作ってのんびりさせてもらっているだけだから、翌日くらい勤務しないとバチが当たるね」
中嶋はコーヒーを差し出す。取っ手を左に向けて——だ。
「ありがとう。中嶋はよく気が利くものだな」
「接客業ってね、客のことを、よくよく観察して、理解しておくのが大切だよ。ちょっとした気遣いで、常連さんになってくれることが多いからね。僕は小学校の頃、左利きに憧れてたなー。宮城の真似をして、左手で字を書く練習もしたっけ。全然ダメだったけれども」
コーヒーを口に含んだ宮城は、口元を緩めた。
「珍獣を見るような扱いだろう? 僕の時代は、無理矢理矯正させられたものだ。結局は治らなかったな」
「左利きって頭よさそうに見える。いや、事実やっぱり頭がいいんだよね。宮城は医者にまでなったんだもの。やっぱり、利き手で使う脳が違うからなのかなあ?」
「右利きは言語中心の左脳。左利きは情報処理中心の右脳。使う場所が違うだけだろう。どっちがいいなんてことを議論するのはナンセンスだ」
二人が話し込んでいると、喫茶店の扉が乱暴に開かれた。ドアにぶら下がっているベルが、大きな音を立てた。
「おうおう! 久保様のお出ましだぜい」
泥だらけの長靴に、土やほこりで汚れたモスグリーンのつなぎ服を着た男——久保が顔を出した。
「なんか。お前が来るとうるさいなあ」
宮城の隣に座った久保は、嫌がる彼の肩を左手で掴むと、ゆさゆさと揺すった。
「——なんだよ。そのしけた
「もう話す気が失せるわ。ねえ黙ってくれないかな」
「なんだよ。小学校からの
三人は小学校からの親友である。久保だけが、毛色の違っている男だが、小さい頃から、同じ時を共にしてきた親友でもある。
大柄で筋肉質。粗雑な仕草を見せる久保は、大人の社会で生きていくには苦労をするタイプだが、心根は優しく、人情に厚い男でもあった。
「なんの話していたんだよ?」
「なんでもないよ」
面倒くさいとばかりに、宮城は話を打ち切ろうとするが、中嶋が「利き手の話だよ」と説明をした。
「宮城は左利きだろう? 左利きって、なんだか頭がいい人が多いよねって話をしていたんだ。そう言えば……久保も左利きだね」
「中嶋。左利きは頭がいいなんて仮説は、この男がぶち壊しにしてくれているよ」
「お前、本当に失礼だな。いいか? おれは左利きじゃねえ。両手利きなんだぜ!」
「そうだっけ?」
中嶋は宮城の時と同じく、取っ手を左に向けてから、カフェオレのカップを久保の目の前に置いた。
「おれは両方使えるんだ。字書く時、パチンコする時は右。絵描く時、煙草吸うときは左。両手使えるのは便利だぜ。喧嘩の時は、両手でパンチかませるだろう? ボッコボコにしやすいし」
「知らないよ。喧嘩したことないし」
宮城は久保を見てため息を吐く。
「それより、両方を使い分ける人のことを、クロスドミナンスって言うんだっけ?」
「クロスドミナンス——日本語に置き換えれば『交差利き』ってやつだ。用途に応じて、使う手を変える。それが交差利き。それに対して、同じ作業を両手でこなせるのが『両手利き』という。久保の場合は、話を聞く限り交差利きじゃないのかな」
「昔から両手を使える人って、天才肌が多いってイメージがあるよね。ネットでレオナルド・ダ・ヴィンチもそうだったんじゃないかって書いてあったよ」
「どこまで本当なのかわからないけれど。いっぺんに同じ動作を両手でこなせたら、確かに効率はいい話だけれども」
「その話を聞くと、なんだか久保とはかけ離れ過ぎているみたいだね」
中嶋は気の毒そうに久保を見る。それに釣られて、宮城も「残念だね」と言った。
「久保の場合は、きっと右脳も左脳も使うから、連絡がうまくいかないんじゃない? だから、混乱して誤作動ばかり起こすんだよ」
宮城の意見に中嶋は「激しく同意だね」と言った。
「クソ野郎! 失礼なこと言うんじゃねえ。ほら見ろ!」
久保は、カウンターの端に設置されているピンクの公衆電話のところから、メモ用紙を引っ張り出すと、ポケットに入っている自分のボールペンと、メモ用紙と一緒に据え付けられていたボールペンとを両手に持った。それからメモに何やら描き込み始めた。
その光景は異様だ。右手と左手が、上手くかみ合って、一つのイラストを描き出す。
「字は右手。絵は左手って決めているんだ。なら、両手でも描けるはずだろう? おれは、そのクロ……、クロス……なんとかって言うんじゃねえし。もっとすげえ両手利きってやつだしー」
ぶつぶつと文句を言いながらも、両手で書いている様は、異様な光景に他ならない。宮城は「はあ」と感嘆の声を上げた。
「見慣れぬ光景とは時に、我々に畏怖の念を与えるものだな」
しかし久保は、関係ないとばかりに動物のイラストを描き上げた。
「どうだ! ジャジャーン! おれだって、両手で絵が描けるんだぜ!」
宮城は目の前に突き出されたメモ用紙を眺めて、それからため息を吐いた。
「ねえ、なんの生き物? 両手が使えるからと言っても、そもそものスペックが低ければ、こんなものだね。両方使っているというのに、人並以下とは……。目も当てられないっていう言葉があるけれど、まさにそれだね」
「確かにね」
「うおおい! 失礼だな。これのどこが……」
久保は自分で描いた絵を眺めて黙り込んだ。
輪郭がうねり、形を成さないイラストは、まるで幼稚園児の作品のようだ。いや、今時の幼稚園児はもっと上手く描くのではないか。
「そっか。うん。よく理解した。人はないものねだりをする。隣の芝生は青く見える。しかしそれは、よくないことだ、とよく理解した! 久保。ありがとう。もう僕は左利きに憧れを持つことはやめることにするよ」
「中嶋! なんでだよー。なんだか、よくわからねえよ」
「いいんだよ。キミは永遠にわかる必要はない。確かに生まれながらの天才という者が、世の中には存在する。だが天才の中には、自らの努力でそれを手に入れる者もいるということ。いくら良い素地が与えられていても、それを生かすも殺すも本人しだい、というわけだね。僕は僕だ。今の僕が好きだ。左利きであることも含めてだ。中嶋はどうだい?」
宮城の問いに中嶋も頷く。
「そうだな。僕もそう思うよ。右利きだって、僕は僕だものね」
中嶋の言葉に、久保は「んなもん、当然だろう」と笑った。
「おれは世界で一番、おれが好きだぜ。自分で自分のこと好きじゃねえだなんて、情けねえ。自分がかわいそうじゃねえか。生まれてから死ぬまで、ずっと一緒なのはおれだけだ。おれが、おれを理解してやらねえでどうする。なあ。そうだろう? ——おれは久保貴志のマイ・ファンクラブ、会員番号0番だぜ。つまりな。会長ってことだ!」
久保はこぶしを握り締めて、自分の胸を叩いた。中嶋と宮城は顔を見合わせてから、口元を緩める。
「久保には敵わないな!」
「本当だ。バカはバカ。けれども、ここまで突き抜けたバカは清々しいね」
「なんだよ! それ褒めてるのか? なあ。おい。宮城。褒めてるんのかよ?」
「さあねえ。自分で考えなさい」
「気になって眠れねーだろうがよお」
「久保が不眠で悩んでいるって聞いたことないから。大丈夫じゃない」
目の前でじゃれ合っている宮城と久保を見て、中嶋は笑みを浮かべた。
——そうか。自分で自分を好きにならないでどうする……か。
「どれ! 夕飯作ろうかな。なにがいい? 二人とも」
「おれはナポリタンな」
「僕はサンドイッチ」
「おい、おれに合わせろよ。中嶋が大変だろうがよお」
「うるさいね。自分の気持ちに素直になろう。それがファンクラブの掟その一だ」
「はあ? 真似すんじゃねーぞ。こらぁ! ファンクラブを考えたのは、このおれ様だからな!」
中嶋は言い争っている二人を他所に、カウンターからフロアに出る。それから出入口の扉を開けて、外にぶら下がっているプレートをクローズにひっくり返した。
—クロスドミナンス 了—
クロスドミナンス【KAC20221二刀流】 雪うさこ @yuki_usako
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