第43話

 久慈原の告白が、耳を伝って脳に浸透するまで、おそらくは一瞬ではあったが、美咲には長い時間に感じられた。

 美咲は引き攣った笑みを浮かべて、

「……何を言っているんですか?」と訊ねた。

「いえ、ですから、俺は殺人犯だって言っているんですよ。聞こえませんでしたか?」

 この人は何を言っているのだろう? そんな冗談が笑えないことくらい、ちょっと考えれば分かることなのに。

「殺したのは京子さんの旦那だけじゃありませんよ。今までに、何人もの生命を奪ってきています。自分で言うのもなんですが、生粋のシリアルキラーなんですよ、俺は」

 息が苦しい。呼吸も心臓の鼓動もいつの間にか早くなっていた。身体の内側から冷えていき、全身が小刻みに震え始める。

 視界が揺らいだ。

 心が激しく揺らぐと、やはり視界も揺らぐのだと、頭のどこかで冷静に分析した。

「……どうして」喉から絞り出すようにして、美咲は訊いた。

「どうして殺すのか、ですか? 楽しいからに決まってるじゃないですか。俺は綺麗なモノを汚したいし壊したい。この真っ白なシーツみたいに綺麗な心の持ち主の心を蹂躙したい。子どもが真っ白な紙に落書きするのと同じ感覚なんですよ」

 言葉が出ない。身体が硬直したかのように動かなかった。

 ここから逃げないといけないと分かっていた。けれど、屋上扉の前に久慈原が立っていてそれは叶いそうにない。

 そもそも、久慈原が何故自分が殺人鬼だと告白したのか。映画やドラマでもよくある話で、簡単なことだ。美咲を殺すつもりなのだ。

 逃げたいのに足が動かない。

 その時、屋上扉の近くで、ガタンと何かの音がした。同時に金縛りのようになっていた身体の硬直が解けた。

「そこに誰かいるのか?」

 久慈原の注意がそちらに向いたのを機に、美咲は久慈原と距離を取った。

 舌打ちをして、久慈原が扉に近づいた。

「……何だ。掃除用具入れのロッカーからモップが倒れてきただけか」

 そういえば先ほど、モップを入れなおしたが、扉の建付けが悪いせいでまた出てきたのだろう。だが、そのお陰で硬直から解放できた。

 階下に逃げることはできない。洗濯したシーツが並んでいるところまで行って、なるべく久慈原から姿が見えないようにした。風が強く、はためいたシーツがうまく久慈原の姿を隠してくれている。何とか隙を見て階下に下りて、助けを求めなければ。

 こんな時スマホを下に置きっぱなしなのが悔やまれた。

 久慈原が屋上のドアを閉める音が聞こえた。そして、言ってくる。

「無駄ですよ。名取さん。逃げ場はない」

 美咲は、相手から見えない位置で叫ぶように訴えた。

「何でよ! わたしはあなたを助けたのよ! 何で殺されなきゃならないのよ!」

 理不尽だ。感謝こそされても、殺される理由はないはずだ。

「あなたには本当に感謝してますよ。どれだけ感謝しても足りません。だから、あなたには本当の俺を良く知って欲しいんです。あなたのことは本当に大好きですよ」

「だったらどうして?」

「そして、同様にその美しいものを壊すことが僕にとって最高の幸せなんです。わかりますか? 心が凄く満たされるんですよ。だから名取さん、お願いです。僕のために無残に死んでください」

 美咲は息を飲んだ。

 信じられない。これが、久慈原の本性なのか。

 あの優しい藤木亮人はもういない。これが彼なのだ。

 涙が出ていた。そして、やはり自分が彼に好意を寄せていたことに気付いた。

 久慈原が近づいてくる足音がする。突然、シーツが風でめくれた。

 目の前に久慈原がいた。

 その両手を美咲の首に伸ばしてくる。

 何でこんなことに……。涙を流しながら、美咲は立ちすくんでいた。

 瞬間。突然黒く激しい炎が久慈原を包みこんだ。

「な、何だ! さっきのやつか?」

 久慈原は驚き戸惑っていたが、すぐに冷静になった。

「さっきあの高校生が仕掛けたマジックかなんかか?  熱くも苦しくもない。気味悪いけど、まあいい。まずはさっさと終わらせよう」

 言って再び、手を美咲に近づけたその時、強風でシーツが飛ばされ久慈原の全身に絡みついた。顔も覆われて前が見えていない。

「くそ! 何だこれ!」

 久慈原は、シーツを取り払おうとしたが、見事に絡みついていて苦戦していた。屋上の柵の方にふらふらと、引き寄せられるように向かって行く。

 今しかない。美咲は久慈原の横を擦り抜け、屋上から脱出しようと扉まで駆けた。駆けながら後ろを見た。

 久慈原がバランスを崩して、柵に手をついた。その柵の場所は、数日前に老朽化で危険だと指摘された場所だった。柵が外れ、久慈原の身体が宙に放り出された。

 久慈原は悲鳴を上げて落下した。

 美咲は柵から下を見た。落ちた場所は植木がある場所だったらしく、久慈原は倒れた状態で、頭を抑えてうめき声をあげていた。

 施設の前にパトカーが止まるのが見えた。誰か警察を呼んでくれたのか?

 パトカーから出てきたのは中田だった。

「中田くん!」

 中田が屋上にいた美咲に気付いた。

「名取! 無事か!」

 中田は美咲の危機を知っていたのか? 何故という思いが浮かんだが、それよりも。

「中田くん! 彼を今のうちに捕まえて!」

「わかっている!」中田が、地面に倒れている久慈原に近づいて、素早くその手に手錠をかけた。

 それを見て、美咲は安堵の息を吐いて屋上の床に座り込んだ。身体の力が一気に抜けた。

 その時、屋上扉が勢いよく開かれて、その音に美咲は心臓が止まりそうになった。屋上に来たのは研修生三人だった。

「さっきの悲鳴は何ですか!」

 葉山の問いに、美咲は震えながら答えた。

「……久慈原さんが殺人犯だったの。黒い炎に包まれた後、その冊から下に落ちて、生きてはいるけど、警察の人が手錠をかけたわ。もう安心よ」

 それを聞いて葉山たちも柵の下をのぞき見た。

「あ、本当だ! ……でも、あの人、黒い炎に包まれたんですよね。殺人犯なのに、この屋上から落ちても助かるなんておかしくない?」

「夕実、何言ってんの? 確かにこの高さだったら命を落とすこともあるだろうけど、助かることだってあるわよ」

「……そうなんだけど、新藤君は、黒い炎は人間の罪を燃やして、それ相応の罰を与えるって言ってた。犯人に何度も死の恐怖を与え続けてやるって。それほどの怨みを持っていたのに、実際は大したことなさそうに見えた」

「……進藤が急に意識を失ったからじゃないの?」

「あーもう、ただでさえわけわかんないのに、これ以上わけわからないことを考えるのはやめよう!」

 椎名の言葉に、二人とも「そうね」と同意した。美咲も全く同感だった。

 一度にいろんなことが起きすぎた。

 美咲は研修生たちに支えられるようにして、階下に降りて休むことにした。

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