2.
おじさんの怒鳴り声が頭の中でリフレインする。男の人が怒鳴るところを久々に見た。夢じゃ腹は膨れない。その通りだ。何も言い返せなかった。
夕食を終え、自室で昼間の続きを書こうとパソコンを立ち上げていた。けれど、書きかけのファイルを開いても、手が進むことはなかった。今日の出来事が、繰り返し、繰り返し再生される。
夕日の中でスケッチする人。惹きつけられる綺麗な、あの絵。生意気な自分。男の人の怒鳴り声。『夢じゃ腹は膨れない』。
自分の甘さは理解している。そして、自分は世間から見れば何も知らない子どもで、叶いもしない夢を追いかけている、世の中の厳しさを知らないやつだと言うことも。けれど、それでもよかった。人になんと言われようとも、自身の甘さを笑われようとも、それでよかった。自分でその道を決めたから。
しかし、それを人に押し付けるのは違う。私がその人に夢を追って欲しいからって、夢を追うことを押し付けるのは違う。その人が夢を追うことを望んでいないなら尚更だ。そんな自分勝手なようでは、おじさんに子どもだと言われても仕方がない。
でも。おじさんは。
「夢、見たいのかと思ったのに」
そう独りごちたとき、スマホのバイブが低くうなった。画面を見る。そこにはリマインダーの通知が表示されていた。表示には、「公募 結果発表」と書いてある。私はスマホを持ち直し、ロックを解除した。慣れた手つきで小説の公募サイトを開く。そこには、たった今更新されたばかりの入賞者が一覧で掲示されていた。
*
布団に入ってもなかなか寝付くことができずにいた。今日の出来事ばかりが頭を占領している。思い浮かぶのは自分が彼女に怒鳴る場面。後悔しているのだと思う。あんな子どもに怒鳴ってしまった事実が、最後謝ったときの彼女の瞳が、俺の胸を締め付けた。どうしても眠れない。
俺は観念して、起きることにした。この民宿には自由に見ることができる庭がついていると、女将から聞いている。そこに出てしばらく気持ちを落ち着けよう。俺は部屋をゆっくりと出て、寝巻きのまま裏庭へと向かった。日が出ていない分、多少暑さはやわらいでいた。とはいえ、湿気が肌にまとわりつく感覚がして気分がいいとはいえない。外に出たのは失敗だっただろうか。暗い夜では庭の草木もよく見えない。ため息が出る。踵を返して自分の部屋に戻ろうとした。
人の気配がする。泣き声だ。声を殺してすすり泣いているのが聞こえてきた。思わず周りを見渡すが、暗い視界もあってか、それらしい人物は見つけられなかった。耳を澄ます。どうやら、泣き声は庭を囲っている垣根の向こう側からするようだった。
風が吹き、上空の雲に隠れていた月が顔を出した。辺りが柔らかな月光で照らされ始める。垣根の向こうから聞こえる声は泣き止まない。俺は導かれるように、垣根の隙間から向こう側を覗いた。
輝いている。
そこにいたのは、あの女子高生だった。隣の家の庭木に囲まれて月光に照らされた少女は、一人、泣いている。頬に伝う涙が月の光を反射してキラキラとしていた。涙やすすり声と打って変わって、瞳には強い意志が宿っている。まるで何かを威嚇でもするかのように、一点を睨みつけていた。スマホを持つ手が震えてもいる。あどけなさの残る彼女の顔が、今は一匹のたくましい獣のようだ。
夏の青々と茂った植物に負けないくらい、彼女は青く輝いていた。強い光を放つ彼女から目を離せない。眩しすぎて目が痛くなる程なのに、俺はそれでも彼女を見ていたいと思った。
「悔しい」
固く結ばれていた口から、言葉が溢れる。夜の虫たちの声に紛れてそれははっきりと聞こえた。
「悔しい。また落ちた」
言葉が溢れるのと同時に涙も瞳からこぼれ落ちる。悔しい、とまた同じ単語を彼女は口する。悔しい、悔しい、と繰り返しながら彼女はしゃがみ込んでしまった。ここからは顔が完璧に隠れてしまう。
「渾身の出来だったのに。また落ちた。賞にかすりもしなかった」
そのつぶやきで俺はこの状況を理解した。彼女は何かしらの賞に作品、つまり小説を募集していたのだろう。しかし、その結果は振るわなかったのだ。
状況を理解するとともに、俺は今日の行動をより深く恥ずかしく思った。
彼女はただの世間を知らない子供ではなかったのだ。彼女は、挑戦をしている創作者だ。
それに比べて、俺は。挑戦もしないばかりか、自分の気持ちをごまかしている。本当は、心の奥では俺も夢を追い続けたい。そう、ずっと思っていたはずだ。自分が目を背けているだけで、その気持ちがなくなったことなど一度もない。人に、世間に拒否されるのが怖くて逃げている。
俺は。俺は、結果が出ず泣くほど悔しがるような挑戦をしたか? 一度でも、積極的に自分の作品を世に出そうとしたか? 世間に挑みもせず、夢では腹は膨れないと大きな口を叩いていたのは誰だ。
悔しい。むかむかする。
けれど、今はその悔しさを遥かに勝るものがある。
描きたい。今すぐに。
どうしても、今すぐ、この光景を切り取って絵にしたい。この世界が、輝きが記憶から薄れる前に鉛筆を握りたかった。俺の胸は、また、早くなってゆく。
俺は最後にもう一度、月光に照らされる彼女を目に焼き付けた。今俺に見えている世界が消えてしまわないように。彼女に気づかれないよう静かにその場を後にすると、急いで宿へと戻る。玄関から入ると、ふと目に止まるものがあった。
*
朝、身支度を済ませると私は隣の民宿へ向かった。玄関はいつものように開け放たれていて、私は難なく入ることができる。中に入ると、今日はおばばが受付に座っていた。
結局、昨晩に発表された受賞者の中に私の名前はなかった。死ぬほど悔しい。悔しいけれど、私はこの結果を受け止め、これからも作品を作り出すしかないのだ。そうやって区切りをつけていくしかない。
今日民宿に来たのは、おじさんともう一度話をしたかったからだ。昨日は私も感情に任せて、おじさんに意見を押し付けてしまった。けれど、あのままではどうしても納得がいかない。やはり私はどうしても、おじさんが自分の気持ちを偽っている気がしてならないのだ。
受付に座っているおばばに視線を向けた。
「ね、昨日泊まってたおじさんってまだいる?」
おばばは私が誰のことを言っているのかすぐわかったようだった。
「あのお客さんはもう帰ったよ。今朝早く出てった」
間に合わなかった。予想よりも格段に早くおじさんは帰ってしまった。
「あんたたちそんなに仲良くなったんかい?」
顔に考えが出ていたのだろうか。おばばが笑いながら言う。
「その、なんていうか……」
「そのお客さんから、あんた宛に伝言預かってるよ」
思いもよらない言葉に心臓がどきりと跳ねた。おじさんが、私に?
「隣に住んでる女子高生ってあんたのことだろ」
私は返事をすることができず、こくこくと首を縦に振った。おじさんは私になんと伝言を残したのだろう。昨日の怒鳴り声がまた頭の片隅で響く。
「あのノートを見とけってさ」
おばばはそれだけ伝えると、他に用事があるのか受付の奥に引っ込んでしまった。私は後ろを振り返る。そこにはいつもの位置に『お客様交流ノート』が置かれていた。おそるおそる近づいて、ノートのページをめくる。私の書きかけ小説の次のページ。それが一番新しいページだ。私は深呼吸してページをめくった。
綺麗だ。
それはおじさんの絵だった。画面の大半が黒く塗りつぶされたその絵は夜の絵だった。全体的には黒く塗られているのに、柔らかく描かれた月の光が印象的なおかげで、絵自体に暗い印象はなかった。むしろ、希望に満ちているようにさえ見える。そして何より目に飛び込んでくるのは月光に照らされた少女の姿だった。少女の顔は見えない。しかし、明確な意思を、前に進む気持ちをこの少女からは感じることができる。いつまででもこの絵を見ることができる。目が離せなくなるこの感覚。まさにこれはおじさんの絵だった。
おじさんは私にこの絵を描いてくれた。自身の鼓動が早くなっていくのが手に取るようにわかる。
ぞくぞくする。
ふと、絵の下に言葉が書き添えられているのに気がついた。どうやらこの作品のタイトルらしい。そのタイトルは––––––。
夏、月夜と夢追い人 遠越町子 @toetsumatiko
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