夏、月夜と夢追い人
遠越町子
1.
「おじさん、書く?」
そういって目の前の女子高生は鉛筆を差し出してきた。半袖のセーラー服から伸びた腕は、夏にふさわしく小麦色に焼けていた。話しかけられると思っていなかった俺は、うまく応答できずに黙りこくる。
「あれ、書きたいんじゃなかったのか。おじさん、ここの宿泊客でしょ?」
「いやまあ、そうだが」
女子高生は俺ら二人がいる部屋をぐるりと見渡した。ここは、民宿の宿泊客が一息つくことができる受付とロビーを兼ねた空間だ。夏休みの時期といっても、この片田舎の民宿には、俺以外の宿泊客はいないようだった。民宿の女将は今は不在なのか、受付はがらんとしている。簡易的な椅子と机だけが置いてある室内に、年季の入ったライトグリーンの扇風機の音が低く響いている。換気のために開けられた玄関の隙間からは、目が痛くなるほどの夏の日差しがうかがえた。いくら田舎とはいえ、不在中に玄関を開けていて危険ではないのだろうか。
「おじさん、都会から来た人? やっぱり開けっぱは危ないよね」
俺の視線に気が付いたのか、女子高生は玄関の引き戸を見ながら笑う。
「田舎だと戸締まりをしないってのは本当なんだな」
「まあ、よそ者が歩いてたら目立つし。そもそもジジババは基本みんな警戒心ないから」
よそ者の俺に気軽に話しかけるこの彼女も警戒心は薄いのでは、などと思う。彼女は細い指先でペンをくるくると回していた。
「おじさんは何しに来たの? こんな何もないところ」
「……休みができたんで、リフレッシュ、かな」
嘘でも、本当でもないことを答える。ふうん、と女子高生は興味なさげに相槌を打った。
「ところで、それ何書いてるんだ?」
俺は、先ほどまで彼女が一生懸命向き合ってペンを走らせていたノートを指差す。そのノートは旅館の持ち物らしく、小さな机の端に短い麻紐でくくりつけられていた。角の部分が丸くなっているところを見ると、新しいものではないらしい。それはシンプルな罫線のノートで、表紙には『お客様交流ノート ご自由にどうぞ』と、太い字で書かれている。旅の思い出や滞在期間中に感じたことを、宿泊客が自由に書き込みができるようなものらしい。
俺が自分の泊まっている部屋から出てくる数分前から、この女子高生はそのノートに何かを書き込んでいたのだ。わき目もふらない熱心な丸い背中に目が止まり、つい眺めてしまっていた。といっても、彼女は見る限り荷物を持っていないことや、制服を着ていること、先ほどの会話の様子から、近所に住んでいるであろうことは想像に難くない。宿泊客でもない彼女があのノートに書き込んでいたのはなんだったのか。
「小説」
少女は快活に答えた。その表情は曇りを知らない笑顔であった。
「はあ」
思わず、ノートを二度見する。そこにはやはり、『お客様交流ノート』と油性ペンの荒い文字がある。そんなところに、小説? 彼女が?
「まだ途中なんだけど、あんまりずっとこのノート占領してるとさ、おばばに怒られるんだよ。だからおばばがいないときにこっそり書いてんの」
ポカンとする俺を置いてけぼりにして、女子高生は楽しそうに話を続ける。おばばとはこの民宿の女将のことだろうか。
「どうせほとんどお客なんかいないんだから、いいじゃんね。ってそうか、おじさんはお客さんか」
「なんでそんなところに書いてるんだ? わざわざこの民宿に来てまで」
未だ彼女の行動原理を理解できずそう質問すると、彼女は待ってましたと言わんばかりにはにかんだ。
「私、本気で小説家になりたくて。そのためにはまず作品をいろんな人に見てもらうのが一番かなって」
彼女の瞳は熱っぽく輝きを増していく。太陽の角度が変わり、玄関から土間に夏の日差しが入り込んで来た。
「友達とかにも見てもらってるけど、やっぱり全然知らない人とか、もっとたくさんの人にも見てもらわないと意味がないからさ」
眩しさにくらりと目まいがした。暑い日差しは俺のところへは届いていないが、それでも汗がじんわりと出てくる。ひたいの汗をぬぐいつつ、俺は話を先へと進めた。
「なるほどな。それでいろんな人の目に触れるそこに書こうと思ったってことか」
「そういうこと」
嬉しそうに返事をした後に、女子高生はノートを開いて俺に見せてくる。そこには見開きを埋めるように書かれた文字の大群があった。その中には走り書きや、何度も訂正した箇所などが見受けられる。ノートを広げる彼女の右手は、鉛筆の粉が擦れて黒く染まっていた。
「まだ完成してないけど、多分おじさんが家に帰る前には書き終わるからよかったら読んでってください! 感想もここに書いてくれたら嬉しい」
くりんとした大きな目を細くして、彼女は俺に笑いかけてそう言った。俺は軽く頷きながら、目をそらして手荷物を持ち直した。薄汚れた古い肩掛けカバンの中で鉛筆同士がぶつかる音がする。その音がやけに耳に残る。いつ付いたかも思い出せないカバンの黒いシミが俺の目を奪う。
「おじさん?」
なかなか返事を返さない俺を少女はいぶかしんだ。俺は彼女に向き直り、笑顔を作る。
「ああ、時間があったら読んでおくよ」
「やった、ありがとうおじさん」
肩掛けカバンを握り、俺は玄関へと向かう。見知らぬ女子高生と話こんで時間を食ってしまったが、本来の目的を果たしに行こう。
「じゃあ、いってらっしゃい」
外に出たいと足が早まる。夏の日差しは外に出る前からうんざりするほどのものだが、ここにいるよりはいくらかマシだと頭が言っていた。俺はこの少女の眩しさに耐え切れる自信がなかった。
室内から外に出ると、太陽光の明るさに目がチカチカとする。湿気を含んだ暑い空気が胸を殴ってくるようだった。むかむかする。早く、ここではないどこかに行こう。
民宿を出てしばらく歩くと、広い田んぼが目に入ってきた。宿の周りは集落のようになっていたが、ここまでくると民家もほとんどない。まだ青々とした稲が、田んぼを覆い尽くしている。風が吹くと緑の田んぼはざわざわと揺れ、俺の額の汗も稲の香りと共に吹き飛ぶ。
セミの鳴き声が、途切れたり重なったりを繰り返しながら聞こえていた。周りを見渡すと、広い田んぼの中に一本立派なクスノキが立っている。ゴツゴツとした太い幹に支えられ、多くの枝葉を伸ばしたクスノキは心地の良い日陰を作っていた。俺はその日陰の中へと入る。
日陰に入るだけでも、強い日差しがさえぎられいくらか快適に過ごせそうだ。周囲を観察すると、手前のキラキラと夏の日差しを反射する田んぼと、遠くの深い緑の山々がいい構図で切り取れる場所を発見した。ここに腰を落ち着けよう。そう思い、クスノキの根元に腰掛ける。それから、肩にかけていたカバンからスケッチブックと筆箱を取り出した。鉛筆が筆箱の中でぶつかり合いカラカラと軽い音を立てる。そこから一本取り出し、まっさらなスケッチブックに一つの大きな線を引いた。
スケッチやデッサンを始めるこの瞬間が俺は一番好きだ。何もない紙の上に、これから自分の世界を作り上げるのだと思うとドキドキする。そしてどうしようもなく、楽しくなる。リズム良く鉛筆を動かしていく。目の前の風景をしっかりと見て、咀嚼して、そして自分の解釈を形づくり紙の上にのせる。外の風景に目を向けながら、自分の内側と話をする。
幼い頃から、気がついたら絵を描いていることが多かった。俺にとって絵を書くことは特別なことではなく、息をするようなことだったと思う。成長しても絵を描く手を止めることはなかった。どこにいても、スケッチブックと鉛筆があれば俺は満足していた。逆に言えばそれが俺の生きている意味でもあったのかもしれない。
一週間前、仕事を辞めた。職場の環境に不満があったわけではなかった。実際、大学を卒業した後に入ってから十年以上あそこにいた。けれど、あの場所で俺はずっと十分に息ができている気がしなかったのだ。その気持ちがついに爆発したのが一週間前だった。俺は逃げるように職場を後にした後から、何をするでもなくスケッチブックを持ってフラフラとしている。この田舎に来たのも、特に理由はなかった。
絵を仕事にしようと思ったことはない。いや、そういうと嘘になるかもしれない。けれど俺には到底できることではないと分かりきっている。絵だけで食っていくことが、この世の中でどれだけ厳しいことなのかは想像しなくてもわかる。だから、俺はただ描き続けられればそれでいい。そう、思っていたのに。
人に自分の作品を見せたい、なんて欲は今の今まで忘れていた。かつて子供の頃は持っていた。けれど、だんだんとそれは恥ずかしい欲求であると、俺の心はそれを隠すようになった。だから、忘れ去られてしまったのだ。なのに、あの少女のせいで思い出してしまった。あの女子高生は何も恥じていなかった。それどころか小説家になりたいと、自分の作品で食べていきたいと、そう本心から願っているようだった。目が、瞳が、輝いていた。
むかむかする。
俺の頭からは、彼女の声が離れなかった。
気がつくと、いつの間にか手が止まり、スケッチブックの上は無意味な線でいっぱいになっていた。今日は心がざわついて、うまくいかない日だ。走っているわけでもないのに、心臓がどかどかうるさい。俺は自分の心音をかき消すように無心で鉛筆を動かし始めた。
*
私は気づいていた。今日の朝、おばばの民宿で出会ったあのおじさんは、絵を描く人だ。昨日、畑の近くでスケッチをしているのをたまたま見かけていた。よそ者はここでは必要以上に目立つ。まさか、泊まりで来ている人だとは思わなかったが。
この田舎では、私以外に創作活動をしている人がほとんどいない。だから、久々に話に乗ってくれる人が来たと思った。けれど、話しかけすぎてしまっただろうか。おじさんは私が小説のことを口に出してから、様子が変わってしまった。まるで何かを恐れているかのようで、どこか一点をにらんでいた。できれば、創作のことについてもっと話をしたかったのに。
そんなことを考えていたら、手が止まっていた。文書作成ソフトが立ち上げてあるノートパソコンはかすかにファンの音をさせている。机の上には、今執筆している小説のプロット、パソコンの画面には書きかけのその小説。これは、夏休み終わりに締め切りがある小説の新人賞に提出するための作品だ。プロットの段階から、何回も直しを入れて気合を込めて作っている。
私は高校の空き教室を勝手に借りている。私の通っている高校に文芸部はない。けれど、家では家族に邪魔をされて小説を書きづらい私にとって、学校に執筆ができる場所を確保することは重要だった。去年この侵入が容易な空き教室を見つけてからは、ここを私の執筆部屋としている。幸いなことに、この教室内には机や椅子、ロッカーなどがそのまま残っており、ノートパソコンさえ持って来れば特に困ることはない。
これもまた勝手に使っているロッカーから辞書を取り出そうとした時だった。ぱさり、と紙のたばが落ちてきた。春前、公募に出した作品のプロット。それを拾い上げて眺める。この作品は渾身の出来だった。今までの作品の中で群を抜いていたと自分では思う。今日の夜、結果がウェブサイトに投稿される予定だ。私はプロットをひとなでしてからロッカーに戻した。
夕方、下校を促す放送で、意識が引き戻される。今日は集中がよく続いた。書きかけの小説を保存し、パソコンの電源を落とす。夏休みとはいえ、部活などで学校に来ている生徒が校内にまだちらほら残っているようだった。帰り支度を済ませ、先生や他の生徒に見られないように慎重に空き教室を出る。
自転車置き場に向かうと、ちょうど頭上が夕空に変わろうとしている頃だった。山の上に連なっている入道雲が、じっくりと朱に染まっていく。まだ暑さが残る夕暮れどき。風に乗って遠くのヒグラシが聞こえてきた。
そうだ、今日は田んぼの中を通って帰ろう。心地の良い風が吹く日は少し寄り道して帰ることにしている。今日は寄り道をするにはいい日和だ。私は自転車のペダルを勢いよく踏んだ。
田んぼに差し掛かる頃には、夕日の赤は濃さを増していた。稲が風に揺れて、ざわざわと音を立てている。自転車を降りて田んぼの脇にとめる。田んぼの中心にあるクスノキへと歩を進めると、見覚えのある姿が目に入ってきた。それは今朝見たあのおじさんだった。
偶然の再会に、声をかけようとしてやめる。おじさんは、側から見てわかるほど集中していた。手元には、使い込まれたスケッチブックと画材が転がっている。目の前の景色と手元をいったりきたりするおじさんの目は、溢れんばかりの輝きで満ちていた。リズミカルな筆はスケッチブックの上で踊りながら、新たな世界を創造していく。白紙はみるみるうちに新世界へと変貌する。
ぞくぞくする。
私の目は彼に釘付けにされた。
これだ、私はこれが見たかったのだ。今朝会った彼からはこの興奮は微塵も感じ取れなかった。しかし、今の彼はどうか。彼の瞳と、彼が生み出す世界。そのどちらもが、私の心臓を突き刺して鼓動が止まない。
ふとおじさんの周りを見ると、いくつもの絵が置かれていた。どれもこの風景をモチーフにして描かれたものらしい。しかし、そのどれもが違う彩りをまとった世界だった。精巧な風景画があれば、ピカソのようなキュビズムで描かれたものもあり、イラストチックなものもある。私は、今彼が描いているものが一番好きだ。目の前の景色を丁寧に書き上げるだけでなく、光を写しとるような絵。今にも暖かな光に包まれそうなそれは、なんとも形容し難い絵だったが、一番「彼」そのものを感じる絵だ。まるで彼の内側、誰にも見せない心の中をそっくりそのまま紙の上に写しとったようだった。その絵の前から、動きたくなくなる衝動に駆られる、そんな絵を私は今まで見たことがない。彼の絵は、そう、だった。
どれくらいおじさんの絵を見ていただろう。時間にしてはそう長くなかったのかもしれない。けれど、永遠とも取れる一瞬の後、私は我に帰った。それから、おじさんの集中を邪魔しないように、私は静かにその場を離れた。
*
先ほどまで絶えず聞こえていた蝉の鳴き声が、消えている。それに気づいて顔を上げると、東の空がだいぶ暗くなっていた。どうやら長いこと集中できていたようで、いつの間にか夕方も終わろうとしていた。手元の絵を見る。夏の田んぼを描いたその絵は、みずみずしい光を表現できたと感じる。とても気にいるものが描けた。画材をカバンにしまいながら立ち上がると、肩や腰が悲鳴をあげる。流石に長時間ずっと座りっぱなしは体に堪える。今日描いた作品たちを簡単にまとめて、田んぼへ別れを告げる。そろそろ民宿へ戻ろう。
民宿に戻ると、女将はとうに帰ってきていたようで受付に座っていた。俺が会釈をすると、「おかえりなさい」と声がかかる。その流れで夕食をすぐ食べるか尋ねられたが、夕飯の前にやりたいことがあるからもう少し後でいただくと断った。今晩は山菜を使った夕飯を出してくれるらしい。俺は足早に自分の部屋へと向かった。廊下に出る前に机のほうを見る。そこには変わらず『お客様交流ノート』が置かれていた。あの女子高生はいなかった。
部屋に着くなり、今日描きあげた作品たちを畳の上に並べた。描いた順に並べると、一旦離れて全体を眺めてみる。今日は全体的によく描けていると思った。細部への描き込みもしっかりできているし、作品ごとの雰囲気作りもうまくできている。しばらく見たのちに、今日描いたものの中から目を引く一つを選ぶ。これは俺が幼い頃からしている習慣で、たくさん絵を描いた日は、その日の中で一番よく描けた最高傑作を決める。今日の最高傑作は、一番最後に手がけた絵だ。夏の田んぼらしさと、自分の世界が一番表現できたと思う。何より光の表現がうまくいった。畳の上からその一枚を手に取る。
「やっぱり、その絵が一番いいよね」
後ろから急に声がした。驚いて振り返ると、今朝会った女子高生がいた。俺の真後ろ、部屋を仕切る襖の横にに立っている。どうやら俺は襖を閉めるのを忘れていたらしい。今朝の制服姿とは変わってラフな格好をした彼女は笑顔を浮かべていた。
「ごめんなさい、驚かしちゃった?」
「どうしてここに?」
当然の疑問を口にすると、彼女はずかずかと俺の部屋に入ってきながら答える。
「私のうち、ここの隣なんだよ。それでおばばに頼まれてた山菜渡しに来たの」
この女子高生は、警戒心だけでなくデリカシーまで失ってしまったのだろうか。そのまま何も気にしない足取りで、俺の隣までやってきた。手の中にある絵を覗き込んでくる。
「うちに帰ろうと思ったら、おじさんが戻ってきてたからついて来ちゃった」
彼女が笑うと、目の上で切り揃えられた前髪が揺れた。彼女の仕草や表情はまだあどけなさをまとっている。それが、かえって俺の腹をむかむかさせた。
「その絵、どうするの?」
女子高生はキラキラとした眼差しで尋ねる。それは明らかに俺に期待している目だった。床に広げた絵たちを手早く拾いあげながら答える。
「どうもしない」
「作品として売ったり、賞に応募したりは?」
「しない」
大人気ないとわかっていても、ぶっきらぼうな態度を取ってしまう。絵たちを一つにまとめると、一番上に持っていた今日の最高傑作をのせる。俺が背を向けても、女子高生は俺の前へと回ってきた。
「なんで? もったいないよ、せっかく」
「もったいないかどうかは俺が決める」
声を遮る。俺の心臓は早鐘を打ち始めた。これ以上彼女に何かを言われたら、大人として情けない姿を晒しそうだ。
俺が態度で彼女の言動を制したのが気に食わなかったのか、彼女はむっと眉を寄せる。
「せっかく、こんなに素敵な絵なのに、外に出さないなんてもったいない」
俺の制止など聞かないと突っぱねるように、先ほど言おうとしたことを彼女はもう一度はっきりと口にした。明らかに対抗心が見えた。見知らぬ土地とはいえ年端もいかない子どもと揉め事を起こすわけにはいかない。冷静になろう。俺はあえて笑顔を作る。
「前にもお世辞でそういってくれる人がいたよ」
「お世辞なんかじゃない! 私は本気で思ってるよ素敵だって」
女子高生は、俺があしらおうとしているのに気づいたようだった。食ってかかる勢いを弱めようとはしない。それを真面目に受けていては埒があかない。
「はいはい、ありがとうな」
この会話を俺はなるべく早く終わらせたかった。適当に返事をし、部屋を出ようとする。しかし、女子高生はまだ諦めていなかった。俺と襖の前に立ちはだかる。少女の全身には怒りが溜まっている。一呼吸置いて、話し始めた。
「おじさん、仕事は何してるの?」
「……辞めた」
まさかその質問がくるとは思わず、戸惑いながら答えてしまった。その答えを聞くなり、少女の顔色が変わる。
「じゃあやっぱり、絵を仕事に」
「違う」
俺は即座に否定した。自分で思っていたよりも低い声が出る。
「だってそうじゃん、おじさんも絵を描かないと生きていけないから仕事辞めたんでしょ」
しかし、少女はその声に臆することはなかった。
「そうじゃない、俺はただ」
「おじさん、むきになってるだけよ。仕事辞めるなんて、一番やりたいことわかってるのは自分じゃん」
「知ったようなことを言うな」
抑えたはずの早鐘がまた鳴り出す。どかどかと心音がうるさい。むかむかする。目の前の少女は青い。青い光を放ちながらこちらをまっすぐに見つめてくる。
「それにこれは、本当にいい絵。この絵だったら食べていける。私はこれを見た時そう確信した」
やめてくれ。むかむか。
どかどか。頼むから。
「いい加減にしてくれ!」
大きな声が聞こえた。自分の声だ。
「お前はまだ世間に出たことがない子どもだから知らないんだ。創作物で食っていくことがどれだけ厳しいか」
自分の声が世間の厳しさを語っている。大人の男の大声。
「そんなことない」
目の前の少女は精一杯の言葉を返す。
「いやあるさ。じゃあ、なんだ、君がそのご自慢の鑑定眼で、俺の絵が売れるって保証してくれるのか?」
「それは……」
「夢なんかじゃ腹は膨れないんだよ!」
しん、とした。俺の怒鳴り声で震えていた空気がだんだんと落ち着いてゆく。女子高生の瞳は、驚きと恐怖に染まっていた。身体中の筋肉がこわばっている。
「……ごめんなさい」
彼女は声を絞り出してそう言った。その様子に我に帰る。子ども相手に怒鳴ってしまった。
部屋を出ることをやめ、俺は出口の反対側に座る。彼女のほうをみることができなかった。
「……もう、出てってくれ」
振り向かないままそう言うと、女子高生が部屋を出て襖を閉めていった音がした。しばらく、静寂が続く。嫌なくらいに静かだった。あんなにうるさかった心音も今はもう聞こえない。
カバンの横には、畳に置かれたままの絵たちがある。俺の目はそこから離れない。少女の声が頭の中でこだました。
『やっぱり、その絵が一番いいよね』
『それにこれは、本当にいい絵』
一番上に置いた絵を手に取る。青々とした田んぼが、光を受けて輝いている。絵の上の方を両手で持ち、力を入れる。紙の上の方に、びっ、と小さな亀裂が入った。そしてそのまま––––––
俺は手を離した。絵は、破られることなく、畳の上にふわりと着地した。
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