第2話 出会い②

「……」


 時雨は呆気に取られて、その男を凝視する。


 いや、見惚れていたと表現したらいいだろうか。その男を見た瞬間、時雨の時は止まってしまっていた。


 その男は見た所、二十代前後の青年だ。赤茶色の髪は後ろに緩く括っている。目が若干垂れており、その上を細長い眉が走っている。眉が髪の色と同じだから地毛だろうか。テレビでも顔の整った顔をした人間をよく見かけるが、青年はそんな人間たちよりもかなり美しい顔立ちをしていた。


 そしてその青年の着衣は。


(狩衣かりぎぬ……?)


 群青ぐんじょう色の着物。それは平安時代の貴族が普段着として着ていた狩衣と酷似していた。映画でしか見たことない服装だが、間違いない。


 異様だ。だって、祭りの時期でもないし、今は平成の世。そんな当たり前のように、普段着のように着ているのはおかしい。


 けれど、異様と認識してもそれが薄れていってしまうくらい、時雨は青年に見惚れていた。


 綺麗だったのだ。古びた神社も裸になった木も、ぼやけてしまう。背景も道具も頼らない、浮きながらも輝いて見える美の骨頂を青年は持っているようだった。


 見惚れるなど経験したことのない時雨は、頭が真っ白になり思考が停止していた。


 男の周りだけ、額に縁取られた絵画のようだった。ただ。そう、ただ彼が持っている物を除いて。


 持っていたのは、食品保存容器だった。そこから桃色の何かを口に運んで、もしゃもしゃと食べている。少し俯いているからか、こちらにまだ気づいていないようだった。


 一気に現実に引き戻された。時雨は半眼になって、男を凝視する。


(なに、食べているんだ……?)


 その時、不意に青年の顔が上がって、時雨と目が合った。

 時雨は硬直こうちょくした。青年の方も目を丸くしている。


 どれくらい見つめ合ったのだろうか。先に口を開いていたのは、青年だった。


「君……私がえるのか?」


「……?」


 胡乱うろんげに首を傾げる。

 何を言っているのだろうか、この男は。


「見えるかって……そこにいるんだから、見えるに決まっているでしょう?」


「そうか……うん、私が視えるのか……」


 青年は嬉しそうに破顔して、何度も頷く。


「私が視える人間が此処に来たのは、いつぶりだったか……」


「……」


 どうしよう。この人、綺麗な顔をしているけれど、頭がどうかしている。まるで、自分は人間ではないような言い方だ。


「あぁ、私ばかり話してすまない。人間とこうして喋るのは久方ぶりで、話し方を忘れているのだ」


「は、はぁ……」


「そうそう。名を聞く時は、まずは自分から名乗ってから相手の名前を聞け、だったな。私の名は陽古ひこだ。一応、太陽の陽に古いと書く。君は?」


「……知らない人には名乗るな、と言われているので」


 ただでさえ変わった苗字だ。調べられたら、すぐに見つかってしまう。


 そう言うと男は目を瞬かせた後、「うむ、人間の世も随分と変わったようだな」と神妙な面持ちで頭を縦に振った。


「ところで、あなたは何を食べているんですか」


「あぁ、これか? 桜の花びらの塩漬けだ。甘い香りがするだろう?」


「え、桜ってほとんど無香ですよね?」


「たしかに生の桜はほとんど匂わない。だが塩漬けにすると、こういう甘い香りになるらしいのだ。これを奉納してくれた、お爺さんが孫らしき人にそう教えていた」


 なるほど。桜の匂いの正体は、男が持っている桜の塩漬けということなのか。


(いやいや。だからといって香りが風に乗って届くか?)


 初めて匂いがした場所からここまで、それなりの距離があるはずだ。考え過ぎ、なのだろうか。


「そ、それでそれ、美味いですか?」


「いや、塩辛い」


「でしょうね……」


 呆れかえる。それでも食べ続けるのは何故だろうか。


 桜の塩漬けは初めて聞いたが、そういうのはそのまま食さないものだと思う。


(いや、そもそも桜は季節外れで)


 色々とこんがらっていると、青年がタッパーを差し出してきた。


「君も食べてみるか?」


「いや、いいです」


「そうか。それにしても、人間という生き物は不思議だ。桜の花びらを食べるとは。いや、こんなにも綺麗なのだ。食べたらどんな味がするのか、興味があったのだろうな」


「……」


「私には人間のように食欲というものはないから、想像でしかないのだが……人間は塩辛いものを好んで食べるのか?」


「それは、人それぞれ……」


「そうなのか? あぁ、そうか。あの人は辛いもの持ってこなかったな。君は塩辛いものは嫌いか?」


「あまり、好きじゃないです」


 自分は何をやっているのだろうか。見ず知らずの人の質問に受け答えするなんて。こんなの、自分らしくない。いつもなら受け流しながら立ち去るというのに、この陽古という男から目を逸らすことも、立ち去る事も出来ない。足が地面に引っ付いているかのように、身動きが取れなかった。


「ところで君は、どうして此処に?」


「え」


「此処に来る人間は一人のお爺さんくらいだ。私がまだこの神社にいても、人間がそれを認識できるわけでもない。私がいようがいなかろうと、人間にとって此処は価値がなくなった……意味を成さない場所となってしまった。それなのに、何故君は此処に来てくれたのだ?」


 無垢むくな瞳が時雨を優しく突き立てる。


 やばい。この人のペースに飲まれこまれている。それにこの人、怪しい。怪しすぎる。この人にこれ以上関わったら駄目だ。うっかり身元がバレそうな情報を漏らしてしまうかもしれない。逃げなくちゃ。


 小さく深呼吸して、足を微動させる。動いた。そして勇気を振り絞って振り向いて全力で走った。


 後ろから呼び止める声はしなかった。いや、していたのかもしれない。けれどそんなのはどうでもよくて、時雨は只々、高校男子の平均的なタイムよりもやや遅めの足で懸命に地面を蹴った。

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