第4話 青年の正体

 翌日。雨は夜中に降らず、今日の降水確率も零で、とりあえずの憂いはない。


 今日は祝日でもなく土日でもない平日なので、当然授業がある。


 バス停に向かう途中、昨日走ったルートを歩いて探したが見つからず、交番にも念のため寄ったが、収穫は無かった。


 時間は過ぎ学校の授業が終わった。時雨はいつものバスを乗って降りて、あの場所に訪れていた。


 時雨が危ないと判断した、あの青年がいた神社に。


「大丈夫だ……うん。そう連日、同じ場所にいるはずがない」


 自分にそう言い聞かせて、いませんようにと祈る。


 神社に続く土手にも視線を巡らすが、それらしい袋はない。捨てられた菓子袋と、どこからか飛んできたらしいビニール袋ならあるがどれも本屋の袋ではない。


 狛犬と鳥居を通り抜け、階段をそろりそろりとに上る。頂上に着いて本殿の方に視線を向けると。


「いたし……」


 そこには、昨日の青年が昨日と同じように階段で座っていた。しかもその手には、時雨が買った本がる。


「しかも読んでいる……」


 思わず睨むと、不意に青年が顔を上げて。


「……」


「……」


 目が、合った。


 体が固まって、どうしていいか分からなくて、時雨も青年もお互いを見つめ合う。


 これではまるで昨日みたいじゃないか。


 狼狽うろたえていると、青年の口がおもむろに開いた。


「これ……君のか?」


「あ、あぁ」


 思わず素で返してしまった。時雨は青年に歩み寄る。青年は申し訳なさそうな顔をしていた。


「すまない。昨日の様子だと、また来てくれるように見えなかったから、勝手に見てしまった」


「あ、いえ。俺のほうも昨日はあんな態度とってしまって、すいませんでした」


 本を受け取りながら謝ると、青年は弱々しく横に首を振る。


「いや、謝るのは私の方だ。久方ぶりに私が視える人間と会って、興奮してしまった。ああいう接し方は相手に疑惑を持たすと教わった筈なのに……本当にすまない」


 ショボンと項垂うなだれる青年に毒気を抜かれる。悪い人ではなさそうだと少し安心した。


「あの、昨日もそうですが、視えないとか視えるとか、どういう意味」


 ですか、と紡ごうとした時。


「おやおや、珍しいね。こないな所に人がいるなんて」


 突然声がして、時雨は振り返る。鳥居の下に物腰が柔らかそうな老爺ろうやが佇んでいた。曲がった腰に両手を組みながら、歩く老爺と目が合い、にこりと微笑まれる。


「こ、こんにちは」


「はいはい、こんにちは」


 老爺の笑みが深まる。


「お爺さん、ここにはよく来られるんで?」


「いんや。月にいっぺんしか来ないよ。わしゃ、思い出があるから来るけど、こんなボロい神社、年月を感じるけどありがたみはなさそうやろ? しかも近所でも、ここのことを知らん人もいるしなぁ。だから、お前さんのような若い人がいるのは、珍しいと思ってな」


「たしかに手入れしてなさそうですしね」


「ここの神主さん、長い事入院しとるからなぁ。手入れする人はおらんのよ。お前さんは一人で何しに来たんじゃ?」


「え?」


「連れがおるように見えんし……違うか?」


 きょとんとしているお爺さんに、時雨は目を見開く。


 そんな筈ない。だって此処には、自分と老爺、そして自分の前に来た青年がいるのだから。


 横目で青年を見る。青年はただただ困った風に笑うだけで、何も言わない。


 本当に視えていないのか? このお爺さんは、この人が視えていない?


「どうしたんじゃ?」


「あ、いえ。確かにおれ一人です。その、散歩してたら、たまたまここを見つけて」


 気付けばそんな嘘をついていた。

 老爺は不思議そうな顔をしながらも、一応納得したらしい。


「遅くならない内に帰るとええよ。供えていた桜の塩漬けが食べられとったから、野生の動物が降りてくるかもしれん」


 忠告されて、桜の塩漬けを供えた人はこの人なのか、と老爺を見る。


「あの、桜の塩漬けってまだ時期ではないと思うんですけど」


「ああ、娘がネットで冷凍のを買ってくれたんよ。最近はネットでなんでも買えて、便利やねぇ」


「そ、そうですね」


 ネット環境に繋がっていない祖母宅に住んでいる身で、インターネットとはほぼ無縁なので、少し濁したような口調になってしまった。とりあえず謎は解けた。


「ここの桜、ほんまにキレイなんよ。機会があったらまた見に来てや」


 そう言った後、本殿に向かって柏手を打って帰っていった。

 見送ってから、時雨は青年と向き合った。


「視えないってこういうことですか?」


 青年はこくりと頷く。


「あなたは一体、何者なんです?」


「神の端くれだよ」


 時雨は驚愕きょうがくした。


「幽霊、ではなくて?」


「幽霊や人間にしろ、耳は尖っていないだろう?」


 そう言って青年は髪を上げて耳を見せる。言われてみれば確かに、少し尖っていた。


「幽霊なんて視たことないので、なんとも……」


「人間の言うところの幽霊というのは、人間の死んだ魂が具現化したもののことだろう? 元は人間だから耳が尖っているのは変だと思う。妖怪になったとしたら、尖ることもあるが」


 納得したところで、時雨は改めて青年と向きった。


「ずっと此処に一人でいるんですか?」


「ずっと、というわけでもない。稀に私が視える人間がいたから、その人たちに構ってもらっていた」


 無垢な瞳が真っ直ぐ、時雨を見据みすえている。


「もし良かったら、自己紹介を再挑戦してもいいか?」


 自己紹介をリベンジだなんて変な感じだな、と思いながら時雨は頷く。


「改めて、私の名は陽古だ。君は?」


「……法華津……時雨です」


「時雨か……綺麗な名だ」


 名を褒めた青年……陽古はまるで月の光のような笑みを浮かべた。


 思わず顔ごと逸らしてしまう。直視出来ないほど、その柔らかな笑みが綺麗だったからだ。


「人間というのは、最初は名字で呼ぶものだと教わったのだが、名前で呼んでもいいだろうか?」


「え、あ」


 現実に戻されて、困惑しながら時雨は陽古を一瞥いちべつする。


 返事のない時雨をどう思ったか、陽古は眉を八の字にしてシュンッと項垂れた。


「駄目か……」


「い、いや、ダメではない、です」


 高校でも親しくない人に名前を呼ばれ、今更あまり知らない相手に名前で呼ばれることに抵抗はない。ただ、見惚れていたことが気まずいだけで。


 陽古は顔を上げて、そうか、とはにかんだ。


「では時雨、一つ訊いてもいいだろうか」


「な、んですか」


 陽古は時雨が持っている本を指した。


「それはどういう本なのだ?」


「え、読んでいたじゃないですか」


「言葉は時代によって変わりゆく。そもそも神が使っている文字と人間が使っている文字は違うのだ。久々に人間が使う文字を見たが、文法が全く違っていたからほとんど読めなかった。暇だったから解読するつもりで読んだが、知らない単語もあって」


「ええと、最後に読んだのはいつ頃なんですか?」


 訊くと陽古は腕を組んで、うーんと唸り始めた。視線を泳がせたかと思えば、瞼を閉じて眉をしかめる。それを繰り返して、絞り出したかのような声で言った。


「た、た…………たけ、たけ…………」


「たけくらべ?」


「そのような名前だったような……? あれはまだ源氏物語と似たような文体だったから読めたが、やはり分からない単語があったな」


「つまり明治時代から読んでいない、と?」


「めいじじだい、とはいつの頃か知らぬが、当時は新しい御伽草子おとぎそうしだった」


「というか、たけくらべは覚えていなくて源氏物語は覚えているんですね」


 年代的にかなり空いているというのに、どうして後の作品である『たけくらべ』は覚えていないのか。


「源氏物語は衝撃が凄くてな。だから記憶にはっきりと残っている。源氏物語のときは教えてくれる人がいたから理解できたが、たけくらべの時はは私に単語を教えてくれる人がいなくてな。結局内容はよく分かっていなかったから、印象に残っていないのだ」


「そうですか」


 時雨は源氏物語を読んだことないので、どれほど凄いのか知らないが、神をも驚かせるとはさすが千年経っても後世に残っている作品だ。


「それで、それは何の本なのだ?」


「小説、ですけど」


「しょうせつ?」


「ええと……昔でいうところの御伽草子ですね」


「なんと。今はしょうせつと呼ぶのか」


 ほう、と興味深そうに陽古は本を覗き込む。なんとなく居心地が悪くて、空に視線を移す。バスの中で見たときよりも明らかに暗くなっている。


 これ幸い、と時雨は口を開いた。


「あの、すいません。暗くなってきたのでそろそろ」


「ああ、人間はあまり夜を出歩かないのだったな。長いこと引き留めてしまってすまない」


 眉の端を下げて、申し訳なさそうに告げられる。


「いえ。それでは」


 頭を下げてきびすを返す。出来るだけ駆け足にならないようにその場を立ち去ろうとすると、背後から陽古に呼びかけられた。


「また明日、来てくれるか?」


 その問いにどう答えるべきか分からず、時雨は聞こえない振りをして階段を下りていった。

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