第32話 陽古のお願い

 ひらひらと桜の花びらが舞っている。見慣れた、けれど色褪いろあせた神社の景色の中にあの人がいる。


 ああ、これは夢だ。すぐに気が付いた。


 だって、あの人がここに来ることは二度とないのだから。


 その人が何かを抱いている。それがなんなのか、自分は知っていた。


 ちゃんと覚えている。だって自分がはじめて生を感じた日だから。


 花びらを掴もうと、手を伸ばしている。


 覗き込むと、屈託くったくのない目と目が合った。


 じぃっと見つめられる。クスクスと笑い声が聞こえてくる。その笑い声は近くにいるはずなのに、何故だか遠く聞こえた。


 遠くから名前を呼ばれる。あの人にしては声が高いな、とぼんやりと思った。


 じぃっと見つめてくる顔がおかしくて、少し笑ってしまった。


 手を伸ばす。今度は花びらのほうではなく、自分のほうに。


 手を出してみろ、とあの人がうながす。


 言われるがままに手を差し出す。


 そして――










「陽古!!」


 必死な声に導かれるように、陽古はハッと目を開けた。


 眼前には今にも泣きそうな表情を浮かべている、時雨の顔があって、陽古は軽く驚いた。


 目が合うと、時雨は心底安堵したように、大きな溜め息をついた。


「やっと、起きた……」


 へなへなと風船がしぼむんでいくように、時雨が腰を下ろす。


 頭が重い。時雨以外は朧気おぼろげだった視界が、だんだんとはっきりとしてきた。


 どうやら本殿の中にいるようだ。見慣れた天井が見える。


 そこで自分が倒れたことを唐突に思い出した。


 よくよく見てみると辺りが大分暗くなっている。まだ完全に暗くなっていないようだが、暗くなる寸前のようだ。


 いつもなら門限を守るために、この時間帯にはいない。目の前で自分が倒れたから、この時間帯になっても帰らず、自分が起きるまで一緒にいてくれたのか。


(優しいなぁ、時雨は)


 胸がじんわりと温かくなった。上半身を起こして、座り込んでいる時雨に声を掛けた。


「心配をかけたなぁ、時雨」


「ほんっとだよ!」


 そう吠えた時雨に、すまなかったな、と返事をする。


 いつもなら、別に、とか言って素っ気ないのに素直だ。よほど心配をかけたのだと、手に取るように分かった。


 ニヨニヨしている陽古に、時雨は大きく息を吐き捨てながら陽古に問うた。


「倒れた原因に心当たりはあるか?」


「原因、か」


 首を捻らせ考える素振りをして少し経ってから、陽古は手のひらに拳を乗せた。


「久しぶりに人にまじないをかけたから、張り切りすぎて力の加減を間違えたのだと思う」


 ガクッと肩が脱力した。


「張り切りすぎて」


「うむ。ああ、時雨のせいではないから気にするな。ただ貧血で倒れたと思ってくれればよい」


「気にするなって言われても……まあ、うん。命に別状がなかったらそれでいいよ」


 これ以上何かを言う気には起きなくて、この話はもう止めた。


 けれど、これだけは言っておきたかった。


「おれに出来ることがあったら言えよ。学生だから、出来ることは少ないけど」


 軽トラに乗せてくれたという、昭和の人に比べたら、出来ることは少ない。


 チリッと胸に痛みが走ったような気がするが、気のせいだと振り払った。


「時雨に出来ること、か」


 呟いて考え込む陽古に、時雨は付け足す。


「今すぐじゃなくてもいいぞ」


 そう言ったのに返事せず、陽古は静かに考え込んでいる。


 待ってあげたいが、門限を過ぎている。早く帰らないと雪乃が探しに来るかもしれない。小言は覚悟の上だったが、心配をかけてしまうのはまた別だ。


「それじゃ、おれ帰るからまた明日にでも」


 立ち上がろうと腰を上げた瞬間、陽古に手首を掴まれた。


 目を丸くしていると、陽古が上目遣いで時雨を見据えた。


「時雨に出来ることならなんでもいいのだな?」


「あ、ああ」


 嫌な予感がするものの肯定する。


「なら、お願いがあるのだが」


 そう言って陽古がニッコリと笑う。


 爽やかな笑顔に見えるのに、悪ガキが悪事を企むときの顔みたいで、時雨は顔を引きらせた。

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