狂気


 夜中。

 ガチャリという音が聞こえ、体に緊張が走った。

 どうやら母親が帰ってきたようだ。

 私はできるだけ息を潜めて、母が寝静まるのを待つ。



 これはもう一年も続けた日課のようなものだが、いつまで経っても慣れる気がしない。


 下からテレビの音が聞こえてくる。

 時間も時間だというのに、ボリュームも何も考えていない。

 恐らく酔っているのだろう。


 そしてその直後に聞こえてくる冷蔵庫を閉める音。

 まだお酒を飲むつもりなのだろう。


 私の家族は変わってしまった。


 昔はこんなこと無かったし、父も母もお酒は飲む方ではあったが、溺れるなんてことは一度も無かったはずだ。


 それほどまでに父の死は衝撃的だったのだと思うが、まさかここまで変化するとは思わなかった。


 父の死、環境の変化、夜の仕事。

 本当に色々なことが起こったし、色々と変わった。


 母も大変だったと思う。


 でもね。

 私も大変だったんだよ。


 お父さんが亡くなったのはショックだったし、友達とも別れることになった。慣れない田舎にも引っ越しもした。



 もちろん私は大人の事情は分からない。

 でも私だって感情があるし、まだ優しい母の記憶は確かに残っているのだ。



 今の母とのギャップがどれだけ悲しいことか。

 酒に溺れて、暴言を吐かれ、暴力を振るわれ。

 

 もう消えてしまいたいと思ったことは一度や二度ではない。


 たった一人。愛されることなくただそこにいるだけの雑草。

 雑草なのだから夢を見てはいけないことくらい分かっている。

 私は所詮雑草なのだから。


 大切に育てられ愛されている花壇の花や綺麗に咲き誇る桜ではないのだ。


 生き物は生まれる場所を選べない。

 なんて残酷なことなんだろう。



 下ではテレビの音がドンドンと大きくなってくる。

 母は酔うと耳が聞こえなくなってくるのかボリュームを上げる癖がある。

 きっと本格的に酔ってきたのだろう。


 私は耳をふさぐと、より一層布団に潜り込んだ。






 どれだけの時間が経過しただろう。

 変わらずテレビの音が聞こえてくる。


 今日は寝れないかな……。


 そう思った時、部屋の扉をドンドンと叩く音がした。

 母だ。


 私はバッと飛び起き、タンスで作ったバリケードを確認した。


 ドンドンと扉を叩く音、そして叩く度に揺れる扉。

 うるさいなんてものじゃない。

 今にも壊れそうな扉は大きな音を上げていた。


 私は素早く扉の前に行くと、体重を乗せてタンスを抑える。

 これはダメなやつだ。



「ナズナー! 酒が切れたから買ってきなさい! ほら、ここ開けて!」



 怒鳴り声にも似た声で叫ぶ母親。

 恐怖が私を襲う。


 ここを開けたらマズい。

 そう本能が訴えている。



「ほら! 開けなさい! 起きてるんでしょ? ナズナ! 開けろ! 開けろよ!」



 徐々に母の声がヒステリックに変わる。

 真夜中の町に母の声が響き渡った。



「やめてよ! お母さん!」



 身の危険を感じ私も思わず叫ぶ。

 この人は本当に壊れてしまったんだ。



「開けろよ! 起きてるんだろ? おい! 開けろ!」



 ガチャガチャと扉を開けようとする母。

 扉とタンスが当たる音。そして私と母の叫び声。


 色々な負の音が響き渡る。


 時間は分からない。

 一時間だったかもしれないし、ほんの数秒だったのかもしてない。


 ただただ必死だった。

 母の声が本当に怖かったし、もしも扉が開いてしまったら自分がどうなってしまうのかという恐怖もあった。



 この状況が変わったのは突然だった。



「七草さん! ちょっとよろしいでしょうか?」



 聞きなれない男の声が玄関から聞こえたその直後。


 

「誰!? 離して! ねぇ、離してよ!」



 な、何?

 母がそう叫んだその瞬間、私の部屋の前で何か起こったらしい。

 扉の前で母親と他数人がガヤガヤと揉めているようだった。


 私はパニックになる。

 誰かが家に入ってきた……?

 先程とは違う恐怖が私を支配する。


 ぎゅっと震える体を自分で抱きしめると、息をひそめた。


 母親とその数人が暴れているのだろう。

 扉を無理やり開ける音とは違う……人が倒れるような音が聞こえてくる。そしてそれに反抗している母の泣き叫ぶような声。そしてその音がどんどんと遠くなっていく。


 母は殺されるのかもしれない。


 そう頭によぎった瞬間。


 涙が出た。


 理解できないという恐怖からなのか。それとも母を心配する感情からなのかは分からない。

 ただ一つ分かるのは、私には何もできないということだけ。


 体と感情を恐怖によって支配されてしまった私は扉を抑えるのを止め、跪き泣き喚いた。

 

 この家で聞いたこともない足音が近づいてくる。

 恐怖という表現が優しく感じてしまうほど強い感情を覚えた私は必死に耳をふさいだ。




「七草ナズナさん? 大丈夫ですか? もし動けるようでしたら開けて下さい! ――警察です!」



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