第23話

 翌日、名取に言われたように、亮人は休みを取らせてもらった。

 だが、公園で日向ぼっこをするつもりはない。

 自分の記憶の手がかりを探る為に、宗馬京子の自宅付近を歩いてみることにした。

 ネットで事件のあった京子の住所を調べ、実際にその足で見に行く。

 住宅街を歩いていき、亮人は迷うことなく京子の家の前までくることができた。一度通ったような感覚だった。そんな自分に戸惑いながらも、亮人は宗馬家を見上げた。

 新しい二階建ての家だった。

 ここで、彼女は暴行を受け、夫を殺害された。

 家を見つめていると、突然頭が痛んだ。何かを思い出せそうだ。

 瞬間、断片的な映像がフラッシュバックする。

 手にした拳銃。苦悶に満ちた顔の男。殴られ続けて腫れ上がった京子の顔。

 亮人はいつの間にか荒い息をついて、壁にもたれかかり痛む頭をおさえていた。

 何だ今のは? 俺はやはりこの事件と関係があるのか。

 今の断片的な映像だけでは、まだ何もわからない。目撃者なのか、それともやはり……。 後者は考えたくなかった。まだ結論を出すのは早い。

 亮人は家を見た後、付近を歩いた。

 何となく見たことがある住宅街の道。この辺りに住んでいたのか、それとも来たことがあるのか。とにかく、見た気がする道を通っていき、ふと脇の繁華街に続く路地を見つけた。ここも見覚えがある。

 やがて、名取が働く施設の近くまで辿り着いた。

 頭上を見上げると、配電線の一部が切れていて垂れ下がっていた。横の建物は小さな工場のようだ。

 そういえば、名取が自分を発見した時、路地で倒れていたと言っていた。配電線に絡んでいたということも言っていた。と、いうことはここで倒れていたのか。

 だが、その時の状況がわからない以上、どうしようもない。

 この辺りは確かに見覚えがある気がする。

 感電する前、自分は一体何をしていたのか。

 先ほどの断片的な映像は、先日見た悪夢と酷似していた。

 夢で殴られていたのは京子だ。それは間違いない。なら、殴っていた男は誰だ? やはり、俺なのか?

 呼吸と心臓が連動して速くなる。自身の過去を知るのが恐ろしくて、身体が冷えていき、ふらついて手を壁についた。

 気分が悪くなり、吐きそうになる。

 過去を知ると決意したのに、なんてザマだ。

 もし、自分が京子に暴行を加え、その夫を殺した殺人犯だったら、名取はどう思うだろうか。

 彼女の悲しみに満ちた顔を想像して、藤木は胸が苦しくなった。

 仮に自分が殺人犯なのだとしたら……それだけは名取には知られたくなかった。彼女に、人殺しと罵り蔑まれるのに耐えられる自信がなかった。

 いや、まだだ。まだ、そうだと決まったわけじゃない。

 落ち着け。冷静になれ。悪い方向ばかりに考えるのは止めろ。

 藤木は目を閉じ、呼吸を整えようと大きく息を吸ったり吐いたりした。

 自分でも意外に思えるほど、直ぐに落ち着くことができた。今さっきまで怯えていたのに、自分はコレ程切り替えが早かったのかと自身に驚いた。

 昨日は名取の前だったから、余計に不安に感じてしまったのかもしれない。

 とにかくもう一度だ。もう一度、宗馬家に行ってみよう。

 藤木は、再び宗馬家へとやってきた。

 家の外周を歩いていると、庭先に洗濯物を干す竿を見つけた。

 それを見た瞬間、再び、頭の中でフラッシュバックが起きた。

 京子が洗濯物を干している姿だった。鼻歌混じりに、幸せそうに旦那のものらしき服を干していた。

 綺麗な女性だった。藤木はそれを、今と同じこの場所で見ていた。

 映像が切れて、藤木は壁に背中を預けた。

 目を手で覆うように押さえて、荒くなった呼吸を整える。

 やはり、俺は彼女を知っていた。そして、彼女の美しさに惹かれたこともわかった。だけど、彼女に向けた感情は、恋愛感情とは何かが違っていた。

 何だろうこの気持ちは……。

 胸の中で何かが蠢くように疼いた。気持ち悪い感覚でありながらも、懐かしいような感覚でもあった。

 胸の中で動き始めたそれは、藤木の過去への不安を食い漁るようにして消していく。

 心がどんどんと落ち着いていった。

 いったい何なんだこの胸の疼きは。

 いったい俺は何者なんだ?

 一つ言えるのは、この疼きが今の自分を落ち着かせていることだ。

 この疼きが何なのかが分かれば、自分という人間が見えてきそうな気がした。



「なあ、美咲ちゃん……」

 美咲が担当している入所者の一人である田代の体を濡れたタオルで拭いている時、彼が声をかけてきた。丸いメガネをかけた五十代半ばの男性だ。

「どうかしましたか? どこか気持ち悪いところあります?」

「違うんだよ。最近入った若い兄ちゃんいるだろ?」

「藤木さんのことですね。彼がどうかしましたか?」

「……あの人、ちょっと怖いんだよ」

 驚いて美咲は、田代の顔を見た。伏し目がちに斜め下を見て、怯えているようにも見える。

「え? 怖い? どうしてですか?」

「昨日、コールボタン押したらあの兄ちゃんが来て、そこの冷蔵庫の中の飲み物取ってくれって言ったら、物凄く怖い顔したんだ。そんなことのために呼びつけたのか、って感じで」

 田代は足が悪く、冷蔵庫まで届かない。それは、藤木も知っているはずだが。

「そんなことを彼が言ったんですか?」

「……言ってないけど」

「大丈夫ですよ。きっと藤木さん、たまたま虫の居所が悪かったんですよ。わたしだって、たまに怒る事あるでしょう? それと同じですよ」

「そうなのかなぁ。まあ、美咲ちゃんは怒っても可愛いけどさ」

「はいはい。ご機嫌とっても何もないですよ」

 田代の体を拭き終わり、美咲は部屋を出た。そして、藤木のことを考えた。

 先日休みを取ってもらったが、彼はどんな一日を過ごしたのだろうか。

 朝礼の後、気分転換できたかと聞くと、やけに明るい笑顔で「もう大丈夫です」と答えた。

 無理をしている様子は見られなかった。

「自分に根付いた問題は自分で解決するしかない。とりあえず、それがわかっただけでも先日は収穫がありましたよ」

 本当に、大丈夫そうだった。

 たった一日で、悩みを克服できるものなのだろうか。過去のない不安を払拭できるものだろうか。

 きっと、過去を失う前の彼は芯の強い人だったのかもしれない。美咲はそう思って納得することにした。

 だから、田代の話はとても信じられなかった。

 その後も仕事をしていると、田代の他にも、藤木の態度に驚いた入所者が数人いた。舌打ちをされたような気がする、睨まれた気がする、などなど。だが、それらも一瞬のことで、すぐに笑顔に戻って作業始めたので確信を持って言えるようではなかった。

 藤木がそんなことをするとは思えなかったが、一度本人から話を聞いてみたほうがいいだろう。美咲は仕事をしつつ、合間に藤木を探した。

 廊下で藤木の後ろ姿を発見した時、彼は車椅子の入所者を部屋に戻すところだった。入所者は三十代半ばの小太りの女性。まだ部屋に戻りたくないらしく、駄々をこねていた。

「嫌! まだ外にいたい!」

「外は雨が降ってきたんです。もう部屋に戻りましょう」

「嫌だ! 嫌だ!」

 藤木が黙った。後姿なので表情は見えない。困っているのだろうか。それとも、他の入所者たちが言うように怒っているのか。

 彼の両手が、彼女の後ろから首へゆっくりと伸びていった。

 何となく嫌な予感がして声をかけようとした。が、彼は両手を彼女の肩にそっと置いただけだった。

「仕方ないですね。じゃあ、屋根のあるところで外の空気吸いましょうか」

 そう言って、藤木は彼女を連れて外へと出て行った。

 安堵のため息を美咲はついた。

 あれだけ優しいのだ。きっと入所者たちの勘違いに違いない。

 美咲はそう思い、自分の仕事に戻ることにした。



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