第41話
藤木は激しい頭痛に頭を抱えていた。新藤という少年に首を絞められ、投げ付けられた時に頭をぶつけてからだ。
打ち所が悪かったのかずっと痛みが続いている。
進藤が近づいてきた時にはもう駄目だと思った。殺されると思った。
彼の言うことが理解できなかった。自分が宗馬京子をこんな状態にした犯人?
だから自分は殺されるのか。記憶を失う前はやはり殺人を犯していたのか。
頭が痛い。何かを思い出しそうだった。
歩みを止めた進藤は、突然京子に駆け寄り、そしてその場で倒れてしまった。
事態が理解できない。頭が痛い。
三人の研修生が新藤に駆け寄った。
「ちょっと、いきなりどうしたの?」
葉山が困惑していた。
彼を見た月野が叫んだ。
「救急車を! 早く!」
「わかった!」
椎名がスマホを取り出して救急車を頼んだ。
進藤の顔を見ると土気色になっていた。
以前にもこのような状態の人を何人も見た気がする。もう少しで何か思い出せそうだ。
藤木の傍で、美咲が言った。
「警察もお願い。これは殺人未遂よ」
その目は進藤に向けられていた。
三人は顔を見合わせ、月野が言った。
「警察は待ってもらえませんか?」
「何言ってるの? 藤木さんが殺されかけたのよ!」
「分かっています。でも……」顔を俯き言い淀む月野に、葉山と椎名が顔を見合わせて、何か決意した目になって頷いた。
「わたしたちからもお願いします。進藤は、わたしたちが危険な目に遭っていた時に助けてくれたんです。だからといって、今回のことが許されるわけじゃないのはわかっているけど、それでも警察沙汰にはしてやらないでください」
三人は進藤の味方のようだ。懇願するように言われて、美咲も戸惑っている様子だった。
藤木は京子の顔を見た。これだけの騒ぎの中、置き物の人形のように微動だにしていない。
突然、さらに激しい頭痛が起きると同時に、フラッシュバックが起きた。様々な画像が頭の中に浮かび上がる。
恐怖に顔を歪める中年の男。赤ん坊をかばう様にして命乞いをする母親。憎しみの形相でこちらを見て死に行く男。泣き喚く女児。
そして、彼らの前に凶器を持って立っているのは……。
藤木は全て思い出した。
そうか。そういうことだったのか。やはり、俺は……殺人鬼だった。
宗馬京子のこともよく覚えている。
彼女を初めて見たのは、彼女が庭で洗濯物を干している時だった。太陽の光を浴びるようにして白いシャツを干すその美しい姿に、欲望が湧き出てきた。
いつもそうだ。心の底から湧き出てくる欲望を抑えることができない。綺麗なものを汚したい。ぐちゃぐちゃにしたい。
彼女が家を出てから扉近くの植栽に隠れ潜んで、帰ってきて扉を開けた瞬間に家の中に押し入った。
二階にまで逃げられ抵抗されたが、何発か腹を殴ったらおとなしくなった。その後で、ゆっくりと彼女の顔を殴ってぐちゃぐちゃにした。
最高の気分を味わっていると、その夫らしき男が帰ってきた。現場を見て、喚きながら向かってきたから、とりあえず射殺した。夫婦仲良くあの世に行けたのだからよしとしよう。そう考えていた。
拳銃は、刑事である金本から裏取引で手に入れたものだった。
満足して家を出ると、外は激しい雷雨だった。
屋根があるところを移動していき、路地裏を通った時だった。大気を震わせるような雷鳴が轟いたと思ったら、近くの電柱に落ちて電線が切れたのを見た。それが、自分の方に向かってきて……。
これが、記憶を失う前の出来事だ。
やはり……やはり、自分は最低で最悪の人間だったのだ。
本当の名前は久慈原浩平。
十九歳のとき、最初に殺害したのは自分の両親だった。世間一般では良い両親だったのだろう。だが、久慈原はあまりにも普通の両親がおもしろくなかった。父親はうだつのあがらないサラリーマン。母親は、近所のスーパーでパート。
ある日、母親が交通事故にあい、脊髄損傷で体の自由が利かなくなった。母親を助けるために父親は仕事をやめ、付きっ切りの介護に徹した。
何もできない母親、それを支える父親。それを見ているうちに、心の底から欲望が滲み出してきた。
気がつけば、家の中で二人は血を流して倒れていて、久慈原は包丁を握ってその傍に立っていた。
罪悪感などは全くなく、むしろ清清しい気分だった。彼らを解放してやったと思えた。
両親の事件は、当初久慈原が犯人だと疑われた。だが不思議なことに、容疑者から外れて両親を殺された可愛そうな一人息子ということになった。
その件に関しては、金本が久慈原を容疑者から外すように何かしたらしい。逮捕されたくなければ、協力しろという話を持ってきたのだ。
金本は何となく自分と同類のような気がした。だから、協力をすることにした。
その後も、久慈原は殺人を犯した。友情や家族愛が壊れるところを見るのが、堪らなく好きだった。美しいものを壊すことで、自分の何かが満たされた。
久慈原が犯した犯罪を、金本が証拠を隠滅し、もしくはその証拠を別の人間になすりつけることで、うまく話はが進んだ。また、金本が怪しまれた時は、久慈原が手を汚して彼を助けることもあった。
金本は名誉を欲していた。その為に手段は選ばなかった。だが、それが何だ。人とはそういうものではないか。自分の欲に忠実に動くのが、人としての本能ではないか。
久慈原はそう考えていた。だから、自分も本能の赴くままに行動していた。
吐き気を催すほどの最低で最悪な人間。
記憶を失い、藤木として過ごしたからこそ、自分の過去の所業の恐ろしさがわかる。俺は何ということをしてきたのだろう。
藤木であった時も、入所者たちに、時々抑え難い怒りを覚えたことがあった。あの時は、自分の感情がわからなかったが、今思えば、わざわざ人の手を煩わせてまで生きている彼らの存在が許しがたかったのだ。
研修生三人がそんな彼らに対して、同情的で献身的なことを言っていた。その純情な心が眩しくて、無茶苦茶に汚してやりたくなった。
久慈原浩平は、本当に、どうしようもなく腐った根性の持ち主だった。
だがそうだ。これが俺なのだ。
心優しかった藤木直人は、元の最低最悪の久慈原浩平に戻った。
そういえば、中田刑事に頼み事をしていたのだった。もし、自分が犯罪者であったなら、逮捕して欲しいと。
藤木であった時は、心からそう願っていた。驚くほど善人であった。
中田はどんな顔をして中田を捕まえに来るのだろう。久慈原の本性を知った時、どんな気持ちになるのだろう。
中田の心境を想像して、笑いが込み上げてきそうになった。
まさか、自分の人生にこんな面白い展開が起きるとは思っていなかった。
「……藤木さん、大丈夫?」
美咲が心配そうな顔で声をかけた。
その声にようやく我に返った。そうだった。今は介護施設で藤木亮人として働いているのだった。
命の恩人である、名取美咲。面倒を見てくれた上に仕事まで紹介してくれた。彼女には礼を言ってもいい足りないくらい感謝している。だから……。
「俺は、藤木亮人じゃない」
「え?」
「俺は久慈原浩平だ」
「記憶が戻ったの?」
「ああ。全部思い出しましたよ」久慈原は笑みを浮かべた。
心の底からどす黒い欲望が滲み出てきていた。
───そして。
今まで藤木に中で燻っていた、拓真の怨念の炎が静かに燃え始めた。
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