第22話
藤木亮人は施設での仕事を終えて、帰りにコンビニに寄って、弁当と缶ビールとつまみを買って無料宿泊所の与えられた部屋に戻った。
食事を終え、ビールを飲みながら亮人は考える。
今日、宗馬京子を見て何かを思い出しそうになった。彼女と自分に何の接点があったのだろう。世話をしている時も、彼女の顔が気になった。
名取がタオルで京子の顔を拭く時に、ガーゼを取り外した時の顔を思い浮かべる。
まだ事件から一ヶ月程しか経っていないため、顔にはまだ暴行の跡が生々しく刻まれていた。
可哀想に。旦那を失い、腹の子も失い、自我をも失った。彼女の不幸に比べれば、たかだか記憶を失った程度の自分が遥かにマシに思える。
缶ビールを二本ほど空にして、軽く酔いが回った所で亮人は寝ることにした。が、布団に入ってもなかなか寝付けなかった。自然と、名取のことを考えていた。
彼女はいい人だ。記憶のない自分にここまでしてくれている。命の恩人で、仕事まで紹介してくれた。歳上だが、容姿も亮人の好みだった。
困っている人を放っておけない性格だと言っていた。彼女にとって、介護職は天職なのだろう。
男はいるのだろうか。美人であれだけの気量良しだ。いてもおかしくはないだろう。
亮人は無意識に上唇を舐めた。彼女のことを考えていると、いつの間にか亮人は眠った。
夜中、亮人は衝撃的な夢を見て、叫び声をあげながら目を覚ました。
体中に汗をかいていた。呼吸も荒く心臓が内側から激しく叩きつけている。
何だ今の夢は?
下半身が熱く、股間が膨張していた。
何で? 俺はあの夢で興奮していたのか?
夢の内容は、何者かが人を殴打しているものだった。その人物は暗がりの中、口に笑みを浮かべ、馬乗りになって人の顔を殴っていた。飛び散った血が顔について、舌なめずりしていた。殴られている人は女性だろうか。顔は両者とも暗くてよく見えなかった。
その様子を、傍で亮人はただ見ていただけだった。止めることもなく恐怖に怯えるでもなくただ見ているだけ。見ている間、亮人自身何を考えていたのかわからなかった。わかりたくなかった。この興奮した気持ちは、恍惚感によるものではない。絶対に違う。そう自分に言い聞かせた。
異常性欲者。そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
絶対に違う。亮人は再び自分に言い聞かせた。
翌日の施設での朝礼を、亮人はほとんど聞いてはいなかった。屋上の柵が一部壊れかけているから近づかないようにだとか、屋上の掃除用具入れの扉がどうとか言っていたような気がする。
昨夜の夢が忘れられない。自分の過去が恐ろしく感じてならない。記憶を失う前、俺はいったい何をしていたのか。そればかりを考え、ろくに眠ることができなかった。
「大丈夫ですか? 顔色悪いですよ?」
朝礼が終わって、名取が声をかけてきた。
「ええ。何か昨夜は眠れなくて。でも、大丈夫です」
亮人はできるだけ笑顔を作って返した。名取の顔を見た後、夢で殴られていた女性が彼女ではなかったか、と考えた。眠る前に彼女の事を考えていたのだから。
そんなことあってはならない。亮人は、その考えを払拭しようとすぐに仕事にとりかかった。昨日である程度の段取りはわかっている。如何にスムーズにスピーディに仕事をこなすかを考えながら、とにかく動いた。
「張り切っているわねえ」
施設長の赤坂が亮人の姿を見て、話しかけてきた。
動いていないと不安なんです、とは言えなかった。あまり心配をかけてはいけない。張り切っているように映るのなら、それでいい。
だが、昼食の時に、休憩室で一緒になった名取が心配そうに聞いてきた。
「どうかしたんですか?」
「え、何がです?」亮人はとぼけた。
「いえ、何か様子が変だから」
驚いている亮人に、名取は言った。
「まるで、何かを忘れようとしているみたいに、仕事に一生懸命だから。あ、でも記憶失っているのに忘れようとしているって変ですね」
良く見ている。さすがは介護士だ。相手の様子で、ある程度はわかるのだろう。そうでなければ勤まらない仕事なのかもしれない。
「動いていないと不安なんですよ」と、赤坂には言えなかったことを、彼女には言えた。
「わかりますよ。わたしも、不安な時やむしゃくしゃした時に、忘れようとしていつも以上に頑張るときがあるから」
名取の優しさが身に染みた。そんな彼女だからこそ、昨夜みた夢の内容を言うわけにはいかなかった。
自分は何者なのだろうか。家族はどこにいるのだろうか。友人とかはいないのだろうか。
そういった繋がりのあるものは一切所持していなかったという。何故だろう。普通ならば財布やスマホを所持していてもおかしくないはずだ。
身元を誰か───例えば警察とかに知られたくなかった? だとしたら、何故? 考えようとして、亮人はやめた。それらが昨夜の夢に繋がるかもしれないと思ったからだ。
自分の過去を知るのが怖かった。
何か恐ろしい事に巻き込まれているのでは、もしくは、自分が犯罪者なのではないかという思いが、胸の内に滲み出てきていた。
京子のように、自我が崩壊したまま、過去を思い出さない方が幸せなのかもしれない。
そう考える一方で、それでいいのか? と、反論する自分もいた。
考えていたら昼休憩があっという間に過ぎてしまった。
外の天気は、今の藤木の心境を表すかのようなどんよりとした曇り空だった。
重たい気分で午後の作業に取り掛かる。
亮人は名取と一緒に彼女の部屋で身の回りの世話をした。
別室の風呂場で、名取が京子を風呂に入れている間、亮人が部屋を掃除することになった。
部屋を掃除し、シーツを替えながら、京子のことを考えた。
自我を失い植物状態となった京子。時々、何かをつぶやくらしいが、それは全く意味のなさないただの声だった。
昨日彼女を見た時、何かが頭の中をよぎったが、結局何もわからないままだ。
一体自分と京子とどういった繋がりがあるのだろう。
考えながら部屋の掃除を終えると、名取が車椅子に乗った京子を押して風呂から戻ってきた。
「京子さん、サッパリしたでしょ? さ、ベッドに戻りますよ」
名取は身体の重心を上手く使って、彼女をベッドの上に戻した。
風呂に入って身体が温まり、眠くなったのか、京子は目を閉じるとすぐに寝息を立て始めた。
植物状態でも、夢をみることはあるのだろうか。そんなことをふと思った。
昨晩の自分の夢が、脳裏に浮かぶ。
殴られていた女性と、殴っていた男性。そして、それを傍で見ていた自分。
ダメだ。忘れようとしても、忘れさせないと言わんばかりに映像が浮かんでくる。
「藤木さん、明日は休みましょう」
名取の声と肩の温もりに、藤木はハッとして彼女を見た。
心配そうな顔の名取が、藤木の肩に手を置いていた。
「でも」
「藤木さん、無理はダメです。不安を少しでも感じないように身体を動かすのはわたしもやりますが、今のあなたには効果はなさそうです」
その通りだった。振り払っても振り払っても、執拗に悪夢の
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
名取は優しく笑みを浮かべ、窓に近づいて外を見て言った。
「明日はいい天気だそうですよ」
いきなり明日の天気の話になって戸惑った。
「……はい?」
「人の心って、天気に左右されることありますよね。ジメジメした天気だと気分が落ち込んだり、雲一つない快晴だと、気分が良くなったり。今日みたいに曇った天気だと、心も曇りやすいんです」
言わんとすることはわかる。実際、藤木は外の天気と自分の心の在りようを結びつけていたのだから。
「これはわたしの心が塞ぎがちな時にやるんですけど、晴れ渡った大空の下で芝生がある公園とかで寝転がって、目を閉じて、周りの音に耳を澄まして、お日様の光を浴びるんです。自分がこの自然の一部になったつもりで、身をゆだねていると不思議と心も落ち着いてくるんです。自然の癒しって、意外とバカにできないものですよ」
藤木は目を何度かまばたかせて、名取を見た。
「あ、信じてないですね? 入所者さんたちも、この方法で気分転換するんですよ。それに京子さんも、天気の良い日に車椅子に乗せて連れていくと、顔が心なしか穏やかになるんですから。ね、京子さん」
眠ったままの京子に話しかける名取。
「ほら。京子さんも『そうね』って言ってます」
名取が懸命に、藤木の力になろうとしてくれているのが、痛いほどわかった。
命を助けられ、働く場所も紹介され、更に不安の支えとなろうとしてくれている。
藤木にとって、彼女は心の闇を照らす光だった。
藤木は深呼吸をして、胸の内の澱みを吐き出すつもりで気分を落ち着かせた。そして、名取を見て笑みを浮かべる。
「ご心配おかけしてすいません。それから、ありがとうございます。お言葉に甘えて明日は休ませてもらいますね」
「施設長には、わたしから伝えておきます。ゆっくりと気分転換してきてください」
藤木は頷いた。
心の靄は、既に名取のおかげで少し晴れている。
自分の過去を知ることに恐怖はまだあったが、前に進むためには知るべきだと藤木は決意した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます