第30話 黒い靄

 バスを降りると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。日もかげってきている時間帯もあって、風がいっそう冷たく感じる。


 突き刺すような冷たさではなくても、肌を撫でるような冷たさは、それはそれで寒い。


(薄手の手袋がいるかもな……)


 冷える手を擦り合わせながら神社に向かっている途中、時雨は時雨にとって信じられないモノを目撃した。


 神社へ続く脇道に入ろうとしたときに、ふとそれが視界に入った。


(ん……?)


 歩みを止めて、凝視ぎょうしする。


 橋の前にある小さな建物。そこは時雨がまだ小学生の頃、肉屋だった場所だ。


 一つ上の上級生の祖母が経営していた店で、よく雪乃のお使いで肉とコロッケを買いに行っていた。今は薄らと店の名前が辛うじて見えるだけで、中は物置小屋と化している。扉がガラスが張っているアルミ製の扉なので中がよく見えるのだ。


 いつだったか覚えていないが、その人が急に体調を崩してそのまま息を引き取ったとのことで、大分前に閉店になった。


 その元肉屋の前に、何かがいた。黒いもやのようなモノが佇んでいたのだ。


 初めは虫の大群かと思った。だが、その割には数が多い。


 虫の大群であんなに多いのは見たことがない。それに虫のわりにはぶんぶん飛んでいるようには見えない。どちらかというと黒い靄のようだ。


 それは人の形をしているように見えた。なんだかよく分からなくてそのままずっと凝視する。


 そのとき、ほんの数秒だけ人間の顔が見えた気がした。


「っ」


 驚きすぎて、言葉も出なかった。慌てて神社に続く道に入って、黒い靄から完全に視線を逸らす。


 そのまま振り返らず、逃げるように走り出した。


 見つめ続けたら、振り返ったら、あの黒い靄と目が合ってしまいそうだったからだ。


 神社の前まで走って、立ち止まる。息を吐き捨てて呼吸を整えようとするが、なかなか心臓は治まってくれない。


(いや、これは……走ったからじゃない)


 バクバクと波打っている心臓の音がやけに脳内で響く原因は、あの黒い靄の顔を見たからだと、時雨は気付いていた。


 あの顔があそこにいるわけがない。この世にいるはずがない。それを知っているから、余計に驚いたのだ。


(間違いない。あれは)


 肉屋のおばあさんだ。けれど、何故あそこにいた。


 もしかして、あれは。


 神社に続く階段を見上げ、しばらく立ち尽くしていたが、のろのろと階段を上がっていく。


 本殿に着くと、陽古がいつも通り時雨に気付いて、笑顔で迎えてくれた。


 だが、時雨の様子がおかしい事に気付いたのか、不思議そうな顔で首を傾げる。


「時雨? どうしたのだ?」


 陽古の顔を見て、徐々に心臓の音が落ち着きを取り戻し始めた。だが、まだバクバク言っている。


「さ、さっき、そこの橋の、ところの」


「時雨、もう少し落ち着こうか。それ、深呼吸」


「すぅ、はぁ」


「もう一度」


 言われるがまま深呼吸を繰り返す。心臓が通常通りになったところで、俯いたままさっきの出来事を語る。


「道を抜けたところに橋があるだろ」


「ああ、神社の前の川を渡る橋のことか?」


「うん、そう。あの橋の手前に建物があるの覚えているか?」


「ああ、赤い屋根の小屋のことか」


「その建物、元々店だったんだけど、その店の前に人の形をした黒い靄があって」


「黒い靄?」


「それで、なんだろうって思ってそれを見続けたら、その店の店主だったばあちゃんの顔が見えて」


 途端、陽古の顔が険しくなる。

 ビクッと肩を震わせると、陽古が訊ねた。


「…………あそこにいた老婆ろうばの姿が視えた、のか?」


「え、陽古、あそこにいたの知って」


「送り火の日に見かけた」


 そういえば橋を見たとき、何かに気付いたような声を上げていた。そういうことだったのか。


 静寂せいじゃくが流れる。


 黙り込んだ陽古をいぶかしんで視線だけ向けると、陽古の顔が真っ青になっていた。


「ど、どうしたんだよ、その反応」


「あ、いや」


 しどろもどろな陽古にだんだんと嫌な予感がざわざわと込み上がってくる。


「おれ……なんか危険なのか……?」


「いや、そんなはずは…………」


 そこまで言って、陽古がハッとなった表情をした。


「時雨は今まで何かを視たことはないのだったな?」


「陽古以外はない、けど」


 そこまで言って、疑問が浮かんだ。


 むしろどうして陽古以外のものは視えない。陽古と出会う前はなにかを視たことはなかった。


 陽古に出会ってからも先程までなにかを視たことはなかった。


「なあ、ひ」


 こ、と呼びかけようとして口をつぐむ。陽古は今まで見たことないような真剣な顔をしていて、声を掛けるのははばかれた。


 しばらく陽古は考え込むように、視線を下げて沈黙を続ける。その時間は長く感じた。


 そしておもむろに口を開く。


「おそらくだが……私の神通力に触れたことで見鬼けんきさいが開花し始めているのかもしれない」


「けんきの、さい?」


 聞き慣れない単語に時雨は首を傾げる。


「見える鬼と書いて見鬼という。簡単に言うと、妖や霊が視える能力のことだ」


「霊力とは違うのか?」


「別のものだ。霊力があって見鬼の才がない場合もあるし、その逆もしかり。多くは見鬼の才と霊力は比例するが、例外は案外あるものだ。時雨の場合は、霊力を感じないから見鬼の才だけがある例なのかもしれない」


「でも、おれ、陽古に会うまで、幽霊とか妖怪とか、そういうのを視たことは」


「能力は生まれつき目覚めていることもあれば、今まで眠っていたものが切っ掛け一つで目覚めることもある。時雨はおそらく後者だ」


「でも、それだったら、なんで見鬼の才が目覚める前に陽古が見えたんだよ。その話だと見鬼の才はさっき目覚めたってことだろ?」


「それは……」


 言いよどみ、視線を逸らした陽古をいぶかしんで見る。

 少ししてから陽古が再び口を開いた。


「それは、私にも分からない。もう一つ可能性があるのだが、それも矛盾している」


「可能性って」


「死期が近いと、見鬼の才がなくても急に視えるようになることがある」


 ザァッと血の気が引いていく。

 が、陽古がやんわりと否定した。


「心配はない。最初はその可能性も考えたが。私と出会ってからもう数ヶ月が経っている。そういう理由で視えていたのなら、今頃死んでいるはずだ」


「じゃあ、元々あった才が目覚めたってことか?」


「それが一番可能性が高い。目覚めた切っ掛けは、私と接して私の神通力の影響を受けたからだろう。私は神としての力は微々たるものだから、影響が出るのが遅かった、ということだと思う」


 そこまで言うと、陽古は眉尻まゆじりを下げて項垂うなだれた。

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