第9話


 坂之上の雲のテーマソングが流れていたサイトは大正時代写真コレクションとかいうものだった。陸士や江田島の卒業写真は殆どの年度が掲載されていてたいへん興味深い。スマホの画面は小さいから事務所で仕事の合間にパソコンで眺めていると、時々ひどく懐かしい面影と再会する。

 一方的だが同窓会気分。

 ただし大正の末まで坂の上の雲というのはいただけない。日露戦争のときに俺は10歳にもなってない。記憶はあるが、親世代の出来事。

 まあでも、令和の時代では誤差の範囲内か。

 昭和の二度目の大戦に入る前、不景気の波も戦争も要人暗殺あったが国内が戦場にならなかった時代に成人した俺は幸運だった。もう30年前なら幕末の混乱期だし30年後なら敗戦で若さを愉しむどころじゃなかっただろう。

 曽祖父あたりの遺品を処分するので、とかいう理由でアップされてる写真が多い。珍しいものだと物知りが撮影場所や背景を推理してコメントしていたりして、それもまた面白い。そんなののひとつに恩人のものがあった。瀬戸内の基地に配属されて時々軍艦に乗ったりしていた時期の上官。

 陸士時代の成績表を90年もたって、まさか子孫に公表されるとは思っていなかっただろう。思わぬ知見に笑ってしまう。陸軍で大佐まで出世して、敗戦の時には予備役で難を逃れ、恩給を貰いながら地元に書道教室と剣道の道場を建てて老境を迎えた人は家族に愛されたらしい。写真は幼児の家族写真から古希祝いのものまであった。

 東京へ転属する特に写真を交換しあったこの人と『俺』は二度と会わなかった。30年後に中国で生まれた『俺』の息子として再会するまで。GHQが解散した年だ。『俺』の近親に生存者はなかったが、この人の証言と物持ちよく持っていてくれた25歳当時の『俺』の写真とで日本人としての復籍はあっさり認められた。

 1924年に第二次奉直戦争で溥儀を追放した張作霖政権の内偵を命じられた『俺』はそのまま行方不明になり、戦乱の中で死亡と推定されていた。大怪我を負っていたところを職務上つきあいのあった現地の貿易商に保護され匿われ、後遺症で身体が少し不自由になって帰国もできずそのまま娘婿として迎えられ、二十年以上の時を生きて子孫さえ残したことを俺から聞いたこの人はひどく喜んだ。

 いいひとだった。

 むかしのことをぼんやり思い出していると来訪を知らせるチャイムが鳴る。金曜の午後7時過ぎ、気がつけば約束の時間より少し遅れているが、気にするほどでもない。ちなみに繁華街で経営しているこの事務所の営業時間は原則平日の14時から21時まで。

 ドアを開くと先日、相続放棄の仕事を依頼してくれた女性客の代理人。彼氏が経営している会社の顧問税理士事務所のスタッフという男は珍妙な姿だった。

「すみません、来る途中で行き倒れてるのを拾ってしまって」

 スーツの上着にくるまった成猫を結んだ袖を持ち手にして肘に引っ掛け、ベルトの上でシャツの裾は膨らみもぞもぞ動いている。子猫だろう。

「事務所汚すといけないので、ここでいいですか」

 用件は書類の受け渡しと説明。玄関先で出来ないことはない。が。

「……飼うのか?」

「親猫はたぶん。子猫は里親を捜してみるつもりです」

「すぐ診てくれる獣医のアテは?」

「ありません。いきつけのところは定休日で連絡が取れなくて、これから近い順に電話かけまくってみようかな、と」

 ぐったりした成猫に触れる。首の後ろの毛皮のたるみを指で掴んですぐ離す。戻らない。ひどい脱水状態。やせ細ってもいる。

「あがれ。すぐ砂糖水飲ませた方がいい」

 事務所はキッチンも風呂もある居住可能物件だが、仮眠用のソファと飲み物と非常食くらいしか置いていない。それでも来客用にステックシュガーくらいはある。

「あの、えぇと……。ありがとうございます、お邪魔します」

 深々と頭を下げられる。子猫が三匹、ぽろぽろっとシャツの胸元から零れ落ちた。



 ぬるま湯で薄めに溶かした砂糖水をプラスプーンに掬って口元へ運ぶ。唇の端をめくって牙の間から、むせないよううつ伏せの姿勢を保持したままで流し込む。母猫は素直に飲み込んだ。なんどか繰り返し休ませて様子をみる。子猫は鳴きながら母親に寄り添う。腹が減っているらしい。乳を吸おうとしているが、今は母猫に負担が大きすぎるだろう。可哀想だがそっちもとりあえず砂糖水で我慢させる。

「あの、チュールがあるんです。お湯もらっていいですか」

 子猫の足取りはしっかりしていて離乳期にさしかかったところ。湯で薄めた液状のチュールをソーサーに満たすと我先に舐め尽す。子猫たちは元気そうで客と一緒にほっと安心する。砂糖水を飲んで休んでいた母猫は子猫が気になるらしい。起き上がる様子を見せる。

「起きれたなら食べられるかな」

 客が言いながら薄めていないチュールを空になったソーサーに絞ると母猫はすぐに舐めた。子猫がもう一度寄っていく。ごろんと横になって乳を吸わせるのを今度は邪魔しないでおいた。

 母乳はろくに出なかったらしい。子猫たちは乳首を離し母猫の前脚や胸元に頭をこすりつける。もう一本のチュールを湯にといてソーサーへ。一瞬でなくなる。

「家に帰ったら粉ミルクあるからちょっと我慢しような。お母さん疲れてるからな」

 客が子猫たちを宥める。家にそんなものがあるのか。

「うちのが小さかったときに買ったんですけど、あんなにすぐ大きくなるとは知らなくて未開封のがたくさん余ってます。……あの、本当にありがとうございます助かりました。猫かってられるんですか?」

「むかし、実家で」

 故郷では養蚕が盛んだった。蚕を食うネズミは養蚕農家の天敵で、退治してくれる猫は大事にされていた。桑の実はちょっと種っぽいが甘くて酸っぱくて、女学校卒が自慢のばあやが砂糖煮してくれたものだ。おかげで辛党に育ったあともマルベリージャムだけは好物。事務所の冷蔵庫にもある。

 母猫が起き上がる。んー、と鳴いて客のスラックスの膝にスリスリ頬を寄せる。本当の野良じゃない。迷子か捨て猫からは分からないが人間に飼われていたことがある様子だ。母猫はなんども鳴いて空腹を訴える。

 そういえば、無塩サラダチキンがあった。思い出してとりに行く。常温のをパックごと揉んでほぐして、細い繊維にして別のソーサーにふんわり盛り付けた。母猫のそばに置くと一瞬でなくなる。また少し。またすぐになくなる。まだ残ってる俺の手元を見上げて母猫は切なく鳴いて甘えたが。

「食べ過ぎると吐き戻すぞ」

 言いながらコピー用紙の入ってるダンボールの蓋を外し中身を出した。新聞紙を敷くと母猫は中に子猫を運び込んで丸くなった。子猫たちも安心した様子で母猫に寄り添う。その上に客が皺だらけ毛まみれになったスーツの上着を掛ける。

「箱に蓋して持って帰れ。これが裁判所に送った申請書の写しと経費清算書だ」

 客に仕事の書類を渡す。てきぱき受け取ってくれて、そして。

「この依頼人があなたのことを『友達』の社長に話したんですが、たいへん興味を持っておられまして。こちら顧問契約だと月額、どれくらいになりますか」

 二人して毛だらけ、床にしゃがみこんだまま猫入りの紙箱を挟んでの商談。

「訪問なしなら5万と消費税だが、弁護士じゃなく司法書士事務所だぞ。大きな仕事は請けられないが、いいのか?」

 スタッフを複数抱えた税理士事務所がついてるからにはけっこう大きな会社だろう。司法書士は140万を超える案件は扱えない。ふだんは在留資格ビザの申請や更新、帰化手続きに不動産登記、店舗の賃貸契約書作成、養子縁組や宇治の変更手続きなんかで細々稼いでいる。細かいといっても2万から10万単位、最近はネットで遠隔地の手続きも出来て便利になった。水商売関係者は専門家への依頼率が高く、全額前金でとりはぐれないようにしているから普通に生活するには十分。

 いろんな意味で怪しまれないためには、生業を明確にしておくことが必要。

「会社の契約ですが、社長は個人的なことを相談したいんだと思います。顧問弁護士がヤメ検でおカタイので」

 なるほど。そういえば今、この客も社長サンの『彼女』の相続放棄手続きを介添えしてる。

「有り難い話なんだが、実は事務所をしばらく閉めるかも知れないんだ。実家の親の具合がよくなくてな」

「介護離職はいけませんよ」

「再開したらの話にしといて貰えるか」

「分かりました。はなしておきます。……ところで、あの」

 さっきから妙にソワソワしていた客が、事務所の机の上で開きっぱなしだったサイトをちらりと見る。

「俳優さんなんですか?」

 キラキラ見上げられ何のことかと戸惑う。気がつけば表示は切り替わっていて、トップページのタイトル周辺に幾つかの写真が散らされて順番にアップになる。並んでいるのは美男美女の写真ばかり。中のひとつに『俺』のもある。陸士の卒業アルバムのものだ。旧制中学の4年で入学したから卒業時は二十歳。まあなんというか、人目を惹くという目的からすれば、トップページにもってきたい気持ちは分かる。

「曲知っているだけでドラマ見てないんですけど、すごいですね」

 小さな音だが坂の上の雲のテーマソングはまだ流れている。キャスティング写真と誤解されたことにようやく気がつく。

「本物の昔の写真だ。曾爺さんの」

「えー。すごいそっくりですね」

 そりゃそうだ。

 ダンボール箱を抱えて客は出て行った。大荷物だが来た時のスタイルよりは目立たないし、子猫が外に飛び出して行方不明になる可能性も少ない。見送りがてら外に出る。夜風がゆったりと頬を撫でる。




 同じ頃。

「ほんとに逃げたいなら今すぐ、ここからもう戻らずに逃げろ」

 オラオラに見せかけた相談友達経営のホストは、顔に痣のある美女に真摯に、告げていた。

「逃げようとしてることが気づかれてないとか思うな。倦怠期の夫婦じゃあるまいし。女ってのは逃げる前に準備しすぎなんだ。金とか、服とか」

 自分ではなく残していく相手のことを含んで。

「オマエ泳がされてるんだぜ。証拠掴んで言い逃れさせないつもりなんだ。なぁ、殴られて痛くて可哀想だけど、殴った男は正当防衛だと思ってる。だから反省なんかしねぇ。したとしたら油断させるためのポーズだ」

 一言ひとことに妙な説得力。

「オマエが居ないと生きていけないのに逃げようとするのは自分を殺そうとする事だ。そんな風にマジで思ってる。殴られるぐらいですんだのはラッキーだ。縛られて閉じ込められて『どこにも居なく』されてた可能性だってあんだぞ」

 この街では時々、女の子が消える。自分の意思でか攫われたのか、生きているのか死んでいるのか殺されたのかは、わからない。

「逃がさない、って、決意した男はナンだってする。自分に惚れてる男をオンナはバカにするけどよ、嫌われても逃がすよりいいって決めたオトコは怖いんだ」

 オトコは言葉を切る。そして。

「逃げたいんなら、うまく逃げてやれ。おとこも多分、そっちの方が、たすかる」

 こころは思い通りにならない。他人はもちろん、自分自身さえ。

 


 



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ひとむかし 林凪 @hayashinagi

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