真昼のシルエット・ダンス

蓮海弄花

真昼のシルエット・ダンス

 パン、と瑞々しい音が道路に響いた。イヤ、この音、瑞々しくっちゃ困るんだけども。また脱水の時間を間違ったかな。オートのボタンが壊れてしまってから、度々脱水事故が起こるのが我が家の全自動洗濯機だった。心ばかりのベランダに立った僕は、なんとはなしにアスファルト舗装の道路越し、日本家屋の塀の向こうに目を遣った。

 ああ、やっぱり今日も居る。

 僕のボロ四畳半アパートの向かいに建つ立派な日本家屋の庭に、毎日僕が洗濯をする午前九時から十時ごろに決まって立っている青年が居るのだった。

日課というには少し下衆かもしれないが、僕は洗濯物を干す間彼を観察することが少し好きだった。

 大学の友人にはとても言えないことだったけれど、彼を見るときの非現実感が好きなのだ。夏の気配がする。

 同い年くらいであろうに、特に仕事をしている風でもなく、かと言って学生のような風でもなく。ただ毎日、寝間着であろう着流しの姿で庭に一時間ほど立っているのだ。

 どこを見ているのかは不定だった。

 空を見ている日もあれば、庭に植わっている木や花を見ている日もある。雨の日は一度だけ、縁側に座って本を読んでいる姿を目にした。

 あの家屋の中だけ、まるで時間の流れが違うようだと感じたのだ。

 しかし、今日は何だか何時もと様子が違うように思えた。イヤ、そんなに毎日、集中して見ているわけではないけれど。なんだか何時もよりヒョロっとしているような――

 やめだやめだ。あまりに下衆が過ぎるぞ、僕。人をじろじろ見るもんじゃない。僕は首を振って、高校時代からお世話になっているTシャツをハンガーに掛けた。

 それから四日ほど經った日曜、僕は件の日本家屋の前に汗をダラダラと流しながら立っていた。

 夏だから暑くてかいている汗だけではない。

 僕はこれからこの家の呼び鈴を鳴らそうとしているのだ。

 イヤ。イヤイヤ。

 お節介。

 お節介が過ぎるだろうか。

 やっぱり止めたほうが良いだろうか。

 イヤしかし。

 数日間、洗濯タイムにお向かいさんの姿が一向に見られなかったことを不思議と非常に心配してしまっている。どうしてこうも他人のことを気にかけてしまうのか知らないが、人生でお人好しと言われたことが一回くらいはあった気がするし、おそらく僕はお人好しなのだ。だから近所の人の様子を見るくらい――

 丁度実家から桃が送られてきたところだったので、そのお裾分けという名目で――。

 などと供述しており、という恐ろしい言葉が脳裏でちらついたものの、僕はえいやっと呼び鈴を押した。


「誰も様子を見に来なかったら一体どうするつもりだったんです…?」

「イヤァ、どうなっていただろうね」

 ハハと笑う青年は自分がどんな状況に置かれているのか関心が無さそうだった。僕はその様子に呆れつつ、しかしいつもベランダから見ていたイメージにはぴったりだと頭から離れたところで考えた。

 桃のお裾分けにという名目で訪れた僕は、返事の無いことになんとなく不審を覚えて屋敷内へと不法侵入、廊下で倒れているこの人を発見して介抱しているところなのだった。

 足を体よりも高くするために座布団を幾つか積み上げ、着流しの裾から覗く白く骨と皮ばかりのようなくるぶしをその上に乗せた。

頭の下に氷枕、頭の横には経口補水液を配置。

「何故だかは知らないのだけれども、数日前からお手伝いさんが来なくなってしまってね。ご飯を食べていなかったんだ。それで、体に力が入らないのかと思ったのだけどなア」

「飯も食わないで水分も補給していなかったらそりゃ倒れますよ。今は夏ですし…」

 言いつつ、僕はこの辺りで少々居心地が悪くなった。自分が不法侵入の末にこうしていることを思い出したのである。

「……あの、勝手に家に入ってきてしまって濟みません」

「ええ? ああ、ああ。そんなことは気にしなくていいさ。お向かいさんだろう、偶に見るよ」

 なんと、この人も僕のことを識っていたのか。自分だけが知っていると思いこんで居たため、焦りでカアっと顏が熱くなる。

「学生さんだろう?何年か前から住んでいるね」

 学生さん、という呼び方に少し違和感を覚え、彼の顏をよくよく観察してみる。もしかすると、同い年くらいと思っていたこの人はーー

 想像していたより若くない、かもしれない。

「ええ、二年前の春から……」

 否、若くは見えるのだけれども。

「そうだ、お裾分けに来たんです。実家から桃が届いて……どうだろう、食べられそうですか?しばらくは経口補水液だけにしておいた方がいいかな」

「桃かあ。桃、久し振りに食べたいなあ」

「僕の奥さんは桃が大好きでね」

 なんと。

「奥さんがいらっしゃったんですか。旅行かな?帰ってくるまでに悪くならないといいけど…」

 それを口にしながら僕は聞いてはいけないことを聞いていることに気がついてしまった。

 この一年間、僕はこの人の奥さんをただの一度も目にしたことが無い。

 儚げなその人は、僕のそういった心中まで察しているかのように優しく微笑んだ。

「彼女は十年前に亡くなってしまったんだ。気を遣わせてしまって、申し訳ない」


 僕の表情を見て、彼は色々な話をしてくれた。親が死んで天涯孤独の身だったこと。好きな人が出來て結婚したこと。彼女はとてもダンスが得意で、優雅に踊る人だったこと。花が好きだったこと。空を好きだったこと。自分以外誰も居なかった、伽藍堂のこの家を好いてくれていたこと。

「ダンスを踊りましょうって約束したんだ」

 彼の言葉は幸せそうだった。

「僕はあまり上手ではなかったけど、彼女が教えてくれたから、下手なりに踊れるようになったんだけれども」

 あのひとは事故で死んでしまったから、もう約束は守れないんだ。

 その言葉の静かさに、僕は泣いてしまいそうだった。

 この人の悼みにきっとこれまで誰も触れなかったのだ。

 だからこんなことになってしまったのか。

 一人でずっと、この庭で、守ることができなかった約束を思っては季節を遣り過すような悲しい餘生を過ごしてきたのか。

 僕は思わず眉間を押さえた。

「どうして――」

 周りには誰も居なかったのか。こんな儚げな人と共に細君の死を悼んであげられる人は、誰も。

「悲しんでくれてありがとう」

 笑い混じりの声で、次に自分が何を言われるか分かった気がした。

「僕もね、もう長くはないんだ。病気で」

 ああ。

「だけど、さっきは助けてくれて有難う。きっと僕があんなに間の抜けた死に方をしていたら奥さんは怒っていたからね」

 「だけど」、と、今言った。

 ああ、この人はやっぱり死にたかったんだ、と思った。

 夏だからだろうか。

 僕がいまこうしているのも。

「君にお返しできることは、悲しいことに、僕にはないんだ。でも、君はもう僕には關らないほうが、」

「いいえ」

 夏なのだ。

「いいえ」

 僕は両手で顔を覆った。本当に僕はお人好しだったのかもしれない。誰も知らなかったことだけれど。あるいは変態してそうなったのかもしれない。

「ご迷惑でないなら、あなたとあなたの奥さんのお話をもっと聞かせてください。覚えている限りぜんぶ」

「あなたが死んだ後も、僕が代わりにずっと覚えておきますから。あなたのお墓参りにだって行きますから」

 夏の魔物が存在するならきっと今この枕元に居るのだろう。僕を正しい道に連れ出してくれているのだ。

「憐れんでくれるのかい?」

 否。

「いいえ」

「じゃあ、どうして?」

「わかりません。けれど、きっと僕の一生にはあなたの生き様が必要なんです。ここであなたを見捨てたら、僕は生きていけないような気がするんです」

 本心だった。

「不思議な子だねえ」

 彼は身體を起こして、おかしそうに笑った。

「じゃあ、もしかしたら短い間になるかもしれないけれど、お友達でいようか。名前を聞いてもいいかい」

「モモです。百と書いて、百」

「ああ、それは、奥さんも気に入りそうな名前だなあ」

 僕は泣きそうに爲ったまま笑った。

 この人の熱中症が良くなったら僕にもダンスを教えてもらおう。

「そうか……今は、お盆だったねえ。あのひとも帰ってきているだろうか。君を連れてきてくれたのも、あのひとなのかもしれないねえ」

 そう言って、彼は縁側の向こうの空を見上げた。

 僕も、雲一つないその青い空を見上げた。

見たことも無いけれど、きっとうつくしく優雅な誰かが微笑んでいる氣がした。

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