第35話

「京子さん。外が涼しくなってきたんで、お散歩行きましょうか?」

 美咲と藤木は、宗馬京子の部屋の清掃にきていた。

「それじゃあ、僕は部屋の掃除とシーツ取替えしておきます」

「お願いします。あ、あと花瓶の水も取り替えといてください」

 藤木は頷いた。

 美咲は京子を車椅子に乗せて、部屋を出た。

 藤木はとてもよく働いてくれた。気も利くし男手で力もある。職員のみんなからの評価も高かった。

 藤木がここで働き始めて半月程になるが、彼の記憶が戻ることは未だになかった。結局身元も不明のままで何の情報もない。京子と出会った時に何か感じたようだったが、まだ何も思い出せていないらしい。

 探している家族や友人、恋人はいないのだろうか。

 職場の何人かは、「謎な男っていいよね。ミステリアスで」とか「女は謎な人に惹かれるのよ」とか、勝手なことを言っている。

 一時、入所者たちから藤木に対する妙な声があったが、今はない。やはり入所者たちの勘違いだったようだ。

 美咲は車椅子の京子を押して外に出た。気持ちのいい涼しい風がふいていた。

「いい風ですね。京子さん」

 京子は、相変わらずどこか一点のみを見ている感じだった。

 記憶のない藤木も可哀想だが、彼女も不幸な女性だ。強盗に夫は殺され、彼女も乱暴されてこんな状態になってしまった。犯人は未だに捕まっておらず、たまに警察が京子の状態を見にきて、変わらない彼女を見て帰っていく。

 先日、大学の同期である森と中田と出会って、世の中の不条理を愚痴った。

 この施設には、時折、家族に理不尽な扱いを受けて入ってくる人もいる。施設に入れるだけ入れて、後は放ったらかしというのもある。

 同じ人間で、どうしてこんなにも境遇に差が出てしまうのだろうか。釈然としないものを感じ、ため息をついた。今ここでこんなことを考えていても仕方がない。

 京子を連れて、正面門前に来た時だった。

 高校生らしき制服を着た少年が立って、建物を見ていたのに気づいた。少年もまたこちらに気づいて、その眼が見開かれた。途端にこちらに猛スピードで向かってきた。

 咄嗟の出来事で、どう対応していいかわからなかった。

「京子!」少年は叫んで、京子の前に立った。「京子! 俺だ! わかるか!」

 彼女の腕をとって、泣きそうな顔で訴えかけている。

 美咲は困惑しながらも、訊ねた。

「……あの、お知り合いの方ですか?」

 少年は少し驚いて、美咲の方を見た。

「あ、すいません。えと、京子……さんは、今どういう状態なんですか?」

 美咲は不審に思いながら、少しだけ京子の状態を話した。

 それを聞いて、少年は京子の手をとって涙を流した。その悲痛な表情に京子はまた驚いた。

 何だろうこの子は? 彼女とどういった知り合いなのだろうか。この顔を見ていると、ただの知り合いとは思えない。

「あの、君、名前は? 京子さんとどういったお知り合い?」

「……俺は」何か言おうとして、少年は黙った。そして、名前だけ告げた。

「新藤拓真といいます」

「新藤さん。もう一度聞きますよ? 京子さんとどういう関係ですか?」

 少年は、苦渋の顔をして黙っていた。そして、京子の顔を見て、泣きそうな顔に無理やり笑みを貼り付け、何か呟いた。

 よく聞き取れなかった。

 正面門からまた高校生が現れた。それは、美咲も知っている顔だ。

「あ、おかえりなさい」

 施設長である赤坂の息子の赤坂卓である。

「あれ? 新藤? 何でお前ここにいんだ?」

 彼はまた驚いた顔になった。そして、京子の顔を見て、

「また来るから」そう言って、彼はその場から逃げるように走り去っていった。

「あ、おい!」卓が呼び止めたが、彼は無視して消えていった。

「何だあいつ。感じ悪いな」卓は仏頂面になった。

「卓君の知り合い?」

「ん? ああ。中学の時の友だちなんだ。今日久々に会ってさ。でもあいつ、記憶喪失とか言っててさ、俺のこと知らないみたいな感じだったんだ。手がかりがどうとか言ってたけど、ここのことなのか?」

 美咲は耳を疑った。記憶喪失? 

 先日、大学時代の同級生だった森から、記憶喪失の生徒の事を聞いたが、まさか彼がそうなのだろうか。そういえば、彼の制服、森が務める高校のものだったような気がする。

 卓が京子を見た。

「その人、確か隣町で起きた事件の被害者だよな? その人と新藤、知り合いだったのかな。何かを思い出したとか」

 美咲は顎に手をあてて少し考えた。知り合いというふうではなかった。ただの知り合いを、あんな悲痛な顔で見るだろうか。彼の顔は、まるで大事な女性に向けるものだった。そんな彼が記憶喪失だという。矛盾しているではないか。

「あ、そうそう。名取さん、話は変わるけど、他校がここに研修しにくる件どうなりました?」

 卓が少しソワソワして訊いてきた。

 おそらくは、施設長の赤坂から、他校の女子がこの介護施設に研修に来る事を聞いたのだろう。

 彼の通っている高校は男子校だから、あわよくば交流を持ちたいと考えているのかもしれない。

 最近は期末試験前で姿が見かけなかったが、少し前までは、卓はこの施設に頻繁に出入りして、職員たちの手伝いをしていた。気さくで陽気な彼の性格は、入所者たちにもウケが良かった。手伝っている代わりに、お茶菓子やら飲み物などをちゃっかりと入所者から貰って、後で母親の赤坂施設長から怒られていたのだが。

「わたしの友だちが務める高校の生徒よ。確か、陽成高校だったかしら」

「陽成! 新藤の行ってる高校じゃねえか!」

 美咲は息を飲んだ。と、同時にやはり森の言っていた生徒だったと確信した。

 ひょっとしたら、その高校から来る女生徒から、新藤の情報がわかるかもしれない。

 少し肌寒くなってきた。

「京子さん、冷えてきたんで中入りましょうか」

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