第10話 家庭訪問について

 善家の声がして我に返った。振り返ると、善家が席の横で突っ立っていた。


 先程教室から出て行ったのに、どうしてここにいるのか。


 浅く深呼吸をしてから、素っ気なく返事をする。


「なに」


「先生が俺たちを呼んでいるから、ついでに一緒に行こうぜ」


「別に良いけど、なんで」


「さぁな。俺は心当たりないけど、時雨もない?」


 そう言って善家は人の良い笑みを刷った。


 善家は時雨の事を苗字ではなくて、名前で呼ぶ。去年からの知り合いだけであって、そこまで親しくない。それでも、彼が時雨を名前で呼ぶには理由がある。


 それは時雨の苗字が法華津で、善家が野球部に入っているからだ。法華津……ほけつ……補欠ほけつ


 呼ぶのに躊躇ためらう他、縁起悪そうだから、と入学当時、善家は時雨に名前呼びの許可を請うた。それに便乗して、他の運動部の人からも名前で呼ばれるようになった。


 別に自分自身は運動部ではないから気にしないのに、と思ったが、運動部の奴らは違うのだろうと名前呼びを許可した。


「ない。でも行くしかないな」


「だな。さっさと行こうぜ」


 担任の話が済んだらすぐ帰れるように、鞄も持って行く。手に持っていた二枚のプリントを一瞥して、あ、と思わず小さく呟いてしまった。プリントはいつの間にか持っている部分が皺くちゃになっていた。


「どーした?」


 善家が時雨の呟きを拾って訊ねてくる。


「なんでもない」


 そう返事をして、プリントをさらにグチャグチャにして鞄の中に無理矢理入れた。


 教室を出て、善家と職員室に向かう。善家とは歩幅が違うのでこちらが早足で追いつかなければならない。


(職員室が同じ二階じゃなかったら、文句言うところだっ!)


 教室から職員室まで距離が短いが、体力がない時雨が早足で移動するのはすぐ息が上がってしまう。


 意地で息切れを隠して、職員室まで辿り着くと善家が振り返った。


「あ、わりぃ」


 息切れを隠したつもりだったが、時雨を見るなり謝ってきた。


 時雨は恨めしげに善家を睥睨へいげいした。


「わりぃって。それにしても時雨は体力がほんとないのな」


「お前と一緒にするな。早く用事済ませるぞ」


 息を整えて、失礼します、と職員室に入る。すぐさま担任の席に行き、担任に話しかける。


「先生ー、俺たちに用事ってなんですか?」


 善家が訪ねる。担任が椅子に座ったまま、身体ごとこちらに回ってきた。


「わざわざ来てもらって悪いな。家庭訪問についてなんだが」


 時雨は内心げんなりした。


 担任は去年も担任で、時雨の家庭の事情を知っている。去年は遠回りに言われたが今回も言われるのか。


「そんな嫌そうな顔をすんなや」


 担任が苦笑する。また顔に出てしまったことがなんとなく気まずくて、時雨は視線を逸らした。


「まず善家」


「ん?」


「去年は善家の父ちゃんの職場でしたわけだが」


「うん、そうですね」


「今年は自宅に」


「無理っすね!」


 言い終わる前に善家がすかさず答えた。


「去年は大きな仕事があって、ずっと作業場で引き籠もっていないと納期に間に合わないから、仕方なく職場にお邪魔したわけやけど」


「うち、すごく散らかっているんで、人が上がるの無理!」


 あまりの清々しい返事に担任が嘆息する。


「堂々と言うなや。ならこれを機に片付けてたら」


「俺は野球、父は仕事。しかもまぁた納期が近い依頼があって、忙しいのなんのって! 二人暮らしで他に手伝ってくれる人もいないんで!」


「父親の仕事仲間も無理なんか?」


「まあ、ぶっちゃけますと」


 ここで善家が急に真顔になる。


「俺の父親、親戚でも誰でも家に入れさせたくはないんですよ」


「ほう? なぜだ?」


「そういう人ってのもあるんですけど」


 一旦間を置いて、善家が声を潜めて告げた。


「うち、出るんっすよ」


 空気が凍り付いた。時雨は善家と担任を交互に見やる。担任は固まっていて、善家は笑みを浮かべていた。


「な、なにが」


「出るといえばあれしかないでしょう?」


 そう言って善家は、ゆらりと両腕を上げて、手のひらをだらんとさせた。


 薄らと笑っている善家に、担任は口の端を引きらせる。


「あ、あははは。善家、お前も冗談が言えるのか」


「いやいやマジな話。うち、古い家なんですけど、元々曰く付きで。その曰く付きっていうのが」


「まてまて、そこまで話さなくてもええから」


 担任が慌てて制止すると、善家がきょとんとした顔になった。


「あれ? 先生、怖いんですか?」


「ちゃうわっ! 部活のこともあるから、これ以上無駄話しないほうがええやろ!」


「ははは。それもそうだ」


 善家が軽く笑声しょうせいをあげる。


「まあ、そういう理由で人の出入りを嫌うんっすよ。あとで視たとか騒がれても面倒くさいんで」


「そういう理由でか。でもなぁ」


「そもそも家庭訪問の意味、あるんっすか?」


「一応生徒の家庭事情を知っておく必要があるんだ。虐待があるかもしれないし、念のため様子を見ろっていう方針なんだよ」


「なら」


 時雨は口を開く。


「おれんちの家庭事情は去年で把握しましたよね? なら来る必要はないですよね?」


「いや、把握したけど親御さんとは」


 言い淀む担任に舌打ちしたくなったが、グッと我慢する。


 確かに担任は両親と顔を合わせたことはない。雪乃が相手で何が不満なのだ。両親といる時間より、雪乃と一緒にいる時間の方が多いから、実質の保護者は雪乃だ。


 去年もそう告げたのにまだ言うか。目で訴えると、担任は肩をすくめた。


「分かってはいるが、先生もな、学年主任に言われてなぁ」


「先生も板挟みで大変なのな」


「そうなんだよ! 善家、分かっとるな!」


「どっちにしろ」


 時雨は吐き捨てるように言った。


「二週間前に言われてもってなります。二人の単身赴任先、飛行機でないと行けない距離なので、なかなか帰れませんよ。急に言われても飛行機のチケットは取れませんし」


「それはそうなんやけど」


「せめて二ヶ月くらい前に言ってくれないと。もっとも、たった十分のために、数日分の有給を取って、チケットも取って、空港から電車で一時間半も掛かるうえ、そこから少ない便のバスを長時間待たされて、さらに四十分バスに乗ってわざわざ帰ってくるとは思わないですけどね」


 至る所を強調しながら言ってやると、担当の口元が再び引きった。


「それは、まあ、そうなんやけどな」


「交通費も軽く二万掛かるらしいし、おれから戻ってきてくれって軽く言えませんよ」


 お盆も正月も帰ってこなかった両親が、家庭訪問のために帰ってくるとは思えない。身内の不幸になったら帰ってくるかもしれないが、時雨のために休みを取ったことなど片手で数えるほどしかないため、本当に帰ってくるかどうか分からない。


 そんな両親に家庭訪問があるから帰ってくれ、なんて言えるものか。分かりきった返事を聞くために電話するなんて無駄なことだ。


 途端、胸の奥から何かが込み上がってきた。モヤモヤというにはドス黒く、憎悪というにはさっぱりしている。感情が込み上がってきた瞬間、それは乾燥して、時雨に残ったものは諦観ていかんのみとなった。


「おれの保護者は、実質祖母です。保育園時代からそうだったので、祖母が適任だと思うんですけど。そこまで両親がいいんなら、電話で充分じゃないですか?」


 すると担任が大仰おおぎょうに溜め息をついた。


「わかった、わかった。今回も去年と同じでええ。でも法華津。もしかしたら親御さんに電話しろって主任から言われるかもしれないから、そこは覚悟しとけ」


「わかりました」


「ありがとうございまーす」


「これで話は終わり。気をつけて帰りや」


「さようなら」


「俺、これから部活ー」


「細かいこと言うなや。はい、さようなら」


 善家と一緒に職員室を出る。靴箱は一緒のクラスだから同じ場所にあるので、自然と一緒に歩くことになった。

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