第21話
彼の体が通常の生活に支障はないと判断されてさらに半月が経った。彼とは時々連絡を取るようにしていて、今はNPO法人SSSが提供する無料低額宿泊所で生活をしている。
この施設は生活困窮者などを受け入れて、自立支援、生活支援を行っている場所である。
その施設の少し離れた場所の喫茶店で、美咲たちは向かい合わせに座って話をしていた。
「障害者介護施設?」
彼は驚いた。
「はい。あなたさえよければですけど。バイト感覚でどうですか? ちゃんとお給料も出ますよ」
口には決して出せないが、身元も名前も何もわからない、そんな得体の知れない人物を雇ってくれる場所を見つけるのはかなり難しいだろう。そのうち見つかるかもしれないが、その見つかるまでの間をどう生活すればいいのか。それは彼自身も考えていたはずだ。
生活保護を受け続けてもいいが、その後そのままそれに頼ってしまうケースも多い。彼もそれを考えていたようで、悩んでいたと話した。
「とてもありがたいんですけど、何故そんなにしてくれるんです?」
「うーん、まあ、職業柄、困っている人を放っておけない性質なんですよ」
美咲が笑って言うと、彼は口元を引き結んで頭を深々と下げた。
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせてもらいます」
こうして彼は、美咲の働く介護施設で働くこととなった。
彼は、仮名として藤木亮人として名乗ることになった。年齢も見た目の年齢で、きりのいい形で二十歳ということにした。
本人の希望ということもあり、さっそく次の日に、美咲は藤木を連れて施設に向かった。その一室で、前もって連絡しておいた施設長の赤坂に会ってもらった。
五十代前半の小太りの女性である。髪の毛は少し赤く染めてありパーマがかかっていた
「話は聞いていますよ。記憶がないんですって? そんな大変な状態なのにごめんなさいね」
「あ、いえ。気になさらないでください。働いて身体と頭を動かして、脳に刺激を与えることで何か思い出せるかもしれませんし。名取さんと赤坂さんには、本当に感謝しています」
「あらぁ、いい男ね。焦らなくていいからね。お仕事はゆっくり覚えてくだされば良いから。無理はしなくていいからね」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
赤坂は礼を言う藤木を見て、それから美咲の顔を見た。
「それじゃあなたがしっかりと教えてあげるのよ。手取り足取り」とウインク。
「赤坂さん」
「冗談よ。睨まないで。じゃ、よろしく」
彼女は笑いながらその場を去っていった。
ははは、と藤木は笑った。「おもしろい人ですね」
「まあねえ。いい人なんですけどね」
美咲も苦笑いした。
美咲は藤木を連れて施設内を回り、他のスタッフにも紹介していった。入所者が寝ているベッドシーツの洗濯場所や保管場所、浴室、売店、介護士たちの休憩所等。一通り回ったあとで、美咲は自分が担当している入所者のもとに、藤木を案内した。
五ニ〇号室。表札を見て、その名前を藤木が言った。
「宗馬京子さん?」
「……はい。一ヶ月前に隣町で事件があったんですけど、その被害者なんです。一時は心肺停止にまで陥って、その後息を吹き返したんです。でも、脳に障害が残ってしまって……」
美咲は言葉を濁し、扉を開けた。そして明るく挨拶した。
「京子さん。おはようございます」
京子はベッドの上で上半身だけ起こして焦点の定まらない目で正面の壁を見ていた。
その綺麗だったであろう顔には、暴行の傷跡を隠す為のガーゼが所々張り付けてある。
京子は脳に障害が残り、魂が抜けたように何事にも無反応になってしまった。目が覚めて、何も考えることもなくただひたすら一日を終え、また寝るの繰り返し。食事は、口にものを含ませると、かろうじて機械的に噛んで飲み込むという具合だ。
意識が戻って欲しいと思うこともある。だが、戻ったところで一ヶ月前の忌まわしき事件について思い出させるのも酷だ。
事件後、彼女は奇跡的に命は取り留めた。しかし、その代償がこの状態だ。夫の宗馬正樹も殺害され、さらにはお腹にいた子供も流産している。意識が回復したとしても絶望的な状況に変わりはないのだ。
警察は、意識が回復したら事情聴取させてくれと言っているが、とても無理な話だった。
美咲は明るい声で京子に話しかけた。
「京子さん、シーツをお取替えしますね。藤木さん、わたしが京子さんを車椅子に移動させるから、シーツを取り替えてください」
藤木を見ると、彼は京子をじっと見ていた。
「藤木さん? どうしたんですか?」
「え、あ、いや、ちょっと」
藤木の様子がおかしい。
「俺、この人知っているかも……」
美咲は驚いた。
「え、本当ですか!」
「……見たことあるような気がするんです」
美咲は二人の顔を交互に見比べた。
まさか、この施設で働くことになったその日に、記憶の手掛かりがありそうな人物と出会うとは。
縁とは不思議なものだと、美咲は思った。
それにしても、この二人が知り合いだったとするなら、どのような関係だったのだろう。
ご近所さん? 職場の同僚? 歳の離れた友だち同士───は、少し無理があるか。
「それじゃあ、京子さんの介護を続けることで記憶が戻るかもしれませんね!」
少し興奮気味に美咲が言うと、藤木が慌てた。
「ちょっと待ってくださいよ。見たことがあるかもしれないってだけだし、確信は持てませんよ」
それもそうだ。勝手に一人で突っ走った自分が恥ずかしくなった。
咳払いをして誤魔化して、美咲は京子を見た。
「何にしても、京子さんの身の回りのお世話はしなくてはならないですしね。もしも、彼女と藤木さんが知り合いであったなら、そのうち何か思い出すかもしれませんね。頑張りましょう」
「そうですね」
藤木は力強く頷いた。
美咲がベッドから京子を車椅子に乗せて、温めた濡れタオルで顔や手足をマッサージするように拭いていく。
その間に藤木がシーツの取替えを行った。彼が作業している時、ふと、首筋に黒子が見えた。サイコロの四のような黒子だ。別に気にすることもないので、美咲は次々と藤木に指示を出した。
藤木は手際よく、すぐにこなしていった。
京子をベッドに戻し、美咲は誉めた。
「すごいですね。物凄く手際いいし」
「いえいえ。そんなことないですよ」
藤木は照れた。
「じゃあ、次の部屋行きましょう」
美咲は張り切って言った。
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