第20話

 目覚めた時、真っ白な天井がまず目に入った。

 頭がぼんやりとして、脳の情報処理が上手く機能しない。

 とりあえず首だけ動かして、周囲を確認する。

 まず彼は、自分が白いベッドに寝かされているのに気づいた。周りはカーテンで仕切られており、それからベッドの脇に、ピッ──ピッ──と、規則正しい電子音を放つ機械があった。

 少しずつ、脳が働き出していく。

 ここは一体どこだ?

 起きあがろうとしたが、身体が上手く動かなかった。もう一度、身を起こそうとするも、やはり少ししか動けない。

 状況がわからずに混乱した。

 カーテンで仕切られたこの空間が、世界から切り離された場所に思えて、段々と恐怖が募っていった。

 ふと、口に何か付いていたのに気づいた。酸素マスクだ。ということは、ここは病院だろうか。

 カーテンの仕切りが開かれて、ピンク色の服を着た若い女性が姿を見せた。看護師だった。

 看護士と目が合い、彼女は驚いて目を見開いた。

「良かった! 意識が戻られたんですね! ちょっと待ってください! 担当の医師を呼びますので!」

 そう言って、看護士は部屋に備え付けられた受話器に向かって「258号室の患者さん目を覚まされました」と言った。

「……僕はいったい?」

 無理矢理身を起こそうとして、彼は全身と頭の激痛で呻いた。

「あ、まだ動かないで下さい! 絶対安静なんです!」

「いったい何が……?」

 彼は思い出そうとして、愕然とした。

 何も思い出せない。自分が誰なのか、何故こんなことになっているのか。

 そこに医師がやってきた。

「気がつかれたようですね? 気分はどうですか?」

 気分は最悪だ。だが、それよりも。

「僕は誰なんですか? 何でこんなところにいるんです?」

 医師と看護婦は顔を見合わせた。

「……やはり、記憶障害が残ったか」医師は深妙な顔つきになり、彼の方を向いた。

「落ち着いて聞いてください。どういう状況でそうなったかはわかりませんが、あなたは運悪く配電線に絡まり感電したらしい。そのショックで記憶障害が起こったんです」

「……記憶障害?」

「現在、君の身元を警察に調べてもらっている最中なんですが……」医師は少し言い淀んだ。「今のところ、君に関する情報が何も入ってこないんです。身元確認できるものが何一つなくて……」

「……それじゃ、僕が誰なのかわからないんですか?」

 医師は小さく頷いた。

「……僕はどうやってここに?」

「通りすがりの女性があなたを助けてくれたんです。今、待合室におられますよ」

 医師が看護師に言う。

「彼女に、彼が目を覚ましたことを伝えてあげてきてください」

「はい」看護師が部屋を出ていき、そして、数秒後に一人の若い女性を連れて戻ってきた。

 肩まで伸びた少し茶髪の女性。童顔で二十代半ばくらいだろうか。

「あなたを助けてくれた女性ですよ」

 女性が、こちらを心配そうに見て訊いた。

「……具合はどうですか?」

 彼は首を振った。そして、少し微笑んで礼を言った。

「あなたが僕を助けてくれたんですね? ありがとうございます」

「……看護師さんから聞きましたが、記憶がないんですか?」

「……はい。あなたは僕のことを知っているのですか?」

 彼女は首を横に振った。

「わたしは偶然あなたが路地で倒れていたところを見つけただけです」

 路地に……そんなところで自分はいったい何をしていたのだろう? 考えたところでわかるはずもない。

 彼女と医師の話によると、どうも自分は何かの原因で切断された電線ケーブルに直撃したらしい。

「……でも、命があって良かったですよ」

 医師の言葉に、彼は頷いた。

「……あの、記憶ってどうしたら戻りますか?」

「……そうですね。あなたの身元がわかったら、親族たちに連絡をとる。そして、ありきたりですが、色々と思い出のある場所、印象に強い風景を見ることで思い出すこともあります」

「……そうですか」

 医師は「何かあればすぐにコールしてください」と言って、病室を出て行った。

 彼は助けてくれた彼女の方を見た。

「あの、命の恩人の名前教えてください」

「いえ、恩人だなんてそんな……」彼女は照れながら「名取といいます」と名乗った。

「名取さん……改めてありがとうございます」

 彼は深く頭を下げた。

「いえ……早く身元がわかるといいですね」

 名取は微笑んで言った。



 名取美咲の家は、都心部より少し離れた住宅街にある。両親は美咲が幼い頃に交通事故で他界していて、今は祖父母と一緒に同じ家に住んでいた。

 二階にある自分の部屋で、美咲はベッドに座り、膝に頬杖をついて考えていた。

 美咲が助けた青年は、あれから半月程入院していたが結局身元もわからず、記憶も失ったままだった。歳は見た感じでは二十歳過ぎだろう。いつまでも入院しているわけにもいかず、彼はこれから先、生活保護を受けることになる。

 このまま長期に渡り身元と記憶が戻らなければ、仮の名前と戸籍を申し立てることになる。なるべく早く記憶が戻ればいいのだが。

 半月程前、五月の中頃に彼を見つけた時は、本当に驚いた。

 凄まじい雷雨の日だったのをよく覚えている。

 美咲は、障害者施設で働いていて、昼の一時から夜の零時半までの勤務を終えて、帰宅する途中だった。施設を出ると同時にぽつぽつ振り出した雨は、すぐに地面を叩きつける大雨となり、空は雷鳴を轟かせ始めた。

 車を停めている駐車場は、施設から十分程歩いた場所にある。折りたたみの傘では到底間に合わず、ずぶ濡れで駐車場まで走った。

 車の扉を開けようとしたその時、周囲が稲光で白くなり、大地を震わせるような音が鳴った。それも二度、三度と。近くで落ちたのだと分かり、思わず身を屈めながら扉をあけて中へ入った。

 雷は近くの電柱へと落ちたらしい。電線がショートして、辺り一体が停電となってしまった。

 真っ暗な中、美咲が車のライトを点けると、正面のビルの路地の地面に、何かの塊があるのが見えた。何かわからなかったが、何故か気になった。

 この雷雨の中、確認するために外に出るのは嫌だった。けれど、もしアレが猫か犬だったら。

 こんな凄まじい天候の中で、怯え震える動物の姿を想像して、胸が締め付けられた。

 どうせ既に下着までびちゃびちゃなのだ。これ以上濡れても大して変わるまい。そう思い、外に出て近づくと人が倒れていて驚いた。

 慌てて近づこうとして、咄嗟に足を止めた。切れた配電線のようなものが彼に絡みつくようになっていたからだ。電気の供給は止まっているらしく、放電のようなものは見られなかったが、素人判断で近づくのは危険だった。

 倒れている人物が死んでいるのか生きているのかわからなかったが、とにかくスマートフォンで救急車を呼んだ。

 結果、彼は一命を取り留めたが、自分に関することを忘れてしまう記憶障害が起きてしまった。

 美咲は何かできることはないか考えた。

 幼い頃から困った人を見ると放っておけない性格だった。そのせいもあって、今では障害者施設に通いヘルパーをやっている。

 どうにか彼の記憶を取り戻してやりたい。

 色々と考えている時、一階から祖母が声をかけてきた。

「美咲、ご飯の支度できたよ」

「え?」美咲は時計を見た。午後の七時半だった。しまった。考えすぎた。晩御飯作るつもりだったのに。

 慌てて一階に下りて、食卓にすでに並んでいる祖父母に両手を合わせて謝った。

「ごめん! 晩御飯の支度忘れてた!」

「もう作ったよ。美咲も早く食べましょう」

 祖父が微笑んで言った。

「何か考え事してたんだろ? お前は子供の頃から考え事があると時間を忘れて考え込む癖があるからな」

「面目ない……」美咲は席に着いた。

「いただきます」三人で手を合わせて言って、食事をとることにした。肉じゃがと鮭の切り身の塩焼きだった。

「実はちょっと悩んでいることがあって」

 美咲は、半月前に助けた青年のことを祖父母に話した。

「……そうか、記憶を。可愛そうになあ」

「生活保護があるとはいえ、記憶も何もわからない人が生きていくってすごく大変なことよねえ……」

「うん。それで、彼が落ち着くまでどうしたらいいかなって思って……。助けた以上、何か放っておけなくて」

 しばらく、考えたまま食事を進めた。

 そして、祖母が言った。

「美咲の職場で少し面倒みてあげたら?」

「え?」

「ほら、いつも人手が足りないってぼやいているじゃない。その人に少しの間手伝ってもらったらどうかな?」

 美咲は考えた。いい考えかもしれない。

 人手が足りなくて本当に困っていたというのもあるが、ひょっとしたら、彼の生活の基盤を支えるキッカケになるかもしれない。それに、記憶がない不安を紛らわせるには、身体を動かすのも一つの手ではある。

 もちろん、彼の意志を尊重して、断られたら断られただ。

 とにかく、一度彼に話をしてみよう。やる気になってくれればいいのだが。

「そうね。少し話してみるわ。ありがとう」


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