第24話
五月、六月でもそれなりに肌を焼いていたその陽射しは、七月に入るとさらに凶暴性を持って肌を焼く天然のオーブンと化す。上からは強烈な陽射し、下からは熱せられたアスファルトの照り返しで、まるでオーブンで焼かれるトースト気分だった。
期末試験も近いが夏休みも近いとあって、気分が少し浮ついたり、集中出来なくなったりする期間。森のクラスでは、既に暑さにやられて、やる気が感じられない生徒たちがチラホラと出ていた。
授業中机に突っ伏している者、友だちと夏休みの計画を紙でやり取りしている者。何を考えているかわからない顔で呆けている者。ノートに何やら落書きしている者。
今は現代文の授業。担当している森は、今黒板に書いていた授業内容を消してから、腕を組んで彼らに注意をした。
「常盤くん、浜谷くん、夏川くん、白鳥さん、柳さん、今やった内容、期末テストに出すからね」
その声に慌てる生徒たち。
「うげ! ちょっと待ってよ先生! もっかい! もっかい今の所言って! ちゃんとノート取るから!」
「あー! 何で黒板消しちゃうのよ! 先生のイジワル!」
何故文句を言われなければならないのか。森は嘆息して言った。
「心外ね。ちゃんと授業聞かないあなたたちが悪いんでしょう? 誰か他の人のノートを見せてもらいなさい。ハイ、次行くわよ」
授業を進めながら、森は時々、進藤拓真の様子を見ていた。真面目に授業を受けていて、ノートもしっかりととっているようだ。だが、時々外を眺めたりして大人びた顔になって、ドキリとさせられることがあった。
進藤は一ヶ月半ほど前に事故に遭い、記憶を失っている。学校に通う事で、何かを思い出す事が出来るのではないか、という話で通っているのだが、今の所何かを思い出せたという話を彼から聞いていない。
新年度になった時、森がこのクラスの担任になってしばらくクラスの様子を見てきたが、思えば、進藤は四月から様子がおかしかった。いつも何かに怯えている様子だった。けれど、森下たちとよくいたから、彼らは仲の良い友だちだと思っていた。
一年から二年に上がる時、クラス替えは基本前の年に仲がそれなりに良かった者を一緒にすることがある。
イジメを起こさせない為、孤独な生徒をなくす為の学校側の配慮だ。進藤が一年の時の担任は、森下たちと仲が良かったから一緒にしたと言っていた。
だから、最初はふざけ合っているのだと思った。
もし違っていたのなら、きっと相談しにきてくれると思っていた。
何て自惚れた考えだったのだろう。何を根拠に、わたしを頼ってくれるなんて思っていたのだろう。
進藤は一人で苦しんでいた。わたしが手を差し伸べなければならなかったのだ。
そして、進藤は事故に遭い、記憶を失った。
進藤は、イジメと事故を結びつけるのは早計だと言ったが、彼自身記憶がないのだから、本当のところは分からない。
それにしても、とまたチラリと進藤を見る。
記憶がないにも関わらず、まるで別人としか思えない程の落ち着きぶりだった。
本人曰く、低酸素脳症による高次脳機能障害によって人格の変化が出たのではないか、とのこと。
医学用語に詳しくない森は、後でその言葉を調べたが、確かに人格変化が起きることがあるらしかった。
「はい、じゃあここまでで質問のある人」
生徒たちを見回して森は言った。その視界に、もう一度進藤の姿を捉える。
真面目に授業を受けていた。
数日前、彼の机が誰かによって移動されていて、後で美術室の隅に置かれていたことがわかった。机が無かったにも関わらず、進藤は教室の後ろに立って壁にもたれてホームルームを受けていた。
犯人はわからずじまいだった。
それにしても、ここまで人格が変わるものなのだろうか。元の大人しい進藤の性格の面影が微塵も感じられない。
森は少し薄ら寒いモノを進藤に感じた。
……いけない。生徒を守る立場の人間がこんなことでどうするの。
自分を叱咤しながらも、授業を進めているといつの間にか授業が終わる時間になっていた。
「それじゃここまで。しっかり復習しておきなさい」 森は生徒たちにそう告げて、職員室へと戻った。
「森先生、お疲れ様です」
昼休み。職員室の自分のデスクで自作のお弁当を食べていると、体育教師の佐々木が声をかけてきた。
やや色黒の、いかにもスポーツマンといった体型の爽やかな笑顔が似合う、森の三つ歳上の二十八歳。顔もかなり整っていて、学校の女子や女性職員からの視線を独り占めしている、最近赴任してきた男性教師だ。
職員室にいる女教師たちの視線が、森たちに向けられた。それを居心地悪く感じながら挨拶をする。
「あ、お疲れ様です」
「いつも美味しそうなお弁当ですね。森さんの旦那さんになる人はこういうのを毎日食べれるんですよね。いいなー」
そう言って、森の弁当を覗き込んでくる。
「殆ど冷凍食品ですよ」
言うと、周囲の女職員たちから失笑らしきものが漏れた。
冷凍食品でもいいじゃない別に。森は独身ではあるが、世の中の子育てや家事に時間を忙殺されている主婦は、便利で美味しい冷凍食品を必要としているのだから。
「本当ですか? 最近のは手作り感があるんですね」
佐々木は驚いた顔で言った。
何を基準に手作り感と思うのか疑問だったが、あえて何も言わないでおく。
ハッキリ言って、森は佐々木が苦手だった。
容姿はかなり整った顔立ちではある。性格も明るく、いつも笑顔で周りに元気を振り撒いている。彼に話しかけられた女子たちは、必ず頬を朱に染めて舞い上がる。
そして、佐々木は、そんな自分がモテているのを理解しているだろう。
以前の教師の親睦会で、少し酔った佐々木に、別の教師が「さぞかしモテるでしょう?」と訊いた所、「いやいや、全然ですよ」と笑って否定していた。周りの女子の反応やそれのあしらい方などを見ても、どう考えても嘘だとわかった。
そんな佐々木が、何故、どちらかと言えば地味な自分に声をよくかけてくるのか分からなかった。
森は自分から話題を振ることなく、黙々と弁当を食べ始めた。
「そういや、森先生のクラスの記憶喪失の男子、進藤くんでしたっけ?」
森が黙って食べているにも構わずに、佐々木が話かけてきた。進藤の話が出たので、森は思わず顔を向けた。
「進藤くんがどうかしたんですか?」
「……彼、本当に記憶喪失なんですよね?」
「そうですけど、何か不自然な点でも?」
「ええ。でも、ここで話すのもなんですし、今度食事しながらでもどうですか?」
耳元で囁くように言う。
森は考えた。進藤は今一番気にしている生徒だ。森の担当クラスでイジメ問題があったことにショックを受けたが、教師である以上いつかはぶつかる問題だと思っていた。
佐々木は頭もキレるという話も聞く。
相談にのって貰うのもアリかもしれない。が、佐々木と食事に行くのを、誰かに見られたり知られたりしないだろうかという懸念があった。
変な噂が立つのは勘弁だ。
「気が向いたら連絡してください。別に今日でなくてもかまいません。コレ、僕のスマホの番号です」
言って、佐々木は番号の書かれた紙をコッソリと机の引き出しの隙間に差し入れた。
「では」眩しい笑顔で言って、佐々木は去っていった。
途端に、三十代四十代の女職員たちがわざと森に聞こえるように舌打ちして、そして聞こえる声量で険のある声色で言う。
「佐々木先生に色目使って誑かすなんてサイテーよね」
「お弁当もあざとらしい。できる女をアピールしていやらしい」
「冷凍食品のくせにね」
森は無視して、弁当を食べ終えた。
進藤のイジメ問題を解決しようとしている自分が、この程度の陰口でへこたれている場合ではない。
しかし、この状況がずっと続くのも教師生活に支障が出てしまうのも確かだ。
森の偏見だが、ある種の年増女の嫉妬は、獲物を横取りしようとするハイエナのようにしつこい。それがアラサーアラフォーの捻くれた性格の独身であればなおさらだ。
それならば、ハイエナに餌を与えて、こちらに向ける敵意を減らせばいい。佐々木という極上の餌を。
森は決意して、三人の女教師たちに近づいた。
「何よ? 何か文句あんの? 冷凍食品は自分で言ってたことじゃない」
「若いからって調子に乗らないほうがいいわよ」
威圧的に言ってくる三人に向けて、森は笑顔になった。
「実は今度、佐々木先生に相談にのってもらうんですけど、みなさんの事をアピールしておきましょうか。わたしは、ああいうイケメンより少しぽっちゃりしたオタクっぽい人が好みなんです。だから、みなさんの良さを、少しでも佐々木先生にわかってもらおうと思うんですけど」
その言葉に、三人の眉に寄っていた皺が消えて、瞬時に笑顔に切り替わった。
「あらぁ、わたしたち、森先生のこと誤解していたみたいね。そういうことなら、お願いしようかしら。ホラ、佐々木先生っておモテになるでしょう? 競争率が高いからついついワタシもちょっとトゲトゲしくなっちゃって、森先生に当たってゴメンなさいね」
「そうそう。森先生も佐々木さん狙いだとばっかり思っていたから。あ、お菓子食べる?」
「あら、それじゃあ、わたしはお茶でも淹れてこようかしら」
あまりの変わり身の速さに、森は笑顔で「ありがとうございます」と礼を言いつつも、内心で呆れかえった。
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