第36話

 朝のホームルームが終わると、担任の森が夕実を手招きして呼び寄せた。

「月野さん。この前言ってた介護施設の研修先が決まったわよ」

「介護施設?」一瞬何のことかわからなかったが、すぐ思い出した。

 そうだった。介護師目指すために、研修したいと申し込んでいたのだ。新藤の一件ですっかり忘れていた。

 そういえば、いつだったかの放課後に森にそんなことを言われていたような気がする。

「あ、ありがとうございます。えっと、三人ともですか?」

「別クラスの葉山さんと椎名さんも一緒よ。施設の方はいつでもいいって言ってくれてるけど、三人で話して決めてちょうだいね」

「はい。ありがとうございます」

森は手を振って教室を出ていった。

早速、葉山と椎名のクラスに行って二人を手招きして呼び寄せる。

 二人とも、担任から聞いていたようだ。

「いつでもいいそうだけどどうする?」

夕実が聞くと二人とも「いつでもいいよ」と答えた。

「んじゃ、今週土曜日とかは?」

「大丈夫」「わたしも」と、二人が答えた。

 それから、二人は少し顔を見合わせて、

「……ねぇ、今日新藤君は?」と、椎名が訊いてきた。

 昨日の進藤の様子に、何かしら思う所があったのだろう。

「……うん。今日は来てないの。昨日あれからどうしたんだろう」

「……別に他人の魂が乗り移っている話を信じたわけじゃないけど、昨日の顔は真剣だったよね」椎名は困惑しているようだ。

「……あまり考えないようにしよ」と言う葉山も同じ様子だった。

 昨日、進藤が教室を出て行った後、少し教室内はざわついていた。進藤と夕実たちとの一部始終を見ていた生徒もいて、興味津々で夕実に何があったか聞いてきたりした。

 担任の森も急にいなくなった進藤を心配して自宅に電話をかけたが、どうやら夕方には帰ってきていたらしい。「心配かけて申し訳ありません」と言うだけで何故早退したのかは言わなかったようだ。

そもそも夕実たちの情報で学校を飛び出して行ったのだから、夕実たちの方も何も言えなかった。理由を説明しても信じてもらえるわけがないのも分かっていた。

今日彼は何故休んだのだろうか。宗馬京子とは会えたのだろうか。会ってどうしたのだろうか。

夕実たちはそのことが胸のどこかに引っ掛かりながらも研修先での事について話しあうことにした。



 朝、目覚ましの音で目覚めると、体が寝汗でべとついていた。

 何か嫌な夢を見た気がするが、覚えていない。

 朝から陰鬱な気分を払拭するため、美咲はシャワーで汗を流した後、朝食の支度を始めた。

 時刻は午前五時半。祖父母はいつも美咲よりも早く起きて朝から仲良く散歩に行くのが日課だ。いつ起きているのか聞くと、四時過ぎには起きていると言う。寝るのが夜の八時なのだから、早いのも当然だが。

 六時半頃に朝食の支度を終えると、玄関の扉が開く音がした。二人が帰ってきたのだ。だいたい時間通りだ。

 三人で朝食を済ませ、美咲は仕事に行く準備をした。

「行ってきます」

 家を出て、車を運転しながら何となく昨夜の夢を思い出そうとした。嫌な夢だったのは覚えているのだが、内容が思い出せない。嫌な夢なのだから、思い出さないのがいいのかもしれないが、何故か気になった。

 スタッフ用駐車場に到着し、ふと目の前のビルとビルの間の路地を見た。そこで、藤木と出会ったのを思い出す。

 今日に限って、何故か気になった。あの時、彼はここで何をしていたのだろうか。

 時計を見て、そんなことを考えている場合ではなかったことに気づいて、慌てて職場に走った。

 施設の朝は、七時半に朝礼が始まる。その後、夜勤の者から引継ぎをして、それぞれが担当している入所者のもとに赴く。入所者の家族の面会時間が十時からなので、それまでは慌ただしい時間が過ぎていく。が、十時頃を過ぎれば少し落ち着く。今日に関しては、藤木が休みなのでその分大変だった。

 彼は名取にとって非常に大きい存在になっていたのを実感した。

 美咲は宗馬京子の部屋に様子を見に来た。

「京子さん。おはようございます。今日もいい天気ですねぇ」

カーテンを開けて窓から外を見て話しかけるが反応はない。美咲は一つ息をついた。

彼女はずっとこのままなのだろうか。時々彼女の家族や友人が会いに来ることがあるが、それでも全く反応はない。

家族や友人はつらい顔をして帰っていくのだが、美咲もそれを見るのが辛かった。

ふと窓の外を見ると正面門から人が入って来るのが見えた。

「……あれは、昨日の」

 彼は昨日、京子にすがるようにしていた高校生だった。赤坂卓の友人で、確か新藤拓真という記憶喪失の少年だ。京子に会いに来たのだろうか。程なくして、拓真が京子の部屋に入ってきた。そして、美咲と目があうと頭を少し下げた。

「おはようございます。昨日は突然すいませんでした」

「いえいえ。いいんですよ。京子さんのお知り合いなんですよね? どうぞゆっくりしていってください」

 拓真はまた頭を下げて、京子のベッドの横に座った。黙って京子を見つめ時々目をつむり、俯く。

美咲は思いきって訊ねてみた。

「あの、赤坂君から聞いたんですけど、記憶喪失なんですって?」

「え? ああ、はいそうです。目が覚めた時は名前もわからない状態でした」

「……そう。お気の毒に。実はこの職場にも記憶喪失の人がいるんですよ。身元も不明で家族がいらっしゃるのかどうかもわからない状態で、今は生活保護を受けて、わたしの紹介でここで働いているんですよ」

 進藤は驚いていた。

「……そうなんですか。まさか記憶喪失の人が他にもいるとは。身元も不明……俺にはまだ家族がいたからまだマシか。その人はどこに?」

「今日は休みなんです」

 進藤は「そうですか」と、興味を無くしたように呟いた。

 美咲はもう一つ聞いてみることにした。記憶喪失というわりにはこの少年の言動や行動は腑に落ちない。

「……京子さんとはいつ知り合ったんですか?」

 その質問に進藤は美咲の胸の辺りに視線を彷徨わせてから、一つ息を吐いた。

「俺が記憶喪失というのを疑ってるんですね? 記憶喪失だというのに彼女のことは知っている。昨日の行動も記憶喪失の人間の行動ではない。確かにおかしな話です」

 進藤は悲しい瞳を京子に向けた。

 美咲は驚いた。心を見透かされたようだった。

 進藤は続けて言って謝った。

「……説明できないんです。すいません」

 進藤の悲しみとも取れる力ない笑みに、美咲は何も言えなくなった。

 彼は京子を見つめて訊ねた。

「……彼女は治るんでしょうか?」

「……それは何とも言えません。でも彼女が治るということは、辛い事件のことを思い出すことにもなるし、何が彼女にとっていいのか……」

 進藤は黙ったまま彼女を見つめた。そして俯いて何か呟いたが、美咲には聞こえなかった。

 部屋に他の職員が美咲を呼びにきた。

「美咲ちゃん、斎藤さんちょっとお願いします」

「あ、はい」

美咲はちらっと進藤を見て、「失礼しますね」と言って部屋を出た。

 彼の横顔は泣いているように見えた。


 夜、新藤家では食卓を囲んですき焼きを食べながらそれぞれが今日の出来事を話していた。

 最初にみんなから話を促されたのは拓真だった。家族には「記憶が戻りそうな場所がある」と言って、学校を休ませてもらったのだ。家族にとっては早く結果が知りたいのだろう。あまり嘘をつき続けるのもボロが出る。そう思い、少しだけ真実を混ぜることにした。

「今日は介護施設に行ってみたんだ。何で介護施設なのかはわからないけど、介護している人たちを見て、何かわかりそうな気がした。でも、駄目だった……」

 拓真は話をしながら表情のない京子の顔を思い浮かべ、胸を締め付けられるような痛みに苛まれた。

 妻はもう戻ることはないのだろうか。

 辛そうな拓真の顔に、美佐が優しく言った。

「……無理に思い出さなくていいって。ゆっくりいこ」

「美佐の言う通りよ。そうだ。今度の休みみんなで前に行った温泉行かない?」

「おお、そうだな。それがいい」

 母親の意見に父親も賛同した。

 拓真も頷いて、笑みをうかべた。

 いい家族だ。新藤拓真はこんな幸せな家庭に生まれ育ったのだ。その拓真が実は既に亡くなっていて、その肉体を別の魂が占領している。拓真───正樹は、罪の意識を感じた。

 その瞬間、またあのノイズが頭に走った。最近、日に一回は起こるようになってきている。

「ごめん。ちょっと、薬飲むよ」

 拓真は大したことはないというように装って、抑制剤を飲んだ。

「……明日、もう一度休んで他の場所行ってみていいかな? まだ気になる場所があるんだ」

「ああ。もちろんいいよ。行って来なさい」

 母親も父親も快く言ってくれた。

 拓真はまた罪の意識を感じた。明日も施設に行って京子の顔を見に行くつもりだったのだ。

 拓真の話題から美佐の中学校の話、両親の会社の話となって食事を終えた。

 美佐は自分の部屋へと戻り、母親は食事の後片付け、父親は居間でテレビを見てくつろいでいた。

 拓真も自分の部屋に戻り、電気も点けずベッドに腰掛け考えにふけっていた。

 目を閉じると施設での京子の顔が浮かぶ。手を取って名前を呼んでも反応は全くなかった。

  彼女の魂の色を見ても何の色もなかった。色の無い魂は初めてだった。あまりに変わり果てた京子の姿。それが京子であるとは信じたくなかった。

 京子との生活もどうしても思い出してしまう。結婚して一年。彼女の笑顔、温もり、幸せだった一時。

 これからもずっと幸せな日々が続くと思っていた。

 なのに、それが一人の男によって破壊された。

 何度、アイツを頭の中で殺しただろうか。

 手足を潰し、頭を砕き、心臓を握りつぶし、痛みと絶望を与えながらも簡単には死なせない。

 暗がりの中で、拓真の憎悪の炎は周囲を歪めるようにして燃えていた。

 

 

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