鳥のファイル

 図書室を出ると、グラウンドで練習する野球部の掛け声が聞こえてくる。活気の良い放課後だ。図書室では無事、いいものを借りることができた。

 しかしまだ帰ろうという気にはなれなかった。

 重い足取りで、校舎に入る。事務室や保健室を通り過ぎて中央階段に向かう途中、トイレの扉が開き、横から背の高い男子がぬっと出てきた。顔を見て驚く。

「慧?」

「あ? ……何だ、お前か」

 絶妙なタイミングだ。今日はよく思いがけない遭遇をする。

「部活は?」

「トイレ休憩ぐらい貰ってもいいだろう」

「でもトイレなら、向こうにもあるでしょ」

 写真部の部室は化学講義室、特別棟の二階だ。なぜわざわざこちらに来ているのか。

「こっちのほうがトイレが綺麗だろう。それに体を動かすのは健康上大切なことだ」

 それっぽく言うけど、慧の言うことをまともに受けてはいけない。

「本当は、少しでも長く部室から離れる口実なんじゃない?」

 今日の部活が億劫だと言っていたからね。

 慧はとぼけるように首をさする。

「お前こそ、何でこんな時間まで残ってるんだ。呼び出しでも受けてたか」

「いやいや、慧じゃあるまいし」

 中学のとき慧はよく先生に呼び出しを受けていたので、割と冗談にならない。

「失礼な。俺もまだ受けてないぞ」

「まだ、なんだ?」

 苦笑いになる。

「僕は図書室に寄ってたんだ。ほら」

 借りてきた本を見せる。それは校外学習で行く京都の名所を紹介した本だ。同じ班の千日紅さんの前で読んでは当日の楽しみにならないので、向こうでじっくり読むことはできなかった。

「お前らしいな」

 慧が鼻で笑う。

「僕らしい? 何が」

「わざわざ図書室に出向いてまで計画しようとしていることが」

 計画、という言葉にどきりとする。

「お前、班長になったな?」

 そのことは慧に話してはいない。なのにお見通しのようだ。まさかこの本を借りてきただけでそこまでわかるのか。

 さすがだ。

 慧も千日紅さんと同じように頭が切れる。


「……慧ってさ」

 僕は、切り出した。

「まだ使ってるんだよね? あの、鳥のファイル」

「あ? 突然なんだよ」

 本当に突然だけど、どうしても訊いておきたかった。

 中学三年間、慧は同じ二つの柄のファイルを使っていた。そのうち片方、鞄用に使っている無地のものは新調した。逆に言えば、机に使っているほうは中学と変わっていない。赤い背景に大きく特徴的な鳥が描かれたファイルだった。

「使ってるぞ。いまも俺の腹の中にある。机と言う名の」

 慧の冗談に、笑う。

「もしかして、二つ持ってるとかない?」

「あんな柄、二つもあってたまるか」

 慧は奇抜なデザインのそれを恥ずかしく思っているらしい。ならなぜそんな柄のファイルを使うのかと訊いたことがあった。答えは「不要なものから使おうとした結果」だそうだ。いかにも慧らしい。

 その割に使い続けているのだから、案外気に入っているんじゃないか。

「僕は嫌いじゃないけど。可愛い」

 派手でインパクトのある鳥だけど、綺麗な色合いで大きな目が愛らしかった。

「可愛い? 視力検査を受けたほうがいいんじゃないか」

「そうかな、まだ黒板の字は読めるんだけど」

 続けて訊く。

「誰かに貸したことはある?」

「あんなの貸せるか」

 予想通りの反応だ。

「だよね。なら、誰か他に持ってる人を見たとか」

「おい」

 慧の射抜くような鋭い声に肩が強張る。

「回りくどいのはやめろ」

 慧に回りくどいと言われてしまうなんて。

「お前、何を見たんだ。はっきり言え」

 ためらったが、慧の圧力に押され正直に打ち明ける。

「……あのファイルと同じものが、図書室にあった。堀内さんの座ってる、後ろのテーブルに」

 足元に視線を落とす。

「あいつ、いないと思ったら図書委員だったのか」

 慧が溜め息交じりに言う。

「知らなかったんだ」

「ああ」

 お互いしばらく無言になる。

 やがて慧は天井に向けて指を差した。

「確かめに行くか」

 目を閉じ、頷く。元々僕はそのつもりで校舎に入った。

「部活はいいの?」

「人間たまにはトイレに籠ることもあるだろう」

 慧のジョークに口元がふっと緩んだ。

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