第38話 文字の練習

「文字の練習をしたい?」


 夕食を食べたあと、部屋に戻った途端に前触れもなく言われて目を瞬かせる。

 神妙な面持ちで陽古は、うむ、と頷く。


「文字は読めるが文字を書いたことがなくてな。せっかくだし練習をしたいと思い至ったのだ」


「なにがせっかくかは分からないけど」


 文字を読む能力と書く能力は別物だと分かっている。けれど、文字を練習したい動機が全く思いつかない。


(でもまあ、突拍子もないことはいつものことだし、好奇心旺盛だからあまり深い理由はないかも)


 出した結論に納得して、わかった、と返した。


「書いたことがないって言っていたけど、一度もないのか?」


「ないな。試しに書いてみたんだが。あ、紙を一枚拝借した。すまない」


「一枚くらいならいいけど。で、書いてみてどうだった?」


「とりあえずこれを見てくれ」


 そう言われて差し出されたのは、一枚のルーズリーフだった。それに書いているのは、大きなミミズのような文字だった。なんて書いているのか全く分からない。


 以前病院に行ったときに、ちらっと医者が書いたカルテを見たのだが、あまりにも汚くてなんて書いてあるのか分からなかった。それと同様、あるいはそれ以上に解読できない。


 しばらくその文字と睨めっこしたが、それでも分からなくて、申し訳ない気持ちで訊いた。


「これ、なんて書いているんだ……?」


「時雨をひながなで書いてみたんだが」


「あー、うん、そうか」


 言われてみれば確かに、しが見えてきた。が、ぐとれが分からない。


「素直に全く分からなかったと言ってもいいのだぞ?」


 陽古が小さく笑ったような気がした。文字の汚さについてあまり気にしていないようだった。


 それでも少し気まずくて、逃げるように改めて陽古の文字を見る。


 このレベルだと、幼稚園児の教材から始めたほうがいいかもしれない。


(でも幼稚園児向けの文字練習の本なんてあるのか? 絵本コーナーを見ればあるかもしれないけど、あそこらへんの本を買うの、勇気がいるよな……なにより高い。それなら小学低学年向けのやつを用意したほうがいいかな)


 実際に見てから考えようか、と決まったところで、わかった、と頷いた。


「文字の練習ノート、いいのがあったらいいのがあったら買っておくよ。いつ時間が取れるか分からないから、とりあえずルーズリーフを渡すから、しばらくはそれで練習してくれ」


「ありがとう、時雨。しかし文字は案外難しいな」


「そうだな。でも元から知っているし、そんなに時間は掛からないんじゃないか?」


「だといいんだがな」


 その言葉に時雨は首を傾げた。まるで、短期間で文字を覚えないといけない、とも取れる台詞だ。


 のんびりマイペースな陽古にしては珍しい。


「早く文字を書けるようになりたいのか?」


 もしかして理由があるのかもしれない。そう思って訊ねる。


「うむ。実はな」


 なにやら深刻そうな顔つきになって、時雨は思わずゴクッと固唾を飲む。


「私は見た目こそ若いが、実質じぃさんだ」


「まあ、それはうん。そうだな」


 そんなことない、と言ってもかえって皮肉になりそうで、躊躇しつつ肯定した。


「神でもボケることもあるから、のうとれとやらをしようと思ったのだ。文字を書くのもボケ防止になるとてれびで言っていたから、いっそのこと覚えてみようと」


 時雨は拍子抜けした。


「そういう理由かよ。深刻な顔をしたと思えば……」


「年寄りにとっては深刻な問題だぞ」


 ムッとした陽古に、ごめんごめん、と軽く謝る。


「文字を書けるようになりたい理由は分かったけど。それと早く覚えたいのとなんの関係があるんだよ。覚えるくらいなら、ゆっくりでもいいだろ?」


「それはそうなんだが、早く覚えたほうが便利そうだなと」


「まあ、文字が書けるようになっても役に立たないっていう場面は逆にないけど」


「そうだろう? それに時雨に簡単な伝言を伝えるにはいい手段だ」


「なんか伝言する用事ってあるか?」


 今まで陽古が文字を書けていたら、という場面に遭遇したことがないのでいまいちピンッとこない。


「たとえば時雨が寝ている間に散歩に行きたくなったら、伝言を残せるだろう?」


「そういえば、夜中に起きてもいつも陽古がいたけど、いちおう気を遣っていたんだな」


 ふらっと夜の散歩をしそうなのに、いつもいるから不思議に思っていた。


「さすがになにも伝言をせず外に出るのは、心配させると思ってな。かといって寝ているのに起こすのは憚れて」


「なるほどな」


 ようやく腑に落ちて頷く。


「わかった。そういうことなら、できるだけ早く買ってくるよ」


「何から何まですまないなぁ」


「いいよ、これくらい」


 コタツに入って、鞄の中から課題を取り出す。


 陽古を一瞥すると、シャーペンを握りしめ、ルーズリーフの裏面で文字を書き始めた。


 グーでシャーペンを握りしめている手を見て、時雨は思った。


(まずはペンの握り方からだな。シャーペンよりも鉛筆のほうがいいかも)


 時雨はペンケースと取り出して、鉛筆を探し始めた。

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