最初は・・・・・
窓百 紅麦
第1話
その老人ホーム、光園は人里離れた山の中にあった。岩見健三は、迎えに来てくれた職員の車を下りると、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
<ああ、気持ちがいい。来てよかった>
彼は一か月前に妻を病気で亡くし、一人になってしまったので、家を売って老人ホームに入ることにしたのだった。
二階にある自分の部屋に入ると、小鳥のさえずりが聞こえた。窓を開けると、直ぐ下にある湖の水面が、きらきら光っているのが見えた。
<きれいだな。後で、あの周りを散歩してみるか>
だがその日は、事務手続きや荷物の整理などで、忙しくて、どうにか肩が付いたころには、すでに日は傾きかけていた。
<なんだか、疲れたなあ>
ベッドに横たわると、彼はそのまま眠ってしまった。
空腹で目覚めると、夜中の2時だった。持ってきたビスケットを食べると、飲み物が欲しくなってしまったので、部屋を出て自販機を探すことにした。廊下を歩きまわっていると、窓の外から、足音が聞こえてきた。
<こんな夜中に、誰だろう?>
窓を覗くと、誰か歩いて来るのが見えた。街灯の下に来た時、それが久野(くの)初枝(はつえ)であることが分かった。彼女は健三が入った、陶芸クラブの一員だった。(光園には、その他にも、茶道クラブと絵画クラブ、園芸クラブがあったが、健三は土を捏ねたいという、幼児のような欲求からそこを選んだ)
健三は、直ぐにこれは徘徊に違いないと思った。初枝は、90歳をだいぶん過ぎていたし、初めて見た時から、どこかぼんやりとした感じだったからだ。彼はすぐそばの出口に向かおうとした。だがその時、宿直の若い男の職員が、反対方向からやってくるのが見えた。
<ああ、よかった。篠田(しのだ)さんだ>
彼は中に連れ戻そうと、初枝の腕を掴んだ。だがその時、信じられないことが起こった。
突然彼女の口が左右に裂け、下あごが地面につくほどの大きく開いたのだった。篠田は驚きの余りのけ反り、尻もちをついてしまった。彼はそのまま、なぜか動くことすらできなくなってしまったようだった。
すると老婆は、彼の頭を口の中に入れると、そのまま蛇のように、ゆっくりと彼の全身を飲み込んでいった。
健三は、恐怖で床にへたり込んでしまった。
<早くここから逃げなければ>
焦って立ち上がろうとしたが、どうしても足に力が入らない。仕方なく這うようにして部屋に戻ったのだった。
健三はベッドにもぐりこむと、布団を頭からかぶった。だが身体の震えは、ひどくなる一方だった。
<あれは、何だったんだ⁈ 俺の目がどうにかしてしまったのか? きっとそうに違いない。あんなこと、現実にあるはずがない>
冬だというのに、全身汗でぐっしょりになりながら、ひたすらじっと朝になるのを待った。
長い夜がようやく明けたころ、極度の疲れからか、健三は、ウトウトしてきた。だがその時だった、誰かが彼の部屋のドアをたたく音が聞こえてきたのだ。
「健三さん、お食事ですよ!」
ドアを開けた健三は、その人物の顔を見ると、思わず後ずさりしてしまった。そこにいたのは、夕べ初枝に食べられたはずの、篠田だったのだ。
「どうかしましたか?」
彼は、自分の顔をじっと見ている健三に、不思議そうに尋ねた。
「・・・・・・いえ」
< あれは、やはり夢だったんだ>
食堂に行くと、すぐに初枝の姿が目に入った。彼女も相変わらず、ぼんやりとした表情で、テーブルの隅っこに座っていた。
<やっぱり、ただのおばあさんだ。あの人が怪物だなんて、全く変な夢を見たものだ>
健三はそう思い、笑った。
すると、そこへ西井がやってきた。彼は隣部屋の住人で、陶芸クラブの会長だった。
「どうしたのですか? ニヤニヤして。まさかあなた、あんな年上が好みなのですか?」
「いや、まさか!」
二人は大笑いした。
それから一週間ほどは、何事もなく、楽しく過ごした。西井とは、陶芸教室でも隣同士だったので、すっかり仲良くなった。
その日も健三は、教室で作品作りに没頭していた。展覧会に出品する作品を制作するために、皆張り切っていた。
しばらくして、健三はトイレに行きたくなって、廊下に出た。すると、何やら大きな荷物を抱えた篠田が、彼の方にやって来るのが見えた。
「それ、土ですか? まだあるんだったら、運ぶのを手伝いますよ」
健三はそう言って、篠田の顔を見た。すると篠田の目が、まるで獣の様に真っ黒だったのだ。
驚いた彼は、胸が苦しくなってその場に倒れてしまった。
目が覚めた健三は、すぐに自室のベッドに寝かされているのが分かった。
「よかった。目が覚めて」
傍にいた西井は、そう言って優しく微笑んだ。彼は職員に知らせてくると言って、部屋を出て行こうとしたが、健三は、彼の腕を掴んだ。そして彼が見た初枝と篠田のことを話した。だが彼は驚かなかった。そして気の毒そうに健三を見たのだった。
「認知症も、そういう幻覚を見るそうだ。うちの妻もそうだった」
「違う! 本当に見たんだ!」
健三は、思わず大声をあげてしまった。だが、彼は優しく健三の肩を二度ほどたたくと、部屋を出て行った。
それ以来西井は、すっかりよそよそしくなってしまった。
<あんなに、仲良がよかったのに・・・・・・。 やっぱり、あんな話をしたからだな>
それ以来健三は、部屋から出るのも嫌になり、食事も自室で食べるようになってしまった。
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