第32話

 仕事を終えて、森は前回同様『満福』へとやってきた。店の前で五分程待っていると、中田が姿を現した。

 紺のスーツズボンに、上はグレイのカッターシャツという出立ちだ。

 森も普通に動きやすいソフトジーンズのズボンに、上は薄いピンクの服という地味な格好だった。

「お疲れ」

「おう、お疲れ」

 軽く挨拶してから店内に入り、壁際の席へと通された。おしぼりで手を拭いてから、中田はそのままおしぼりを目に当てて目頭を揉み解すようにした。

「大分疲れていそうね。そんなに忙しいの?」

「まあな。一つの事件が終わったら、次の事件か未だ未解決の事件が待ってるしな。ホント、警察と犯罪とのイタチごっこだわ。まったく、警官の数が少ないんだよ。国民の三割くらい、刑事にならねえかな」

「めちゃくちゃ言ってるわね。ストレス溜まってんじゃない? 今日は飲んじゃう? 一杯くらいなら大丈夫でしょ」

 中田は少し考えて、「そうだな。明日は非番だし」と頷いた。

 店員に生ビール二つと、つまみになりそうなモノを二、三品頼む。

 先にビールがやってきたので、乾杯した。

 中田は半分ほど一気に飲むと、口に泡髭をつけて「うめぇ!」と感極まった口ぶりで言った。

 そこに、通路を通りがかった二人の男女が、コチラを見て声をかけてきた。

「……聞いたことある声だと思ったら、中田くんと奈美ちゃん?」

 女性の顔を見て森は驚いた。

「美咲じゃない! うわー、久しぶり!」

「うお、ホントだ! 名取じゃねーか! 大学以来だな! 元気してたか?」

「うん、まあね」

 森は隣にいた男性が気になった。二十代前半だろうか。

「ひょっとして、美咲の彼氏さん?」

「違うわよ。同じ職場の人で、藤木さん」

 藤木が頭を下げて、「初めまして。今は、藤木亮人と名乗ってます」と、不思議な言い方をした。

「んん? 何か変な自己紹介だな。まあいい。良かったら相席どうだ?」

 中田が二人を誘った。まったく、こういう所は昔から気が利かない。久しぶりに会って話したいというのは森も同じだが、二人の邪魔をしてはいけない。

 森は足で中田の足を蹴って合図したが、「痛えな、何だよ」とまったく気づいてくれなかった。

 森の行動に気づいて、藤木が苦笑した。

「僕のことはお構いなく。名取さんも久しぶりの再会なんでしょう? 相席、全然構いませんよ」

「すいません、藤木さん。お二人の邪魔しちゃって」

「だから違うって。奈美、久しぶりだってのに、いきなりわたしを怒らせる気?」

「ゴメンゴメン」と、謝りながらも、コッソリと名取にだけ聞こえるように「でも、いい人そうじゃない」と言った。

「……うん、そうね」と言って、美咲の顔が僅かに陰った。

 怪訝に思いつつも、店員に一緒の席になった事を告げて、改めて飲み物と食べ物を人数分用意してから、再会と新たな出会いを祝して乾杯をする。

 中田はビール一杯だけのつもりだったが、飲んでしまったら一杯も二杯も同じだ、と理由をつけて二杯目に手を出していた。

 お互いの近況報告をしながら、食べ物に箸を伸ばす。

「美咲は介護士か。大変な仕事って聞くけど、どうなの?」

「確かに大変だけど、やり甲斐はあるわよ。入所者さんたちの笑顔に癒される事もあるしね。そういう奈美ちゃんも夢だった教職に就けてどうなの?」

「……まあ、少し夢と現実のギャップに多少凹まされている最中でございます」

 森は不満を少し吐き出してから、代わりにビールを喉に流し込んだ。

「俺もだよ」と、中田が軟骨唐揚げを口に入れ、コリコリと顎に力を入れて噛み砕いた。

「中田くんは刑事になったんだね。カッコいいじゃない」

「そのカッコいいと思っていた金本が、この前捕まったけどな。ちなみに、手錠かけたのは俺な」

 自慢そうに、だけどどこか皮肉を含んだ笑みで中田は言った。

「凄いじゃない。そんな活躍したのなら、昇進もあっという間じゃないの」

「手錠かけたまでは良かったけど、その後、俺は人質になって、ケツを蹴り飛ばされて、金本に車でまんまと逃げられました」

 森と名取は顔を見合わせて、黙ってしまった。どう声をかけていいかわからない。

「そんな顔すんなよ。確かに自分の間抜けぶりに腹が立ったけど、二度とあんな失態をしないって決めて前を進んでんだからよ」

 中田の前向きな発言に、三人は笑みを零した。

「人間はミスをする生き物だもんね。でも、それを教訓にして、前に進むことが出来るのも人間でしょ」

「奈美ちゃん、学校の先生みたい」

「学校の先生よ!」

 森と名取の掛け合いに、中田が苦笑し、それから一瞬刑事の顔になって言った。

「殺人や、一部の犯罪に関しては、決して許されないミスだけどな」

 森は中田のその横顔に見惚れた。中田は刑事になって雰囲気が変わった。新米だと言っていたが、幾つもの現場を見てきて、成長している最中なのだろう。

「……金本……金本」

 藤木が何やらブツブツ言っているのに気づいて、名取が彼に視線を向けた。

「藤木さん、どうかしました?」

「あ、いや、金本って名前、聞いたことある気がすると思って」

 それに中田が「そりゃ毎日、アイツのこと報道しているからな。英雄からただの悪人へと成り下がった下衆警官として、ある意味時の人だからな」

「そういうんじゃないんですけど……まあいいか」

 藤木はビールジョッキを手にして口につけた。

「ところで──」中田が藤木を見た。

「藤木くん、さっき、妙な自己紹介したよな? 藤木亮人と名乗ってるっていったな。どういうことだい?」

 それは森も感じた違和感だった。

「実は彼ね──」と、美咲が、藤木が記憶喪失なのを告げ、その為に仮の名前を名乗っていると話した。

 森と中田は驚いて、そして顔を見合わせた。

「なあ、森。記憶喪失ってそんな簡単に、ポンポン身近に起こるもんなのか?」

「普通は、珍しい症状だと思うけど……」

 森たちの反応に、名取と藤木が首を傾げた。

「実はね──」と、今度は、森が記憶喪失になった生徒の事を話した。名前はプライバシーの為伏せておいた。

 名取たちも、それを聞いて驚いていた。

「その子も記憶喪失……」

「僕と同じ……」

「凄え偶然もあるもんだな」

 中田の言葉に、名取が大きく息を吐いた。

「どうかしたの?」森が訊ねると、名取は「うん、ちょっとね」と曖昧な返事をした。

 そんな言い方をされれば気になってしまう。

「言いたくないならいいけど、相談に乗れることなら乗るよ。ここには、頼りになる刑事さんもいるんだし」と言って、森は中田を見た。

「今はただの酔っ払いだがな」中田のジョッキは三杯目に突入していた。

「……大丈夫? もし、招集がかかったらどうすんの?」

「そん時はそん時だ。運転は出来なくても、その他諸々の雑用は出来る」

 今の中田は頼りにならなさそうだ。

「ひょっとして、京子さんのことですか?」

 藤木が名取の顔を見て言った。

 名取は頷いて、チラリと中田を見た。

「入所者さんのことを口外するのは駄目なんだけど、中田くんなら刑事だし、それに知っているかもしれないから言うわね。今、わたしが働いている施設に、一月半程前に隣町で起きた事件の被害者、宗馬京子さんがいるのよ」

 ガタン! と、中田が急に立ち上がってテーブルが傾いた。危うく、皿に盛られた料理が落ちる所だった。

「本当か! 宗馬京子は意識が回復したのか!」

「落ち着いて。残念だけど、京子さんの精神状態は相変わらずなのよ」

 中田は力が抜けたように椅子に座った。

「……そうか」

「彼女もまた脳にダメージを受けたせいで、言わば植物状態になっているわ。口に食べ物を運ぶと食べてくれるのだけど、それ以外の反応がほとんどないのよ。綺麗な人なのに、こっちが見ていてとても辛くなるわ。ご家族の方も、時々は顔を見にいらっしゃるんだけど、会うたびに涙を流して、とても見ていられなくて……」

 そうだろうな、と森は状況を思い浮かべて胸が締め付けられた。

「記憶喪失になったその男子生徒と、藤木さんと、そして、植物状態の京子さん。ううん、京子さんたちだけじゃない。ウチの施設にいる入所者さんの中にも、訳ありで入ってくる人がいる。なんで、不幸な人がこんなにも溢れているんだろう。わかってたけど、やっぱり世の中、不公平だなって思っただけよ」

 中田が三杯目のビールを飲み干して言った。

「その不幸な出来事を少しでも減らすために、俺は刑事になったんだよ」

 そんな彼を見て、森は名取と笑みを交わしあった。

「その宗馬京子さんですけど、僕、どうも彼女の事を知っているみたいなんです」

 藤木の言葉に、彼に視線を向けた。

「彼女の顔を見ると、頭痛が起きるんです。頭の中で鍵のかかった記憶のドアを、内側から無理やりこじ開けようとしてくるんですけど、それを必死に開けまいとして更に頑丈に鍵をかける自分がいるんです。危険な獣を閉じ込めておくみたいに」藤木は自分の両手を見た。「僕は、ひょっとしたら、京子さんの事件に関わっているんじゃないかって、何か目撃しているんじゃないかと、最近思うようになったんです」

「藤木さん……」名取が藤木の背中を優しく撫でた。

 少しの間、森たちの席だけ静まった。

 周囲の愉しげな喧騒が、森たちのいる静の空間をお構いなしに蹂躙していく。当たり前だ。ここは飲食店なのだから。

「あ、すいません、そんなつもりはなかったんですけど、空気を重くしちゃいましたね。少しトイレに行ってきます」

 藤木が愛想笑いを浮かべて席を立った。

 三人とも少し黙っていた。

 森は藤木を気の毒に思ったが、今の口調はどこかアッサリとしていたように思えた。二人にはどう見えたのだろうか。

 少しして、「様子を見てくるわ」と中田が立ち上がった。

 ここは、男同士の方がいいかもしれない。

 森たちは、藤木の事を中田に任せることにした。

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