豚玉で始まる恋

子牛くん

第1話

「なんだか全然うまくいかない」

 突然の雨に降られた幸子は、店の前で雨宿りしながらつぶやいた。今日に限って、日傘も持っていない。

 幸子は最近残業続きで、今日こそ定時に帰ろうとしていた。しかし時刻はもう八時を過ぎており、そのうえ持ち帰りの仕事も残っている。

「明日の朝までによろしくね。中西さんは仕事早いから、できるでしょ」と、体よく幸子に仕事を押しつけた東さんは、「それじゃね」といそいそ退社した。ブランドの服を着て、化粧をばっちり決めていたから、きっとコンパかデートか、面倒な仕事は横においておきたくなる楽しいイベントが待っているのだろう。

 このところ、そんなことが増えていた。仕事を引き受けることに感謝してくれていた同僚も、最近は、当然のように幸子に渡すようになった。昨日は林さんにも渡された。林さんは幸子の教育係だった女性で、幸子とは仲良くしているはずだった。

「中西さん、私の仕事もお願いできる? みんなの仕事をやっているみたいだから、私のもやってくれるわよね? 教育係、してあげてたじゃない」

 声を出さずにゆっくりとうなずいた幸子のデスクには、書類が高く積み上げられた。


「くっそぅ腹立つ! どいつもこいつも、人がウンウン言ってたら調子に乗って!」

 ザーっという雨の中叫ぶ幸子の後ろで、ガラと音がした。幸子がさっと振り向くと、曇りガラスの扉が半分開いており、紺のエプロンをつけた若い男が、扉を引く姿勢のまま固まっている。

 ハハハと幸子は空笑いする。男は苦笑いしながら頭を軽く下げ、それから手で店の中を示した。

「すみません、店の前で立たれていたので、お客さんかと思いまして。雨宿りなら、中で待たれませんか? 席、空いてますから」

 幸子は困った顔をしながらも、おずおずと従った。


 店の中には、焼けた野菜とソースのにおいが立ち込めていた。白髪の老人が、カウンターテーブルの前の鉄板から、焼きそばをすくい、小皿に取っている。老人の隣に座る少年は、高さの合わない椅子の上で伸びあがってそれを見ていて、手が鉄板に当たりそうである。

「うちはお好み焼き屋でね。まあ、お好み焼き以外もやってますけど。結構人気なんですよ」

男はカウンターの奥へ入り、幸子に席を勧める。

「お姉さん、ずいぶんストレスが溜まっているみたいですね。まだ雨も止まなさそうですし、お酒でも召し上がりませんか? グイっと飲めば、多少気が晴れるかもしれませんよ」

「そう、ですね」椅子に座った幸子は、小さな声で言った。「あまりお酒は得意じゃないんですが、ビールをいただけますか?」

 承知しました、と言う男の声を聞きながら、幸子はぼーっとメニューを眺めた。お好み焼き屋らしく、かまぼこ板に書かれたメニューが壁に打ち付けられている。文字が消えかかっている年季の入ったかまぼこ板もあれば、真新しいインクで書かれた期間限定の新メニューもある。

 いつの間にか、集中して壁を見ていた。幸子のお腹がぐーと鳴る。ちらっと見てくる男から隠れるように、幸子は俯いた。

「おすすめはありますか?」

「『始まりの豚玉』ですかね。うちの先々代が、この店を始めたときにはじめて出したメニューなんですよ。ほら、炭も消えかかっちゃってる」

「じゃあそれをひとつ、小さめでいただけますか」そして、言い訳がましく付け加えた。「雨もまだやまなさそうだから」

 男はカラカラと笑った。



「それでねー、みんなひどいの。私にばっかり押し付けてくるの。部長だって知ってるのに止めてくれないし。『君はうちのエースだからね、ついみんな頼ってしまうんだよ』だって! 私まだ三年目なの! エースは林さんなんだから、頼るんだったらそっちだろ! ねえ、お兄さん聞いてる?」

 ジョッキ半分ほどのビールを一気に飲んだ幸子は、ぐでっと体をテーブルに押し付けている。

「ええ、聞いてますよ。お客さん、鉄板に触れないように気を付けてくださいね。でも、ほんとにお酒弱かったんですねえ」

「うん? 別に弱くないよ。でもね、なんかね、二十歳になった時に家で飲んだら、あんた外じゃ飲んじゃだめーって母さんが言ったの。だから、得意じゃないってことにしてただけ。でも、お兄さんカッコよかったから、勧められて断れなかったの」

「そうなんですか。てっきり男除けの言い訳かと思ってました。でも、そのー、カッコいいって言われると、照れちゃいますね」

「そぉう? 言われ慣れてそうだけどなぁ。背は高いし、短髪で清潔感あって、腕もムキムキだし。まあ、テレビに出てくるほどじゃないけどね! でも、うちにいたらモテそう」

 男は顔をあげないまま、ぐるぐると油を引いている。

「お姉さんだってきれいだから、会社じゃモテるんじゃないですか? 女性だけの会社ってわけじゃないんでしょう?」

「ぜんっぜん! 男なんてまーったく寄ってきません! まあ、全然助けてくれない意気地なしばっかだし、そんな奴らにモテたいなんて思わないけどね」

「美人だから、変に声かけるとナンパだと思われそうで、嫌なんじゃないかなあ」

「そんなもの? 自意識過剰じゃん。まあ、男はいい、よくはないけどいいとして、女がねぇ。うまくやってると思ってたんだけどな」


突然幸子はトーンダウンした。

「でも、そろそろいい年だし、私だって彼氏がいるべき年齢になってるよね。みんなが仕事より出会いを優先するのもわかるんだ。私が二十七でしょう? 東さんが二十九で、林さんはたしか三十三だったかな。そりゃあ慌てるし、そんな時に便利な私がいたら押し付けちゃうよね」

 一瞬シーンという沈黙がある。

「そろそろ焼きますね。えっと、お好み焼きは、押し付けたらだめなんですよ。そっと形を整えるだけ。そうじゃないと、固くなっちゃうんです」

 何それ、と幸子は笑った。それから小さな声で言う。

「そうか、でも、固くなっちゃうのか。固くなると、失敗だよね?」

「そうですね、おいしくないです」

「押し付けられた私は、おいしくないのかぁ。おいしくないから、こんななのかな」




「できましたよ、『始まりの豚玉』です。とりあえず、食べて元気出してください。食べたら何かいいことが始まるかもしれませんよ」

男は今までで一番大きな声で言った。

 直径十五センチくらいの豚玉は高さが三センチほどもあり、きれいな円柱である。まんべんなく塗られたどろっとした濃い色のソースが表面から垂れ、鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てている。

 ソースの上には青のりが散らされ、真っ白なマヨネーズは格子を描く。中心にバサッとのせられた鰹節が、熱々の豚玉から出る湯気で水分を含んで、徐々に表面に覆いかぶさっていく。

 幸子は豚玉をじっと見つめた。鼻から大きく息を吸い、そっと吐くと、吐く息で鰹節の粉がちらちら舞った。「おいしそう」と言いながら動かない幸子に、たまりかねた男が声をかけた。

「お好み焼きって、どうやって食べるの?」

恥ずかしそうに幸子は訊ねる。男は笑って、コテを手に持った。

「色々食べ方はあるんですけど、初めてなんだったらお箸で食べられる方がいいですね」

 男はコテを器用に使って、豚玉を格子状に切り分けていった。コテは抵抗なく豚玉に入り、底面の豚に当たる。カリカリの豚は、コテに押されてすっと切れた。

 切り分けられるたびに、豚玉の上に広がるソースやマヨネーズが鉄板にこぼれ落ち、ジュウという音とソースが焦げる香ばしいにおいが広がった。

 あっという間に九等分し終え、一切れを小皿に取り分ける。

「冷めないように、一切れずつにしましょう。じゃあ、召し上がれ」


 幸子は右手に持った箸で豚玉を持ち上げ、一口に頬張った。はふっはふっ、と息を吐く。左手でジョッキをつかみ、半分残っていたビールをごくごくと飲んだ。

 ジョッキを置いた幸子に、いかがですかと男が聞くと、左手を広げて見せ、ちょっと待っての仕草をする。

「熱かった。でも、おいしい。ふわふわで、豚はカリカリなの」

 幸子は二切れ目を鉄板からつかみ上げようとする。豚玉はやわらかく、箸で挟むと崩れてしまう。苦戦する幸子を見ていた男は、コテで一切れをすくいあげ、幸子の小皿へ移した。

「ありがと。ねえ、お兄さん、やっぱりかっこいいねー」幸子は赤い顔で言う。「お兄さん、お名前なんて言うの? 隣来て、一緒に食べよーよ」

「お姉さん、また酔いましたね。今だったら豚玉より、お姉さんの方がふわふわしてるかも」

「ははっ、上手。でも、お兄さんだって、押し付けられて固いのより、ふわふわの方がいいでしょ? ねえ、もうお客さんは私だけだし、隣に来てよ」

 幸子は男の手首をつかみ、隣の席の方へ引っ張った。雨はすでに上がっていたが、夜はまだ続いた。



 「うん? この店は初めてか。おすすめは、そうだな、『始まりの豚玉』だな。なんでかって? あんたたち、友達以上恋人未満っていうところだろう、おっちゃんの目はごまかされんぞ。でな、この店の店主が、5年くらい前に、えらくべっぴんな女房を捕まえたんだ。そのときのきっかけが、『始まりの豚玉』だったんだと」

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