第3話 帰宅して

 時雨が居候している祖母の家に着いたのは、十分後のことだった。


 激しい息切れを起こしている彼を出迎えた祖母、雪乃ゆきのは心配した風でもなく「なんか見たい番組でもあったんかい?」と、呑気な声で訊いてきたが、時雨は本当の事を言わず適当に相槌あいづちを打った。説明をするのが、非常に面倒くさかったのだ。


 雪乃の家は、築八十年以上で二階建ての木造建築。見た目は大きいが、居住空間が家の半分しかない。その理由は、半分が土間だからだ。畑仕事をしていると、土間が多いほうが便利らしい。


「時雨は、あきらさんの若い頃によお似とるわぁ」


 一緒に夕食を食べていた雪乃が、不意にそう零した。


 いつもの陽気な声色ではなく、回顧して染み染みと呟いたので、それに興味を抱いた時雨が顔を上げる。


 時雨の祖父は、時雨が小学四年生の時に大腸癌で亡くなった。ずっと一緒に暮らしてきたがそれでも祖父との思い出は薄れてしまっている。そんな祖父の話、そして珍しい祖母の様子と相まって興味を引かれたのだ。


「じいちゃんに?」


「そうそう。あの頃はごつくてたくましい男がモテてたんやけどね、爺さんはそりゃあ、線が細くてきゃ……筋肉も程々やった。どっちかと言うと綺麗な感じやったねぇ。今の子にえらいモテてたやろうなぁ」


 華奢きゃしゃと言い掛けたな。時雨はそう確信したが、本人がいるわけでもないし、自分もどちらかというと華奢な体つきだということは自覚している。それを気にしていないのでそれ以上は言及しなかった。


「まぁ、そんでも女の子からよおラブレター貰っとったな。よお、わしゃのような平凡な女と結婚した事やねえ。あん時は、見合い結婚が主やったけど。それで、時雨は」


「言っとくけど、モテないから。ラブレターなんて貰った事も、告白されたこともないし」


 雪乃が何訊こうとしたのか察知し、言葉を遮って答えると雪乃は「そうかそうか」と、素気なく頷いてテレビに集中した。


「そういえばさ」


「なんや?」


「ばあちゃん、桜の塩漬けって知っている?」


「知っとるけど、この辺にはないね」


「そうなの?」


「ここら辺には、食用の桜なんてないんよ。大体ここら辺は山桜かソメイやね。ここら辺の桜の色、薄いやろ? ああいうのは、もっと色濃い桜とちゃうんか? よう知らんけど、自分で調べとき。わしゃはお茶にしたりしたらええと思うけど、この辺には売ってへんからなぁ」


 その後、テレビを観ながら夕食を食べ終え、時雨は自分の部屋になった二階に上がった。


 大して明るくはない蛍光灯を付けて、柔らかい畳の上に腰を下ろす。歩くたびにギィギィと不吉な音を鳴らしているから畳だけではなく、床板も張り替えた方がいいかもしれない。


 寝転がって天井を仰ぐ。茶色い天井は、この家の古さを物語っているように思えた。


(それにしても、あの人……不思議な人だったな。あんな人、初めてだ)


 時雨は夕方、古びた神社で会った青年の事を思い返す。


 優しげではかなそうな人だった。垂れた目に左目の下にあった泣き黒子。指通りが良さそうな赤茶色の髪。そして風に揺れる狩衣のすそ。まるでつい先程見かけたかのように、脳裏でその姿が蘇る。


(ああいう人を変な人って、本当は言うんだな)


 今まで周りが自分のことを変な人と認識されても大して思わなかったが、あの人を見たからだとそれに対して反論したくなる。それくらい変わった人だった。


 何処の人だろうか。この辺りの人ではなさそうだが、余所の人がこの村に来るなんて滅多にないと。


 近所に元々時雨が住んでいた団地がある。その団地は小さい子供を持っている夫婦が多く、余所から来ている人は大体そこに住んでいる。記憶を辿ってみるが、思い当たることがない。そもそも妻子持ちだとは到底見えない。


 だったら、男一人で引っ越ししてきた……それはない。この辺で単身赴任する職場と言えば小学校教師くらいだ。教師が狩衣姿でうろつくわけがない。


 役場もあるが、役場はこの地域に住んでいる人しか勤めていない。ここは田舎。あんな容姿の男が引っ越してきたのであれば、一気に噂は村全体に広がる。


 なら、高齢になった親の面倒を見るために帰ってきたのか。それもすぐに情報が行き渡るはずだ。


 何せ町が発行している小冊子に「先週亡くなられた人」という項目があるくらいだし、何も変哲もない平凡な家庭を紹介したりするので、情報は筒抜けだったりする。


 自分と違ってもう約六十年この村に住んでいる祖母は、村全体に知り合いがいるのでそれ以上の細かい情報は持っている。その祖母からそういう情報を聞いた事がないので、最近引っ越ししてきたという線はほぼない。


 時雨はハッと我に返って、慌てて頭を振って青年の残像を払いのけた。


 止めだ。あんな変わった人のことは忘れよう。もう会わないかもしれないのに、あの人のペースに自分が乱されるなんて、滑稽すぎて笑えない。


(そうだ、本を読もう)


 忘れるには他の事に集中するのが一番だ。今日買った本があるじゃないか。そうだ、あれを読もう。


(そういえば、本が入った袋……どこに置いたっけ……)


 持って上がった荷物の中に無かった。なら、玄関だろうか。


「時雨~! お風呂あがったぞー」


 下の階から雪乃の甲高い声がした。階段から顔を覗きこむ。


「ばあちゃん! 本屋の袋、見なかった?」


「いんや! 本、買ったんかー?」


 本を買った事を自体知らないとは。帰宅した直後、一旦荷物を雪乃に預けたから、知らないというのは変だ。と、いうことは。


(走っている時に落とした!?)


 ショックで一瞬動作が止まる。


 きっと落としても、交番に届けられず見つけた人が濡れない場所や踏まれない所に少し移動してくれるだろうが、万が一ということがある。


 窓を一瞥する。外はすっかり日が沈んで闇が広がっている。田舎といえど、夜中に一人で外に出るのは、さすがの雪乃も許さないだろう。


 昨日、近くで猪の声が聞こえたのだ。猪に遭遇してしまうかもしれない。今日は諦めた方が良さそうだ。


「……風呂行くついでに、念の為確かめよう……」


 家の中にあったらいいけれど、と時雨は嘆息した。


 結局、家の中にもなく、雨が降りませんように、と願いながら就寝したのだった。

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