第33話
トイレに入ると、藤木が手洗い場で手をついて、鏡に映る自分から目を逸らすように俯いていた。俯いた顔から雫のようなものが垂れている。顔を洗ったのだろう。
首筋が顕になって、そこにサイコロの四の形の黒子が見えた。
トイレ内に、他の客の姿はなかった。
「大丈夫か?」
声をかけると、藤木がコチラを見た。口元に笑みが浮かんでいた。自嘲しているのだろうか。直ぐに、口を引き結び、藤木は息を吐き出して答えた。
「大丈夫です。すいません、会ったばかりなのに情けない姿を見せてしまって」
「仕方ないさ。記憶喪失なんだから、色々と心が不安定なんだよ」
精神と感情のバランスの足場は、過去の体験によって培われていく。さまざまな経験を得て、少しずつ足場を塗り固めていくことで、成長していくのだ。
過去を失った藤木にはソレがない。不安定な足場では、ちょっとした波風で揺らぎ落ちてしまう。
だから、聞くに聞けなかった。
藤木が先ほど言った、宗馬京子を知っているかもしれない、事件に関わっているかもしれない、という言葉の意味を。
本当に藤木が、宗馬京子の事件に関わっているのであれば、是非とも記憶を取り戻して欲しいところだ。
だが、記憶喪失で日々不安を抱いて過ごす彼に、無理矢理過去を思い出せと煽るのは酷ではないだろうか。
少なくとも中田にはできなかった。刑事は時に非情にならないといけないのに、こんなことではいつまでたっても一人前になれやしない。
「……中田さん。いや、中田刑事」藤木が真っ直ぐに、中田を見てきた。
「お時間あるときで構いません。僕の身元を調べて頂けませんか? そして、京子さんとの接点も。もし、僕が京子さんの事件に関わっていたなら、事件解決にも繋がるかもしれませんし」
「おいおい、ちょっと待てよ」
中田は困惑した。まさか、藤木自身がそれを言い出すとは思わなかった。
名取の話だと、藤木には身分を証明するものが何一つなかったということだ。記憶もない、身分証もない。隙間時間で藤木の素性を探るのはかなり困難だと思った。
「……難しいことは承知しています。中田刑事に出来る範囲でいいんです。例えば、過去の犯罪者履歴に、僕の顔があるかどうか、とか。聴き込みの際、僕の写真を見せるとか」
中田は藤木を凝視した。
「……自分で何言ってるかわかってんのか?」
藤木は力強く頷いてから、少し目を逸らせた。
「記憶がないって物凄く怖いものなんです。過去の自分と今の自分がまるで違っていたらどうしようって、いつも怯えています。このまま、思い出さない方が幸せなのかもしれない。だけど、いつまでも怯えているだけの人生なんて嫌なんですよ」
そう言って、またこちらを睨みつけるように見てきた。
その眼力に気圧され、たじろいでしまった。
どこが、ちょっとした風で揺らぎ落ちてしまうような不安定な精神の持ち主だ。
まったく、進藤拓真といい、藤木といい、二人とも記憶喪失者らしからぬ強さを持っている。
続けて藤木は言った。
「そして、もしも僕が犯罪者だった時は、中田刑事、僕を逮捕してください」
その言葉に唾を飲み込む中田。
まるで自分が過去に犯罪を犯しているかのような言い草だった。
何か思い当たる節でもあるのだろうか。
宗馬京子の事件に関わっているかもしれない。それだけでここまで思い詰めた顔になるだろうか。
藤木が言っていた、封じられた記憶の扉の向こう側にいるソレが、犯罪者の記憶だと想定しているのだろうか。
中田が答えあぐねてきると、トイレのドアをノックして他の客が入ってきた。
「……こんな所でする話じゃなかったですね。出ましょうか」
「……ああ」
中田と藤木はトイレから出て、森たちがいる席に戻った。そこでは、森と名取が、何やら話し合っている所だった。
「じゃあ、そういうことでヨロシク」
「わかった。施設長にも頼んでおくわ」
戻ってきた藤木を見て、森たちは少し無理した笑顔になった。
「あ、おかえり」
「二人がトイレ行ってる間に、食べ物頼んどいたよ」
席に着いて少しすると、次から次に所狭しとテーブルに料理が並んでいき、藤木と中田の顔が引き攣っていった。
「頼みすぎだろ……」
「いいのいいの。今回はわたしたちが少し多めに払うから。男たちはいっぱい食べて、明日からまた働きなさい」
「俺、明日は非番って言わなかったっけ? まあいいや。それより、さっきは何を話していたんだ?」
中田が訊くと、名取の障害者施設で、森の生徒を研修させられないかという話をしていたらしい。
「こんな時でも、教師としての役目を果たそうとするとは、頭が下がるぜ。なあ、藤木くん」
「そうですね。中田刑事も、もしもの場合、役目を果たしてくださいよ」
さりげなく、藤木は先ほどの話を持ち出してきた。
もしもの場合。藤木が犯罪者である可能性は、決してゼロではない。
少しの間逡巡して、中田はため息をついて「わかったよ」と答えた。
「何の話?」
森の質問に、中田は「何でもない。男同士の約束だ」と答えた。
「今どき男同士の約束って……そんな恥ずかしいセリフよく言えるね。腐女子が喜びそうだわ」名取がサラダをトングで自分の皿に取り分けて言った。
「うるせえよ。藤木くん、とりあえず、俺たちも食おうぜ」
「そうですね」
藤木は笑いながら、目の前の料理に取り掛かった。
それを横目で見ながら、中田は胸に何か嫌な予感を抱き始めていた。
──彼に気をつけなさい。
どこからか声がした気がした。……どこかで聞いたような声だったが。
「何か言ったか?」
三人とも口に料理が入っていて、声を出せるタイミングではなかった。
気のせいか。うん、気のせいに違いない。今の声は、金本によって殺害された、先輩の女刑事の声に似ていた。だから、絶対に気のせいだ。
少し酔いが回ったらしい。
背筋に薄ら寒いものを感じながら、中田はそれを酔いのせいにして、とにかく目の前の食事に集中することにした。
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