第2話

 部屋に引きこもったまま、六日ほど過ぎた時のことだった、まだそのままになっていた荷物のひもを切ろうとして、うっかりナイフで手を切ってしまったのだ。傷は思いのほか深く、部屋にあった傷薬ぐらいでは、処置できそうになかった。

<仕方がない、医務室へ行くか>


廊下を歩いていると、向こうの方から西井が来るのが見えた。一瞬引き返そうかと思ったが、血が止まらなかったので、仕方なくそのまま進んだ。


健三はなるべく彼の顔を見ないように足早にうつむいて通り過ぎようとした。だが慌てたせいか、足がもつれて転んでしまったのだった。


「大丈夫?」


西井は、そう言って手を差し伸べてくれた。健三は喜んで、その手につかまろうとした。しかし彼の顔を見たとたん、健三は叫んでしまった。


「うわー!」


西井の目が、真っ黒になっていたのだ。

健三の声を聞いた職員が、彼のところに駆けつけた。


「岩見さん、どうしたんですか⁈」


話すこともできずに震えていると、彼は直ぐに医務室に運ばれた。

そこで健三は、思い切って今までのことを全て医師に話した。案の定彼は、認知症を疑い、病院で検査するように言った。それはショックなことだったが、その反面彼の中では、不思議と安堵感が広がっていった。


<やっぱり、全部幻覚だったんだ>


 ケガの処置をしてもらって部屋に戻ると、飲んだ痛み止めのせいか、すぐに眠くなってきた。


 目覚めると、すっかり日は沈んでいた。ベッドから起き上がると、誰かの視線を感じた。それは窓の外からだった。恐る恐るその方を見ると、少し離れたところに初枝が立っていた。


最初見た時、彼女の顔や身体が、溶けているように見えた。だがよく見ると、ドロドロの黄色い液体が流れだしていたのだった。


それはやがて固まり始めた。そして人の姿になっていったのだった。


<誰だろう? 見たことのある顔だ>


また幻覚が始まったと思った健三は、ぼんやりとそれを眺めていた。すると彼のすぐ隣から、突然若い女の悲鳴が聞こえてきた。


「きゃー!」


彼女は、葛城(かつらぎ)という名の職員で、健三のために飲み物を持ってきていたのだった。しかしそれを入れたコップは下に落ちてしまい、中身は床一面にぶちまけられてしまっていた。


「今の、葛城さんにも見えたの?」


そう尋ねると、彼女は顔をひきつらせたまま、激しく首を上下させた。


<だったら、今までのも・・・・・、全部現実だったんだ>


もう一度窓の外を見ると、初枝が、猛烈な勢いで彼らの方へ向かって走って来るのが見えた二人は、慌てて部屋から逃げ出した。


 彼らは他の職員たちがいる場所に走って行った。だがそこには、すでに初枝が先回りしていた。葛城は彼女を見ると、なぜか顔をひきつらせたまま、その場から動かなくなってしまった。


初枝は、彼女にとびかかると、頭から飲み込んでいった。健三は、助けを求めて辺りを見た。すると、近くには数人の職員がいたのだが、皆全く無関心だった。よく見ると、彼らは全員、真っ黒な目をしていたのだった。


健三は、急いで建物の外に逃げ出した。


<もう誰が、化け物かわからない、もしかしたらすでに自分以外の者はすべて化け物なのかもしれない>


 彼は、近くの村へ向かって走った。だが途中で、足を滑らせ崖から落ちてしまったのだった。


幸い朝になって、村人に発見されたのだが、彼は、光園に電話を入れてしまった。それを知った健三は、慌ててあそこで今起きていることを話した。そして必死に村人たちに懇願した。


「頼む! あそこに返さないでくれ!」


健三の目からは、涙があふれ出していた。だが彼は、冷ややかに言い放ったのだった。


「爺さん、あんまり、職員さんの手を煩わすもんじゃないよ」


 やがて男の職員三人が迎えに来た。彼らは、その場にいた村人に笑顔で礼を言うと、健三を後部座席の真ん中に座らせた。その時の彼らの目は、黒くはなかった。


<よかった。まだこの人たちは人間なんだ>


健三は、彼らに初枝のことを話そうとして、右を向いた。すると、彼の目から何かが落ちた。そして、その目は、真っ黒になったのだった。


<うわっ!>

今度はゆっくりと左を向いた。するとそちらの方の職員も、同じ目になっていたのだった。彼らはその目で、左右から健三を見ていた。そしてさらに正面には、バックミラーに映った黒い目が、じっと彼を見ていたのだった。彼は、恐ろしくて気が変になりそうになってしまった。


 光園に到着すると、健三は食堂に連れていかれた。だがそこには椅子もテーブルもなかった。代わりに、床一面に黄色いドロドロしたものが、広がっていた。健三を連れ帰った三人の職員達は、中に入った途端、体がドロドロに溶けていった。そして床の黄色い物体と、混ざり合ってしまったのだった。


よく見ると、その液体の中には、小さなトカゲのようなものがたくさんいた。それらは、ちょろちょろ舌を出すと、そのドロドロしたものを、なめていた。


<初枝は、こいつらの餌を作るために、みんなを食べたんだ>


そこへ、大きな腹の初枝が来た。


<また、誰か食べてきたのか?>


初枝は黄色い液体を、すっかり出し切って元の姿に戻ると、今度は健三の方を向いた。いよいよ自分の番かと思ったが、健三には、すでに抗う元気もなくしてしまっていた。


だがなぜか、初枝は彼の横を素通りすると、いつの間にか床に開いていた、穴の方へ向かった。そしてその中に、ヒョイと飛び込んだのだった。


健三も、恐る恐るそこへ行った。するとそこの方に、巨大なトカゲのようなものが横たわっているのが見えた。


恐ろしくて、悲鳴を上げそうになったが、よく見るとそれは、明らかに死んでいた。なぜなら、身体のあちこちから骨が露出していたのだった。


初枝は、それに近づくと、頬の辺りに、食らいついた。そして肉を食いちぎると、美味しそうに食べたのだった。彼女は、その怪物のあちこちの肉を食べ続けた。


<婆さんは、あれを食べて化け物になったのかもしれない。それにしても・・・・・・>


その怪物から放たれた匂いはとても香ばしく、激しく食欲を掻き立てられた。


<食いたい!>


健三は、口いっぱいに生唾が湧いてくるのを感じた。


<だめだ。あんなものを食べたら、初枝と同じになってしまう>


彼は、必死で耐えた。だがとうとう我慢しきれなくなってしまった。身体が勝手に動いてしまったのだ。


健三は穴の中に飛び込むと、怪物に飛びつき、その肉を無我夢中で食べたのだった。


腹が満たされたとき、彼の下あごは、いつの間にか地面まで垂れていた。傍らでその様子を見た初枝は、ニタリと笑った。そしてしゃがれ声で言った。


「あんたを一目見た時から分かっていたよ、きっと仲間になるって。だから、あんたを襲わなかったんだ」


だがそれを聞いても、今や健三は何も思わなかった。それどころか、ニッコリと微笑み返したのだった。

二人は光園を出ると、仲良く手をつないで、そのまま一緒に山を下りて行った。














 

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最初は・・・・・ 窓百 紅麦 @d001123

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