夏の頃

第20話 砂時計

 夏休みに入ると、体育祭の練習が始まる。体育祭は二学期が始まって七日後に行われる。


 そのせいで夏休みの間、陽古にあまり会えなかった。


 わずかに空いた時間で、時雨は陽古の許に訪れていた。その時に本を渡して、次に会う時にその本の感想を聞いて、また本を貸す。その繰り返しだった。


 今日も体育祭の練習で最終便ギリギリまでいた。まだ外は明るいが、それはまだ夏だからであって時間的には遅い。


 疲れた身体を引きずり、時雨は神社に向かった。


 そろそろ貸していた本を読み終わる頃だ。


 神は夜更かししても大丈夫な身体らしい。むしろ夜の方が調子が良いのだと言っていた。


 昼は人の時間、夕方は妖怪の時間、夜は神の時間、という昔の考えの名残なのではないか、と陽古は他人事のように答えた。


 昔は電気がなかったため、人は暗くなったらすぐ寝てその分早く起きていた。人の目を気にせず行動できるのは夜だけだから自然とそういうリズムになったのだとも言っていた。


 視えないのだから関係ないだろ、と突っ込んだら、物が浮いたと騒がれたくなかった、と答えていた。


 夜のほうが調子良いのならランタン持ってこようか、と提案したが却下された。なんでも前の人に持ってきてもらって使ったが、それが原因で大騒ぎになったことがあるという。


 誰もいないはずの神社に明かりがあった、だの。神社の床下からランタンが見つかった犯人は誰だ、だの。


 そういうことがあったので、夜は明かりを点けたくないと言っていた。


 確かに街灯がほぼないこの村で、ランタンの明かりは目立つ。住宅地から距離があるが、人目が全くつかないということはない。


 階段を登ると陽古は片胡座かたあぐらを掻き、柱にもたれ掛かりながら本を読んでいた。


「陽古」


 呼ぶと陽古は顔を上げてこちらを見た。


「時雨、おかえり」


「うん、ただいま」


「たいいくさい、とやらの練習はどうだ?」


「まあ、うん。ぼちぼちだよ」


 運動と集団行動が苦手な時雨にとって、体育祭は苦行そのものだ。練習なんてあまり上手くいかないし、ダンスなんかリズム感がないのでからかわれるわで結構散々だ。


 なので口ごもった返事になったが陽古は気にせず、そうか、とだけ返事をした。


「まだ本読み終わっていないのか?」


「全部読んだ。今読み返しているところだ」


「その本はどうだった?」


「最後が少し悲しかったよ。洋介ようすけ清子きよこもこれでよかったのか、と思った」


 今回は悲恋ものだった。最後にヒロインが死んで、ヒーローが嘆き悲しみながらも生きていく。そこで終わる小説。


 そんな内容だから、好き嫌いが分かれると思う。時雨は好きか嫌いかといえば、どちらかというと好きな作品だと答える。終わりは悲しいが、心に残る作品だった。


「そうだな。あ、あと、これ」


 すっかり頭から抜け落ちていたことを思い出して、鞄からある物を取り出して陽古に差し出す。


「それはなんだ?」


 物珍しそうな顔で、時雨の手の中にある物を覗き込む陽古に時雨が答えた。


「砂時計だよ。百均で買ったものだけど」


 砂時計の中には青い砂が入っている。それ以外はなんの特徴もない、量産型の小さな砂時計だ。


「これが砂時計か……わざわざこれを買ってきてくれたのか?」


「前に買ったものを持ってきただけだ。その本、やたら砂時計が出てくるだろ? 実物見たことないのなら、想像しにくいだろうなって」


 この本に出てくる砂時計のイメージは、こんな安っぽいものではなく、もっと洒落たものだと思う。けれどこれしかないし、イメージがつけばそれでいいだろうと判断した。


 砂時計を渡すと、陽古はまじまじと観察した。


 ひっくり返してみて、下に流れ落ちていく砂を眺める。最後の砂が下に落ちたところで、得心した面持ちで頷いた。


「なるほど。たしかに全部の砂が下に落ちると、切ない気持ちになるな。けど、なんでだろう。目を離せない」


 少々大袈裟な感想だと思ったが、それに水を差す気にはなれなくて、そうか、と相槌を打つ。


「気に入ったか?」


「あぁ」


「なら、あげるよ」


「いいのか?」


「どうせ百円だし、いいよ」


「ありがとう、時雨」


 すっかり砂時計を気に入ってくれたのか、何度もひっくり返しては砂が落ちる様子を見ていた。


 その様子を微笑ましく見守っていたが、ふと時計を確認と門限の時間まで後もう少しだった。


 雪乃は放任主義だが、一応門限を設けられている。暗くなると猪が道路を歩いていることがあるため、暗くなっても帰ってこないとさすがに心配になるようで、これだけは口煩いのだ。


「そろそろ帰らないと、ばあちゃんが待っている。今回の本だけど」


「時雨」


「? なんだ?」


「また、この本を借りてもいいだろうか?」


 陽古は悲恋ものの小説を手に取って、上目遣いで時雨を窺う。


「別にいいけど、なんでだ?」


「砂時計を知った今、もう一度読み返して意味を理解したいのだ」


 なるほど、と時雨は納得した。


「分かった。一応、今回分も置いておくよ」


「いつもありがとう、時雨」


「こっちこそ、あまり来れなくてごめんな」


「時雨には学校がある。それに、私はこうして時雨が来てくれるだけで満足だ」


「……あっそ」


 面と向かって、屈託のない笑顔でそう言われると、胸の辺りがこそばゆくなる。なんだかソワソワとムズムズが交互に行き交っているような、少し落ち着かない気持ちを誤魔化そうと、チャックが空いたままの鞄の中に手を突っ込み、持ってきた本を陽古の横に置く。


「新しい本、ここに置いておくから」


「ああ。ありがとう」


 じゃあな、と早口に言って、時雨はそそくさと帰ってしまった。


 階段を下りていった時雨の背中を見送り、足音が遠くなったところで、耐えきれずプッと吹き出して小さく笑った。


「照れなくてもいいのに」


 時雨は照れ屋だ。そう気付くと、時雨の素気そっけなさも愛おしく感じてしまう事が不思議だ。


 階段から手に持っている砂時計へ再び視線を戻す。


 また砂が零れ落ちていく様子を物憂ものうれいげな顔でじぃっと眺め、落としきる前にひっくり返してまた眺める。


 砂時計を置き、読んでいた小説を開いてパラパラとページをめくる。目的のページに辿り着き、ある一文を指でなぞった。


「命っていうのはまるで砂時計ね。ただ、下に落ちて減っていくところがまったく同じ。ただ違うことは、ひっくり返しても砂を戻すことが出来ないことね。私の砂は一体どれくらい残っているのかしら……」


 読み上げて、溜め息をつく。


 そこは、ヒロインの清子が自らの命を砂時計に例えているシーンだった。


 ただ氷だけが残っているグラスを掻き混ぜながら、余命が迫っている清子が洋介に零した言の葉。


 このときの洋介は清子の病気のこと知らず、大袈裟おおげさだな、と軽く受け流している。


 陽古は空を仰ぐ。


 夕焼け空が藍色の衣へと、纏いはじめている。夕闇から闇へと変えていく瞬間。


 昔はその瞬間を綺麗だと思っていた。面白いとも思っていた。けれど今は、とてつもなく恐ろしくて堪らない。


「私の中に流れている砂は、どれくらい残っているのだろうか……」


 清子と同じ台詞を言ってしまって、思わず笑ってしまった。


「不思議なものだ……私が死を恐れるなんて」


 昔はいつ死んでもいいと思っていた。父に失敗したと言われて、あしで作られた小さな舟の中に入れられて。この地に辿り着くまで、本当に辛くて。


 親に見捨てられたことは仕方ないと踏ん切りはついているが、どこか生きていくことに虚無感きょむかんを抱いて。


 だからいつ死んでも後悔も無念もない。そう思っていたのに。


 まぶたを閉じると、真っ先に思い出す光景がある。


 おそるおそる手を伸ばすと、自分の指を強い力で握りしめた小さな手。


 思い出したら、掴まれた指がじんわりと温かくなった。


(あのぬくもりを知ったのが僥倖か、はたまたその逆、か)


 瞼を開けると指に蘇った温もりが消え、寂しさだけが残る。けれど、あの温もりを手繰り寄せれば容易たやすく思い出すことができる。


 緩慢かんまんに左腕をあげて、人差し指を眺める。


 ふふっと小さく笑ったそのとき、急に手の輪郭りんかくがぶれた。

 手のひらが土色になり、ひびが割れて、そして。


「――っ!」


 心臓を氷の手で掴まれたような感覚に陥り、陽古は反射的に右手でその手を抑えた。


 何度も深呼吸して、左手に神通力を行き渡るように集中する。


 呼吸が落ち着いたが、心臓がまだバクバクしている。


 おそるおそる右手を除ける。罅割れはちゃんと治って元の肌色に戻っていた。


 胸がザワザワする。瞼をぎゅっと閉じ、左手を右手で覆い隠して握りしめた。


「すまない、時雨……もう少し、嘘をつかせてくれ」


 渇いた声色で呟かれたそれは、薫風けいぷうによって掻き消された。

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