花のおめでとう

 千日紅さんは向かいの端に寄り、手すりを握って階下に視線を投げかける。

「花より団子……」

「え?」

 突拍子もない言葉が出てきて呆気に取られる。

 振り向いた彼女は「柿原くんが言ったこと」と目を細める。

「桜を見るより串団子が食べたい……微笑ましいわ」

 花より団子。

 本来はことわざとしてもっと広い意味で使うが、和菓子好きの千日紅さんにとってみれば、自分の好みをそのまま表わすような言葉なのかもしれない。

 しかしそれが一体なぜいま出てくるのか。

「花を見ることが目的と言っておきながら、本当は団子を目的としている。風情よりも、実益を望む。表向きの目的と本当の目的。言い換えれば、建前と本音かしら」

 千日紅さんは後ろの桜に視線を送りながら話す。天気の翳りが彼女の表情さえも曇らせたのか、ひどく感傷的に見えた。

「入学式ってみたいなものよね。みんな入学式のために来てはいるけれど、本当の目的はもっと違うところにある。自分の新しい友達とか、環境とか、そういうもののために来ているでしょう。……のために」

「うん……」

 言われるまで考えもしなかったが、確かにそうだ。

 僕は今日、入学式のために学校に来た。入場したとき、圧倒された。よかった。

 でも千日紅さんが言うように、ここに来る際、僕が期待に胸を膨らませていたのは、新しい友達、薔薇の高校生活だ。

 きっとみんな同じようなことを考えているだろう。和田くんであれば恋愛だった。それでこそ高校生らしいというものだ。

「その人の目的は、秘めた思いを隠すこと。思いを隠すために、お祝いの言葉に見せかける。それって、花より団子と重なると思った。本当の目的と表向きの目的」

 その発想力に驚かされる。

「けれど少し違う。だってその人はわたしたちと違って、入学式に無関係だから。新入生を祝う気なんてない」

 断定されると少し悲しいけど、そうだろうなと思う。さっきと同じく、そのほうが高校生らしいと言える。

「それでは表向きの目的、には不十分。それは花見のように、あくまで上辺だけでもちゃんとした目的でないといけない。だから納得できないでいる。……そして反対に、こう思った」

 千日紅さんは一息吸い込んでから、正面切って言う。


「もしだったとしたら、どうかしら」

 息を呑む。

 それは当然「花で彩られたおめでとう」という意味ではない。

「その人は表向き『おめでとう』を伝えることが目的だった。新入生へのメッセージではなく、それ自体に別の意味があった」

 いままで隠された文字の意味のことしか考えてこなかった。灯台下暗しだ。

 つばを飲み込む。

「それって、どんな?」

 千日紅さんは答えた。

「お誕生祝いとかならやっぱりもっと違う形で、堂々としたはず。隠した恋心に結びつくものとなれば、一つだけ……北山先生は、結婚したのでしょう」



 婚姻を祝う言葉としての、おめでとう。

 それこそ高校生になったばかりの僕にとっては、どこか遠い国の話にでも思えるほど現実味がない。

「そう考えると、全ての辻褄が合う」

 千日紅さんは沈んだ声で話す。

「入学式の今日だけが自然に『おめでとう』と書ける日だった。他の生徒には知られずに、先生にだけ別の意味で伝えられる……」

 新入生の僕らからすればそれは自分たちを祝うためのものだと思ってしまう。その先入観から真意には辿り着けないようになっていた。おそらく意図してのことだろう。

 しかし本当は、その人は北山先生の結婚を祝福していた。

 足元に向けて呟く。

「花のフレームは、お祝いを示すものだったのかな」

「そうね」

 入学式の扉が花で装飾されていたように、花のフレームも同じ意味合いがあったのだろう。祝福のために華々しく目立つように飾ったのだ。

「ご結婚、おめでとうございます……か」

 それはあくまで表の一面に過ぎない。晒しながら隠すという矛盾して見えた二面性、裏に秘めた告白。

 その人は、恋をしていた。相手が先生でも、人並みの恋と同じにただ一人の人を好きになったのだろう。

 しかしそれは先生も同じだった。一人の人として誰かに恋をし、叶った。

 その人の思いは、叶わないものとなった。

 いつ先生が結婚したのか。どういう形で知ることになったのか。その人は、あらかじめ先生に恋人がいることを知っていたのか。その人はどれほど先生と親しかったのか。

 細かい経緯はわからない。

 機会が巡ってきた。

 伝えたかったものを形にできる日。お祝いの言葉に隠して。

「隠された言葉、あの五つの漢字はきっとこう読むんだね」

 僕はその人のメッセージを口にする。

「先生、あなたが好きでした」

 切ない告白に、目を瞑る。

 どんな思いで花のフレームを作ったのか、想像することも憚られる。

 複雑に暗号化されたメッセージは、その人の抱く複雑な感情をそのままに映しているのだという気がした。

「……納得だよ」

 千日紅さんが導き出した答えは、正しいと思う。

「悲しい話だね」

「……ええ」

 誰かが悪いわけでもないのだ。誰もが望んだものを得られるわけではないだけで。

 恋とはそういうものなのか。そう簡単に叶うものではないからこそ、焦がれ、美化されるのか。

 いつか僕にも、わかる日が来るだろうか。

「次こそは、上手くいってほしいな」

 空を見上げて、呟いた。

「……優しい」

 首を振る。

「優しくなんかないよ」

 むしろ最低だ。

 僕は今日、人の大切な気持ちを、親睦を深めるための話の種にした。「花」にしてしまったんだ。

 そこまで想定できなかったとはいえ、その事実に変わりはない。その人がどんな思いでそれを作ったのか知らずに、面白いことだなんて言ってしまった。

 軽い気持ちで踏み込んでしまって、ごめんなさい。

「優しいのは、その人だよ。辛いだろうに、おめでとうって伝えようとしたんだから」

「……心の底から、言えたかしら」

 厳しいことを言う。

 花のおめでとう、表向き、建前としての目的。それは形だけのものなのか。本当に祝う気になれたのか。

 失恋は、そう簡単に整理がつくことではないはずだ。種類は違うが、望みが叶わず嘆く気持ちは僕にもわかる。いまも整理はついていないかもしれない。

 だとしても。

「たとえ表面上だったとしても、文字だけでも、充分だよ。充分、偉い」

 相手を思うその人の気持ちが、どうか報われますように。

「……そうね。やっぱり柿原くんは、優しい」

 千日紅さんが柔らかい声で呟く。

「優しくありたいとは思ってるけど」

 僕はそう苦笑した。


 時刻は十二時半を過ぎて、新入生の姿は見かけなくなった。

「そろそろ帰ろうか」

 千日紅さんは頷き、先に校内に入っていく。

 僕も遅れてついていく。


 千日紅さんの足がふと止まった。

 沓摺りを跨いだところで上空にできた雲間から漏れた光が当たり、僕は目を眇める。

「……わたしも、文字にしかできなかったことがある」

 振り向いてそう口にする彼女の表情は、眩しくて見えない。

「言えなかったことは、机の中」

 聞き返すこともできず放心する僕を置いて、彼女は階段の向こうへ行ってしまった。

 少しして言葉の意味を飲み込み、足が動いた。

 階段を上に駆け、二組の教室へ。ドアを開ける。

 もう誰もいなくなっていた。

 呼吸を正す。

 

 自分の机に行き、中を見る。何もない。

 言えなかったこと、なら。

 隣の机。椅子を引いてゆっくりと屈み、中を覗いた。


 一枚の紙があった。小さな、桜色のメモ用紙。そこに一言。

「わたしももっと話したい」

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