蜜月
いすみ 静江
蜜を抱いて
水を張った
大学院の入学式で、ソメイヨシノが切なく感じられた。
「しろくん、
「どうぞ」
愛を綴るといいらしい緑のペンで書かれていた。
「
彼は、照れ臭そうに頭を掻いた。
花弁は私達を選んで、舞い降りる。
「ちいちゃんが合格するとは、思わなかったよ。俺の元へお嫁に泣きついて来るのが決定かと」
「酷過ぎよ。院は夢だったから、譲れなかった。けれども、結婚もしたかったの」
彼とは、三年半の遠距離恋愛だった。
四季毎に逢瀬を重ねても、未だにプラトニックラブを貫いている。
ケイケンという名の過去がなかった。
手を繋ぐのさえ、もどかしく、季節を二つ飛び越えた位だ。
学生生活も慌ただしく、一月が経った。
一人暮らしに、心寂しさが募る。
週末には、彼が
彼が傍らにいてくれたら、それだけで満足する筈だったのに、深い関係を求めてやるせない。
ポーラスター六〇三号室の薄いカーテン越しに、五月晴れをしんと感じる。
大切な約束の日を暫く前からしていた。
「――本当にいいの?」
彼は、黒電話越しに、檸檬色の声で繰り返した。
嫌なら、私からお願いしたりしない。
「月が綺麗な夜にしたいわ」
「ちいちゃんは、随分とロマンティックなんだね」
「遠回しなだけよ」
書店でハウツー本を買っていた。
カバーをして背表紙が見えないようにし、物入の奥へやる。
指南書では、真実を迷子にされていた。
五月三日は、暦通りに巡る。
二人で越えたい線があったので、連休の帰省は諦めた。
昨夜は、トリートメントも二回する程の念の入れようだ。
ポーラスターのチャイムが鳴る。
「こんにちは。ちいちゃん」
「しろくん。来てくれて、ありがとうね」
彼の存在は、一人暮らしでぽっかり空いた胸を埋めてくれていた。
「しろちゃん、遠慮なく上がってね」
「本当にいいの? ちいちゃん」
私の部屋は、食虫植物のように、彼を誘い込んだ。
猫足箪笥と卓袱台を避けて、二人の愛の巣を敷く。
ピンクのシーツを張り、綺麗な花模様のバスタオルを重ねていた。
「お風呂のお湯、大丈夫よ」
二人で狭いユニットバスに雑誌を持ち込んで入った。
ほんのり温まると、どちらからともなく上がる。
急に胸がドキドキして、手も汗ばんで来た。
「あの……」
「やめようか?」
「うううん、いいのよ」
私は、目を瞑った。
思いのほか難しいと分かる。
初めてのことばかりで、彼に任せてしまった。
置時計の秒針が気になり出した頃だ。
「できない……」
「しろくん?」
「ごめん、できないよ」
彼の額から汗が迸る。
雫となって、私の頬を流れた。
「本当にいいのかな」
彼が私の上から体を起こした。
そのまま背中を見せられる。
「五月三日にしようと決めたの」
私は、花柄の上で膝を抱えた。
「ごめん」
「謝らないでね」
自分の髪に触れると、さらりと指通りがよかった。
「髪を抱いて欲しいわ」
「それでいいの?」
「嬉しい想い出にしたいのよ」
雛鳥を抱えるように、私はゆっくりと引き寄せられた。
首がくっと上がった。
彼の太い首と交差するようだ。
私の視線は窓をなぞる。
「見て、しろくん」
私から、耳元にキスをする。
「――ほら、月が綺麗よ」
もう、葉桜の頃だ。
蜜のある花は、少ないだろう。
私は、焔のような渇きを覚えた。
浸りたい。
「蜜を求めに来て」
「情けないけれども……」
「しろくん、大丈夫よ。私もあなたが欲しいから」
鳥や蜂が蜜を求めるように、花芯の奥を彼が知る。
怖かった。
私の真実を分かってしまうのが。
そして、私自身が開花して行くのが。
「ああ……」
自然に零れ落ちる乙女を過ぎる声。
私の仕草は、舐め上げるように見られてしまう。
「ちいちゃん、いいよ」
「ん……」
もう、日本語を忘れて応じていた。
燃え滾る獣なのだろうか。
私に芽生えた、性。
「ごめんね」
謝ること三度目にして、逞しい男性になっていた。
「どうしたの? その手」
「本当に初めてなんだ」
浮気とかないのに。
「……意外と冷静なのね」
彼と私は、甘いシャワーを胸元から浴びる。
時折キスを交えて。
「蜜を知ってしまったわ」
「甘かったかい?」
文句無しの激甘だ。
「もう一度、キスして……。ね?」
【了】
蜜月 いすみ 静江 @uhi_cna
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます