良い想像

 四階に上がり、一年五組、慧のクラスの教室に入った。慧は一番奥の先頭の、自分の席に座り机の中を覗く。僕はそばに立つ。

「ないな」

 慧がそう言って溜め息をつく。

「そっか」

 慧のファイルは、やはりなくなっていた。

「堀内が持っていたのは、十中八九俺のものだな。あいつがあのファイルを持ってるところなんて見たことはないし、自分で持ってるとも思えない」

 頭を掻く。

「僕、余計なことを言ったかな」

「余計なことってなんだ」

 慧の低い声に、手が止まる。

「お前いま何を考えてる?」

 聡い慧は、曖昧にしてくれない。

「……良い想像、かな」

「具体的には」

 慧の追及に口が重くなる。

「堀内さんは、慧のファイルを使って何か、サプライズでもするつもりだったんじゃないかって……」

 言いながら顔が熱くなる。

「それは良い冗談だ、笑えるな。何の祝いに、何を仕込んでくれるんだ?」

 そう言いつつ慧は少しも笑みを浮かべていない。

「お前、本気でそう思うか」

 僕も、そう思っているような表情にはなれない。いまのは都合の良い想像だ。

「本当は気づいているんだろう。だからあんな回りくどい訊き方をした。違うか? 良い想像、上手い言い方だ。だがそれは頭の中で悪い想像が浮かんでる奴が言う台詞だな」

 全て見透かされているようだ。

 僕は声を落として、認める。

「……そうだね。浮かんだよ。堀内さんは、何かよからぬことをしているんじゃないかって」

 慧があの鳥のファイルを人に渡すとは思えなかった。柄を恥ずかしく思っているからというだけではない。


 慧は確固たる自分のスタイルを持っている人間だ。

 吉園さんとの一件、普通は疑問に思うだろう。なぜ慧は。助ける気がなかったから、であれば僕にそのことを伝えるのがおかしい。慧は、僕がああ言われれば動くと踏んでいたに違いない。

 つまり吉園さんに資料集を貸そうという気はあった、しかし自分のものは貸さなかった。

 その理由はすばり、慧だから。

 慧は自分の私物を他者に貸すのを嫌がる。反対に人からものを借りることもしない。自分のものは自分のもの、他人のものは他人のものと区別するこだわりが慧にはあるらしい。

 あの出来事は慧のその性格がよく出ていて、僕としては微笑ましさすら感じる。慧は自分の主義から吉園さんに資料集を貸す気はなかったが、しかし困っているのを見過ごすこともできなかったのだ。

 そんな慧が、どんな理由があろうとも堀内さんに自分のファイルを手渡すとは思えなかった。

 僕は、あれが無断で持ち出されたものだと勘付いていた。カウンターにいたのは堀内さんだけだったし、図書委員しか使わないだろう場所に置かれていた。

 本人に無断でファイルを持ち出して一体何をしようというのか、先に浮かんだのは慧の指摘するように悪い想像のほうだった。


「あいつに訊かなかったのか」

 首を横に振る。

「訊けなかった」

 悪い想像が浮かんでいながら良い想像でかき消した理由は、慧に回りくどい訊き方をしたのと同じだ。

「信じたかった。堀内さんはそんなことする人じゃない。良い人で、慧と仲が良いんだって、そう思いたかった」

 チャイムが重く鳴り響く。

 半端だった。もし本当にサプライズだと信じていたなら、僕は慧にファイルのことなんて訊かなかった。そんな台無しにするような真似はしない。

 信じていないなら、堀内さんに訊くべきだった。どうして慧のファイルを持っているのかと。

 僕は、信じ切ることも疑うこともできず、何もしなかった。

「馬鹿だな。俺がそうそう誰かと仲良くなると思うか」

 中学の頃、出会ったばかりの頃の慧なら、そうだったろう。あるいは昨日までなら、まだ疑えたかもしれない。吉園さんと接点を不思議に思っていたように。

 今朝、僕の慧を見る目が変わった。クラスの子と話せて、部活動に入って、好きな人ができて、慧は本当に変わった。楽しんでいると思えた。それが、自分のことのように嬉しかった。

 それなのに、どうして。

 あの朝の親しげな様子は何だったのか。

 僕は、自分の勝手な想像と願望を押しつけていただけなのか。

「……返してもらってくるよ」

 慧が僕の袖を掴む。

「いい、ほっとけ。どうせ明日には返ってくる」

「返ってくる保証なんてないよ」

「別にあいつは嫌がらせしようってわけじゃないだろう?」

「えっ」

 驚く。

 僕がした悪い想像とは、まさにその嫌がらせだ。中学の頃、慧に物を盗ったり隠したりして困らせようとしている人がいたからだ。

「慧は、堀内さんが何をしたかったのかわかってるの」

 僕はてっきり写真部関係で何か必要なものをファイルに入れていたんじゃないかと想像していた。それを持ち出して困らせたかったのかと。

「何だお前、わかってなかったのか。明らかだろうに」

「……?」

 必死に考えるも見当がつかない僕に、慧がヒントを出す。

「いま五組で需要のあるものは何だ」

「そんなのわからないよ」

 僕は五組に通じてはいない。

「お前も知ってるぞ。朝話したからな」

 朝、登校時のことか。

 あのとき話したことと言えば、遅刻と。

「…………宿題」

「そうだ。堀内は俺の机から、明日提出する宿をとったんだ。な」

 空の向こうが、赤く色づいてきた。

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