第30話
「お時間取らせていただいて申し訳ありません」
中田は白衣のその男に軽く頭を下げた。
彼の名前は草原伸。大学病院の医師だった。
中田も日々の事件で色々と動き回っていたが、その合間に進藤家に電話をして、進藤拓真が入院した大学病院の場所と、担当した医師の名前を聞き出した。
進藤の両親は、中田が刑事だと聞いて不安を覚えたようだったが、事故の再確認をするだけと伝えて通話を切った。
そして、草原に連絡をして話を伺いたいと訪ねた所、午後に病院の空いている診察室の一室へと通されたのである。ここだと、誰にも話を聞かれずに済む。
草原はカルテを打ち込むパソコン前に座っていた。
「刑事さんもおかけになってください」
促されて、中田も丸イスに腰掛けた。なんだか、診察されるようで落ち着かなかった。
「さて、進藤拓真くんのことでお話を伺いたいとのことでしたね」
「はい。彼が事故にあった状況を教えていただきたいのです」
草原の鋭利な刃物のような目が、中田を見据えた。
「何故ですか? 彼が何か事件に関わっているというのですか?」
「そういうわけではありませんが、少し気になる部分がありましてね。彼が記憶喪失になる程の事故に遭ったというのに、事故の記録が警察には残されていないのです」
草原は目を細め、中田を観察するような目で言う。
「彼には事情がありましてね。警察と言えど、事件性がないのに、患者のプライベートを晒すわけにはいきません」
「仰る通りですね」と、中田は頭を掻いて苦笑した。しかし、中田の目は刑事特有のぎらついたものへと変化していた。
「確かに病院側には、患者の情報を守る守秘義務がある。それが、事件性がないとすればなおさらだ。ですが、おかしくはありませんか?」
「何がですか?」
「先生、記憶喪失とはどういう場合に起きるのでしょうか?」
草原は黙った。中田の言いたいことがわかったのだろう。
記憶障害の原因は様々ある。加齢によるもの、認知症によるもの。脳卒中、脳外傷、低酸素脳症による高次脳機能障害によるもの。強いストレスによるPTSDによるもの、など。
進藤拓真の若さで記憶を失う可能性をあげるならば、事故による脳外傷だ。
「人体に影響のある事故は、普通、医師の診断書のもと警察に届け出るものです。なのに、進藤家の家族が警察に届け出ないのはあまりに不自然でしょう」
人身事故が起きた場合、被害者は警察に、人身事故の届け出、保険金の請求、後遺障害等級認定申請をするのだが、それには医師の診断書が必要となる。被疑者の処分にも必要だから、早期に作成しなければならないはずだ。
草原は困ったように頭を掻いて、溜息を漏らした。
「……仕方ありませんね。少し事情をお話します」
草原は中田に説明した。
進藤の事故は、『事故』ではなく『自殺』であったこと。首を吊って、一時は心肺停止に陥ったが、脳への酸素供給が止まり記憶障害が起きてしまったこと。遺書に書いてあったのは、両親への謝罪と学校でのイジメによる苦で死を選んだこと。人格が変わったのは、高次脳機能障害であるということ。
中田はショックを受けた。あの少年が自殺していた?
「この事は、ご家族にもお伝えしています。警察に届け出をしなかったのは、家族のご判断でしょう」
「ちょっと待ってください。彼は今学校に行っているんです。イジメが学校にあるなら、行かせるべきではないでしょう」
「イジメの事はお伝えしていません。親族の方は、拓真くんの記憶を取り戻す為に学校に行かせているのでしょう」
「イジメによる自殺なんだぞ! 自殺の原因となった場所に行くなんて、記憶を取り戻すどころか、また標的になるだけだろう! 何故、そのことを家族に説明しなかった!」
語調を荒くする中田に、草原は冷ややかな視線を向けた。
「事故の後、わたしは進藤拓真さんとお話をしました。そして、記憶のない彼に何が起きたかを教えるために、遺書の事をお話しました。その彼が、遺書のことは家族には内密にして欲しいと言われたんです。記憶を失って不安であるにも関わらず、家族に心配をかけまいとする彼の意思を尊重しただけですよ」
中田は言葉に詰まった。確かに、自分たちの息子が自殺未遂をして記憶喪失になっただけでもショックな出来事なのに、その原因が学校のイジメだったと知れば家族がどんな行動に出るかわからない。
「第三者委員会をも巻き込んでの騒動は、拓真くんにとっても望むことではないそうです」
本人がそういうのなら、中田には何もいえなかった。
「中田刑事は進藤くんにお会いしたんですよね? 彼の雰囲気をどう捉えましたか?」
「……高校生とは思えない、落ち着き払った少年でした。とても、自殺をするような気の弱そうな少年には見えませんでした」
頷く草原。
「同意見です。彼の人格変化は、彼自身が今までの環境に対してどうにかしたいと願ったから産まれたモノなのかも知れませんね」
草原は腕時計を見た。
「そろそろよろしいですか? わたしも忙しいですし、刑事さんも忙しいでしょう。今日のところは、失礼させてもらいますよ」
草原に追い出されるように、中田は診察室を出た。
待合室ロビーで少しの間、椅子に座って呆けた。
何をやっているのだろうか。自分の行動が、ひどく滑稽に思えた。
病院には様々な症状の患者が来る。怪我、事故、病気。進藤の事故もその一つに過ぎない。事件にもなっていない、進藤の『事故』に無駄な時間を費やしている場合ではないのだ。
そんなことを探るくらいなら、宗馬正樹の事件を調べて、犯人の手がかりを探る方がよっぽど有意義ではないか。
そんな事を考えていると、ポケット内のスマホが震えた。
上司からだ。電話に出ると、別件の事件で進展があったらしく、直ぐに戻ってこいとの事だった。
中田はため息をついて、病院を後にした。
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