第25話 送り火①

 ひぐらしが、鳴いている。山が目前にあるので、その声はより一層耳の中に響き渡っていた。


 つんざくほどでもないひぐらしの声に耳を傾けつつ、時雨は雪乃と一緒に送り火の準備を始めた。


 用意をするのは水が入ったバケツとマッチとおがら、そして松の葉だ。松の葉に関しては家庭によっては違うかもしれない。


 本来は焙烙ほうらくという平たい皿を使うらしいが、雪乃の家にはないので、池に続く坂道の脇にある土が露わになっているスペース(昔は生ゴミ捨て場だったらしい)で直でやっている。


「時雨、どうしておがらを使うのだ?」


 おがらとは、皮を剥いだあさの茎の部分のことだ。時雨は横にいる雪乃に訊いた。


「ばあちゃん、どうしておがらを使うの?」


「さあてね。おがらはなぁ、魔除けの効果があるってきいたから、そんじゃないか」


 適当な答えだったが気にしない。おがらを用意するのが面倒くさいときは、松の葉だけを燃やしたことがある雪乃なので、意味を知らなかったとしても仕方がない。


 横を見ると、魔除けを燃やす意味とは、と怪訝そうに首を傾げている陽古が見えた。


 あまりにも変な顔をしていたので吹き出しそうになったが、なんとか耐えた。


 松の葉とおがらを雪乃が良い具合に重ね、時雨が火が広がりそうな箇所を探り、そこに目掛けて火が付いたマッチを放り込む。


 松の葉が燃え、そこからおがらに燃え移り少し経つと炎が急速に燃え上がった。


 その様子を古い木の椅子に座って眺めていると、別の椅子に座っていた雪乃が、よっこらせ、とおもむろに立ち上がった。


「晩ご飯作ってくから、火の当番しとけ」


「わかった」


 雪乃が家の中へ消えていくのを横目で確認して、陽古のほうに振り返る。


「陽古、ここに座れよ」


 雪乃が座っていた椅子をポンポンと叩き、突っ立っている陽古を誘う。陽古は素直に椅子に座って、送り火を眺めた。


「送り火といっても焚き火と変わらないな」


「違うのは燃やすものくらいだな。熱くないか?」


「ああ。この狩衣のおかげでヒリヒリしないぞ」


「いや、足のほうが」


 陽古は裸足だ。狩衣をもらっても、靴の方は貰っていないため、靴を履いたことがないらしい。


 上半身よりも足のほうが火元に近いので、そちらのほうが心配だった。


「ああ。大丈夫だ。暖かい」


「暖かいって。冷え性みたいなことを言って」


「年寄りだから仕方ない」


「うちのばあちゃん、暑がりだけど」


「年季の違いだな」


 軽口を言い合いながら、送り火を見つめる。


 少しの間だけ沈黙が続き、時雨は気になっていたことを訊いた。


「なあ陽古」


「なんだ?」


「お盆はあの世から先祖が帰ってくる期間だけど、本当に帰ってきているのか?」


「それらしき人はいるな。昼来たときはいなかったが、今は集まっているな」


「そっか……お盆ってちゃんと意味があったんだな。精霊馬と精霊牛ないけど、そういうのは関係ないってことか」


 野菜で牛と馬を作る習慣は、この辺りにはない。テレビで初めて知ったくらいだ。


「その二つはたしか、亡者の乗り物だったか」


「らしいな。送り火はあの世を指す導だってきいたから、導があったらわりといけるのかな」


「うむ……たしかに鬼火はあの世に行くための道しるべになるとは聞いたことがあるが……そういう火の繋がりがあるやもしれんな」


 陽古が辺りをぐるりと見渡す。


「ちなみに人ではないものもいるぞ」


「妖怪か?」


「いや、犬だ。ここは昔、犬を飼っていたか?」


「猟犬を何匹か飼っていたらしい。おれは一匹しか知らないけど」


 クロだけではなく、先代が何匹もいたと聞いた。詳しい数は知らない。


「ふむ。犬は一匹だけのようだが、他は帰ってきてないのか、もしくは既に輪廻りんねとやらに入っているのか」


「一匹だけ?」


「ああ、全身真っ黒の犬だ。時雨の横でベッタリしている」


 時雨は目をみはって、陽古を凝視した。陽古は時雨の左側の足下に微笑ましげな眼差しを送っている。


 歴代の猟犬はビーグルか雑種ばかりで、全身が真っ黒なのはクロだけだった、と雪乃から聞いたことがある。


 つまり、時雨の横にいるという黒い犬は。


「クロ……?」


 呟くと、おお、と陽古が声を上げる。


「時雨の顔を見て尻尾を振ったぞ。そうか、その犬の名はクロというのだな」


 急に目頭が熱くなった。次に胸が熱くなって、思わず目を押さえて天を仰いだ。


「そうか、うん……クロが……」


 そのとき、左手から生暖かい感触が一瞬だけ擦ったような気がした。


 驚いて左側を見る。けれど、そこには何もいない。だが薄らと、懐かしい輪郭りんかくが見えた。


 三角耳で、鼻が長くて、キッチリととした体格の中型犬がこちらを見上げている。そんな気がした。


「陽古、もしかしてクロ、おれの手舐めていたか?」


「よく分かったな」


「舌の感触がしたから」


 クロは人を舐めない犬だった。猟犬だから躾けられたのかもしれない。けれど時雨に対しては、たまにだが控えめに手の甲を舐めていた。それと同じ感触がしたのだ。


 忘れていた、と思っていたのに、ちゃんと覚えていたことが嬉しかった。


「そうか。時雨はクロのことを可愛がっていたのか?」


「そうだな。よくじいちゃんとクロで山に行っていたよ」


「山っ子だったのか」


「おじいちゃんっ子みたいに言うなよ」


 ニュアンスで何を言いたいか分かるが、時雨は自分のことを山育ちだと思っていない。


「この辺の山のことは詳しいのか?」


「確かによく山に行っていたけど、じいちゃんが病気になってから行ってないから、だいぶ忘れちゃったよ」


 昔は母兄弟たちも山に行って、山菜や木の実を探して、火を燃やすための枝を探しに山に入ったらしいが、現代はそんなことをしなくても生活が出来るので、わざわざ山に入る必要もない。


 時雨が小学生の頃は、山は遊び場ではなかった。子供だけで勝手に入ってはいけなかったし、わざわざ山へ遊びに行かなくても遊び道具も場所もあった。それに当時はテレビゲームが流行り初めていて、家の中で遊ぶ子供が多かった。


 時雨の場合はテレビゲームにそれほど興味を抱かず、雪乃の手伝いと読書に費やしていた。


 山の中に墓があるので雪乃と一緒に山に行くことはあったが、時雨の中では山の中とは言わない。強いていうのなら近場っだ。


「昔は忘れるとは思っていなかったけどな」


「なにを?」


「じいちゃんとクロの思い出。死んだ人のことはずっと覚えているものだって、昔は思っていたんだ」


 それなのに、過去が遠くなるほど色々なことが変わっていき、昔当たり前だった光景がだんだんと霞んでいく。


 景色だって変わる。一年経っただけでも、そこにあった景色がなくなって、措いていかれてしまう。新しいものもいずれは古いものになり、だんだんと遠くなってしまう。


 燦々さんさんと照らす太陽の光を浴びて輝いていた、あのトウモロコシ畑だって。


 昔は母が祖父の遣いでよく訪れていたという、人がいなくなり倒壊したタバコ屋だって。


 近所にいた犬や野良猫、そして人も。


 いずれは新しい景色の下に埋もれてしまう。


 まるで、失敗した絵の上に重ね塗りするかのように、簡単に、そしてあっという間に上書きされてしまう。


 瞼の裏に刻み込まれたはずの景色と顔が、消えていく。


 クロのことだって姿形を細かく覚えておきたかった。けれど写真を残していないから、定期的に姿形を思い出す機会がなくて、正直クロに似た犬がいても、クロと似ているとは思わないだろう。


 それくらい、昔のことを忘れてしまった。これから生きていけば、もっともっと忘れてしまう。

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