こうして僕らは『愛』を知る

空廼紡

出会った冬の頃

第1話 出会い

 雪を乗せた風が法華津ほけつ時雨しぐれの頬を掠め、通り過ぎた。


 通り過ぎた風を睥睨へいげいしながら、冬の青く晴れている日に吹いて、尚且つ雪を運ぶ風の事を『風花かざはな』というんだっけ、と時雨は前に見た本の内容を思い出す。風は冷たいけれど綺麗な名前だ。


(そういえば、風って二千以上の名前があるんだっけ)


 風の名前の辞典を思い出して、記憶を手繰ってみる。


 春一番に野分(のわけ)、朔風さくふう恵風けいぷ薫風けいぷう、あいの風、葛の裏風……その他諸々。日本にはこんなにも沢山な風の名前がある。難しく奥深いとされる日本語が織り成した、美しい風の文化だ。


(あぁ、それにしても寒い……耳当てが欲しい)


 昔、祖母に「耳当てなくてもかまんやろ」と言われた事がある。


 祖母よ、それは大きな間違いだ。耳が寒風に晒されると、キンキンとしてきて耳が遠くなる上に感覚がなくなるのだ。だからコートにマフラーに耳当て。これは冬には必須なのだ。


 それなのに今ないのは、高校生になる直前に両親の転勤が決まり、前の家を引き払って祖母宅へ本格的に引っ越しにする際に無くしてしまったからだ。


(新しいの買おうか……あれも古かったし。でも少し遠出しないとな。これだから田舎は)


 時雨が住んでいる地域は過疎化が進んでいた。猪は過去二回見た事もあるし、何十年も熊の出現はしていないが、それでも出てきそうな不安に襲われるほど山に囲まれた町。否。合併されたことで町になっただけで、実際は村である。


 小学校は小さいながらあるが、中学も高校も山を越えなくてはいけない。だから通学も楽ではない。


 中学生の頃はスクールバスがあったから、楽だった。だが、高校生になればバス通いか自転車しかない。


 バスといっても町内バスという名のマイクロバスなのだが、こちらは主に老人が使うという印象がある。


 大体の生徒は親に来るまで送ってもらうか、自転車で通学するかどちらかである。時雨の場合は親が県外にいるので、バスか自転車かの二択になる。


 ただでさえない体力を通学に使い切るかもしれないので、少々不便だがバスを利用していた。


 部活をしていないので、いつもならもっと早いバスで帰るのだが、今日は本屋に寄り道したので、遅くなってしまった。


(目的の本があってよかったけど、三巻がなかったんだよな。ついでに注文しとけばよかった。あ、耳当て買うついでに三巻も買うか)


 その時、ある風が時雨の鼻の下を通った。


「ん?」


 時雨は風が吹いた方向に目をみやり、怪訝そうに首を傾げる。

 風花ではなかった。寒風と共に運んできたのは。


「桜の匂い……?」


 はて、この季節ではありえない匂いだ。


(その前に桜って匂わないよな……?)


 桜の匂い袋を嗅いだことがあるから、これが桜の匂いだと思うだけで、実際に桜の匂いを嗅いだことなんてない。


(アロマか? いや、そういうものは、部屋でやるものだしな。だったらこの匂いはなんだ?)


 きょろきょろと辺りを見渡す。


 閑散しすぎる狭い車道に、元は民宿兼惣菜屋だったいう建物。そして、随分と前に潰れた崩壊寸前のタバコ屋に、そのタバコ屋の前に落ちている看板とオブジェと化しているたばこ自動販売機。


 一本しかない車道に枝のように伸びる細い道の先には、古い長屋の住宅があるが、そこには年寄りしか住んでいない。桜はなかったはずだ。


(トイレの芳香剤とか? それならまだ可能性があるか)


 また、ふわりと桜の匂いが風に乗って、鼻腔を掠めた。


(風向きからしてあそこから、か?)


 時雨は川沿いにある山に視線を向けた。寺がある山。山桜はあるがまだ咲いていない。


(なら、さらに向こう側の山か?)


 寺の向こうで悠然としている山々。桜は咲いていないようだ。


(山奥に狂い咲きした桜でも……いやだから、桜は匂わないんだって)


 いつもなら自己完結して終わりだが、何故か今は好奇心がうずうずして仕方なかった。


 時間を確認する。四時半ジャスト。後約一時間で日が暮れてしまうが、少し急げばなんとかなる。


 時雨は鞄を持ち直して、土手に足を踏み入れた。元々プールだったというすっかり寂れた施設跡を横に、草が腰のあたりまで伸びきっている。


 それを足で潰して道を作っていくと、コンクリートの道に辿り着いた。


(あ、古い団地と道が繋がっていたのか)


 古い団地の奥まで道は続いている。


 その道を進んでいくと、山間の間に開いた小さな広場があった。鬱蒼と伸びている竹林に囲まれた、薄暗くて湿っぽいところにある本当に小さな広場だった。


 広場の中心には大きな石段、左側の山の傍らに石造りの鳥居が鎮座されていた。


 鳥居の前に立つ。鳥居の向こうには、至る所が欠けている石造りの階段が続いている。階段には苔も生えていて、定期的に整備されていないことが窺える。


 わりと急なのに手すりがない、いかにも昔に作られた危なっかしい石造りの階段だ。続いた先にはまた鳥居があり、そこから光が射しこんでいる。


 額束がくづかに彫られている文字を見ている。


(山神天神社……? 山の神様を祀っているのか?)


 それはこの危なっかしい階段を上っていけば分かるだろう。何の神を祀っているかなんて、石碑か看板に書いてあるものだ。


 またふわり、と風が舞い桜の匂いが漂った。


(この上から、か?)


 破損しているところはなるべく踏まないように石造りの階段を上る。


 頂上に辿り着くと、古びた本殿らしき木造建築が目に入った。


 本当に小さな神社にはよくある、こぢんまりとした本殿だった。ただ違うのは、開放的な作りで本殿の中が丸見えという所だ。集会所のような、踊り場のような本殿。お賽銭箱もない。昔は綺麗に並べられたのであろう本殿に続く石畳は、階段と同様、破損してしまった箇所が多々あり、剥がれてしまった石の板も転がっている。板の間から雑草も生えていた。


 鳥居の傍らに狛犬がいて、上ってくる参拝者を見守っているかのように佇んでいたが、二匹とも長年風や雨に曝されていたせいか、すっかり風化していて顔や体の紋様がはっきりと見えなかった。それ以外にももう二匹いて、それは本殿に登る階段の両側に佇んでいる。


 一見すれば、人の手も施されていない、寂れた古い神社。しかし、一つだけ異常なものがあった。


 それは、本殿の階段に座っている、一人の青年だ。

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