第35話 呪い

 家に帰って二階に上がると、コタツに入って気持ちよさそうな顔で机を枕にして寝ている陽古の姿が見えた。


 肉があまりついていないはずなのに、頬が机にビタァとくっついて大福の皮のように垂れている。


(完全に溶けてる……)


 あまりにも無防備な陽古の寝顔を見て、時雨は緩みそうになる頬を噛み締めた。


 陽古との同居は概ね上手くいっている。最初は雪乃に怪しまれないかヒヤヒヤしていたが、雪乃には視えないのだから堂々すればいい、と開き直ってからは気が楽になってこの生活を楽しむようになった。


 陽古は雪乃が視えないことをいいことに、時雨がいない間は雪乃を観察しているらしい。


 畑仕事も料理も間近で見ることがなかったらしく、とても興味深いのだと言っていた。


 それからご近所の親戚や友達との井戸端会議の内容を盗み聞きしているらしい。それも新鮮な会話ばかりで、楽しいのだそうだ。


 ここに連れてくる前は元気がなかったように見えたが、今は前よりも生き生きしている。


(陽古が秋と冬の間だけ住みたいって言ったときは、どうなるかと思っていたけど)


 陽古の寝顔を眺める。


(この顔を見ると連れてきてよかったなって思ってしまうって、おれも毒されているな)


 苦笑しつつ、時雨は陽古の肩を揺らした。


「むぅ……?」


 眉間に皺を寄せて呻き声を上げるが、瞼が開かない。


 陽古流だと頬をツンツン突くが、時雨はそれをすることに抵抗があった。


 少し考えて鼻を摘まんでみる。フガフガと籠もった声がして、陽古の瞼がゆっくりと開かれた。


 しばらく瞬きをして時雨の姿を捉えると、寝ぼけた声色で「あ……おかえり」と言ってきた。


「ただいま。コタツの中でうたた寝するなよ」


 陽古に脱水症状はほぼ無縁かもしれないが、倒れたこともあるので忠告する。


「それは無理なことではないか?」

「気持ちは分かるけど。念のため気をつけろよ」


 コタツの中に入る。足下が暖められていき、ふうぅと息を吐く。ついでに手もコタツに突っ込んだ。


「時雨、足が冷たいな」

「正直、帰ると陽古がコタツを点けてくれているから助かる」

「それはよかった。今日はなにかあったか?」


「特になかったけど。ああ、クラシック系の音楽を作業中に流していたな」

「くらしっくけい、とはどのような曲なのだ?」

「バッハとかベートーベンとか……あ、聴く機会ないな」


 この家には音楽を再生する機器がないので、音楽を聴く機会といえば精々テレビくらいだ。


 この部屋にはブラウン管テレビしかない。しかも初期のデザインの物だ。チャンネルの操作がリモコンではなく、ダイヤル式しかなかった頃のテレビだ。当然映らない。


 この家のテレビは母屋に一台、離れに一台ある。しかし祖母がいる手前勝手に点けると不審がられるので、テレビは祖母が観ているときか時雨が観ているときだけ観るようにと頼んでいる。


 時雨は音楽番組を見ないし、祖母も専らサスペンスばかり観ているので機会がない。


「確か音楽家の名前だったな。最近の音楽なのか?」

「最近っていうか数百年前というか。いや、陽古からみたら最近か……?」


「時雨視点からすると大昔のことなのだな。そういえば……ぴあのとばいおりんのことも時雨から話を聞いただけで、実物は見たことがないな」

「まあ、おれもヴァイオリンは実物見たことがないけど。今度コンサート番組でも観るか」


「こんさーとは音楽を奏でる舞台のことだったな。それはいいな。外の国の楽器はどのような物があるのか興味がある。ところで今の音楽は、くらしっく系とは違うのか?」


「だいぶ違うよ。コンサート番組は日曜日にあるけど、音楽番組は明日あるからその時に聴いてみるか?」

「ああ! 楽しみだなぁ」


 ウキウキの陽古に軽く笑う。

 そこでふっと、帰る前の出来事を思い出した。


「なあ、陽古。訊きたいことがあるんだけど」

「なんだ?」


「善家のこと、覚えているか?」

「ぜんけ? ぜんけ……ああ、もしかして夏に会ったあの少年のことか? なにか異変があったのか?」

「異変? それってどういうことだ?」


 不吉な単語に思わず眉を顰める。陽古は瞬きを繰り返した後、キョトンと首を傾げた。


「何かがあったというわけではないのか?」


「別に変わったことはなかったけど……ただ、陽古が近寄らないほうがいいって言っていたから、どうしてか気になって」


「ああ、そういうことか。うむ、失言だったか」


 意味ありげな台詞に時雨は半目になる。


「つまり異変が起きそうな予兆が善家にあったってことか?」

「予兆というよりは…………いや、これは言ったほうがよいのか……?」


 うぅむ、と唸りながら腕を組んで考え込んだ陽古に詰め寄る。


「そこまで聞いたらすごく気になるんだけど」

「いや、これは……むむむ…………」


 悩ましげな声を上げながら、陽古は言った。


「高校は三年間通うものだろう? 言ったら卒業するまで時雨は怖い思いをするのではなかろうか…………ぜんけとやらとの関係が歪んでしまいそうで」


「そこまで聞いたら、得体の知れない恐怖に怯えて逆効果だし。善家とは友達でもないから、関係が壊れることもない」


 善家とは壊れて怖い関係を築いているわけではない。ただ気まずくはなるだろうけれど、ただそれだけだ。


「まあ、もしものときのために言っておいたほうがいいかもしれんが…………」


 考えて考えて、陽古は絞り出した声色で告げた。


「あの少年、呪われている」

「呪われているぅ?」


 時雨は胡乱げな声を上げる。


 善家の姿を思い出してみるが、俄に信じがたい。


 善家は健康そのものだ。呪われている人間で思い浮かべるのが、目の下に隈が出来ているとか、顔が青白いとか、ブツブツ何かを言っているとか、そういう不健康で精神が逝っている、そのようなイメージがある。


「善家、健康体だぞ?」


 率直な疑問をぶつけると、陽古は一旦間を置いて、ああ、と得心したような呟きを漏らす。


「呪いの影響は本人にだけ及ぶか、また周りだけが及ぶか、はたまた両方か。その三つのどれかだ。あの少年の場合、周りだけ影響が及ぶほうだな」


「でもアイツ、表面上だけは人に囲まれている」

「表面上は許容範囲内というだけだろう。少年の敷地内に入り込んだ者を呪うという感じなのだと思う」


「敷地内って、家のことか?」

「ん? ああ、少し言い方が悪かったな。少年の心に入り込んだ者を呪う、と思えばいい」

「善家の心に……」


 呟いてハッとなる。

 善家が他人を拒絶するのは、呪いが理由なのではないか。


「まあ、呪いというより祟りというほうがしっくりくるかもな」

「どういうことだ?」


「少年の後ろに黒い影がいたが、あれは怨霊の分霊だった」

「おんりょうのぶんれい……?」


 訳の分からない言葉選びに時雨は首を傾げる。


「分霊というのは、別の神社に祀るために分けられた神霊のことをいうが」

「聞いたことがないな」


「では、一般的な知識ではないのか……怨霊の分身みたいなもの、といえば分かりやすいか?」

「あ、うん。そっちのほうが分かりやすい」


「本体はどこにいるか知らんが、少年には怨霊の分身が憑いている。分身を作れるほどその怨霊の怨念が強いということだ。だから近寄らないほうがいい」


 呪い、と口の中で呟く。そこで一緒に職員室に行ったときのことを思い出した。


「そういえば、善家の家は曰く付きだって言っていた」

「曰く付きとな?」

「えーと……」


 善家が語った曰く付きの内容を手繰り寄せる。


「明治時代に本妻と愛人の泥沼があって、本妻が殺されて。その本妻の霊が出てくるらしい」

「めいじとはいつ頃のことだ?」


「ええと……明治が終わったのは大体百年前だな」

「む……?」


 陽古が不思議そうな顔で首を捻る。


「どうかしたか?」

「いや、あの影がその本妻だというのならおかしな話だなと」

「どういうことだ?」


「あの影は確かに女性のようだったが……百年前の人間にしては衣装が最近のものだったような」


「え」

「よく時雨のおばあさんが観ているさすぺんすとやらの番組でよく見るような衣装だった。それとも、百年前からあの格好が普通なのか?」


 そんなわけがない、と否定しようとしたが、喉に言葉が絡まって出来なかった。


(ばあちゃんが観ていたサスペンスが、昔のサスペンスの可能性があるけど。再放送をよく観るからその可能性が高いな。それでもびっくりするほど最近と変わっているわけがない、よな?)


 昔のサスペンスといっても十数年前のものだ。流行りだとかそういうものがあるから、多生今と違いがある。陽古が言っている新しい衣装が十数年前の服装のことだったとしても、それでも戦後のものだということには変わりない。


 つまり、明治時代に死んだ本妻の霊であるはずがない。


(だったら一体、その怨霊って誰なんだ……?)


 もしかして善家はその怨霊の正体を知っていて、わざと明治時代の泥沼のことを教えたのではないだろうか。


(善家は怨霊の正体を隠している……?)


 もしかしたらその怨霊は、善家の生前の知り合いで。

 そこまで考えて、ブンブンと頭を振った。

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