第8話



 それから。

 寝巻きに上着を羽織って夜明け前の闇に紛れて、上官の宿舎まで歩いた。膝がガクガクで辛かったのをよく覚えてる。

 非常識な来訪を上官は咎めなかった。俺の姿でなにが起こったか察したらしい。急いで身支度した上で支えてくれながら部屋へ戻る。扉を開けてさすがに立ち竦む。

 生首と、それが斬り落とされた首なしの胴が転がった血まみれの室内。従軍はしたが近代戦しか知らない俺たちに斬首の経験はなく見たこともない。武士の世界が終わって50年以上。刀を使った生身の斬りあいはむかしのはなし。幕末には日常茶飯で女子供さえ見慣れていたという生首は、今となってはふだん度胸のいい軍人にも息を飲ませた。

「湯は浴びていません。このままで鑑識の捜査を受けます」

 殴られた顔は派手に腫れていて首や手首に掴まれた指の痕も残ってる。歩行はぎこちなくてなにがあったかは明白。ただし加害者をこの手で仕留めたことで心の重さだけは晴れた。

 ような演技をする。少しは本心もあった。

「……よくやった」

 とりあえず褒められる。逃した被疑者が報復に来たのを迎撃したのだと解釈してくれた。されるための演出怠りなかった甲斐があった。

「だが独断専行が過ぎる」

「今回限り、ご容赦ください」

「座りたまえ。遺留物を避けて。足を崩して構わない」

 言われるまま血痕や内容物を避け膝を立てて畳に座りこむ。

「自宅に戻りたいといったのはこのためか」

「偶然です」

「誰に尋ねられてもそう答えたまえ。怪我は?」

「ご覧のとおり。歩ける程度です」

「それはよかった」

 触れないように気をつけながら生首の顔を確認した上官は軽く頷き、どうしようかと迷った後でいちおう手を合わせる。そうして座った、俺の目の前で屈む。

「無事でよかった」

「ぶじですか?」

 皮肉な苦笑を浮かべた俺に。

「無事だとも。完封勝利おめでとうだ」

 上官は力強く断言。

「実はずいぶんな数が海上で返り討ちにあっていたらしい。さすがに貴官は切れ味が違う。見事な戦果だ。独断専行だが」

 慰めるということに不慣れなこの人が必死に励ます程度に俺はボロボロらしい。疲れた素振りで居れば鑑識も医師の診察も事情聴取も短くて済むだろう。

 まあ実際に疲れ果ててもいた。

「無事で本当に良かった」

 白手袋の指先が伸びてくる。夜明け前の暗い部屋ではまぶしいほどの白さ。頬に触れられる。くちづけはされなかった。

 意外とヘタレだ。その時はそう思った。礼儀正しさに感心してやるべきだったかもしれない。




 捜索は極秘だったから表立った褒賞はない。ただ知っている偉い連中は通りすがりのいつもの敬礼に軽く頷いていく。組織に属する人間というのは上層部の動きを見逃さないもので、しばらく腫れていた俺の顔とあわせて何かがあったことを周囲の連中は薄々に察した。

 次の人事異動では転属になるだろうなと思っていた。その通りになった。瀬戸内から帝都への異動は栄転。戦争開始前に繁華な街で人生を愉しんでおけという思いやりでもある。

 異動の前には二週間ほどの休暇が与えられる。帰省して実家の始末やその他、諸々の手続きをするつもりだった。世相がきな臭いことになっている中で軍人が身辺整理を始めるのは自然なことで、いいタイミングだった。

 出発前に地下にある帰化したドイツ人がマスターをしているバーに行く。軍艦の出港したタイミングを狙ったおかげで客は俺だけだった。最初に来てから三ヶ月。休みのたびにここに顔を出してた。もう十回は超えてる。

 馴染みの妓楼に行きづらくなってからはもっぱらここが休日の息抜き場所。いい若い者が官舎に閉じこもっていると変な目で見られる。独身男というのは生きづらい。

 転属になったことを話す。これまでの交流に感謝をする。

「それはとても寂しいです」

 二回目の来店から俺のドイツ語の発音や文法がおかしいと訂正してくれる。マスターもずいぶん日本語が達者になった。

「また近くにきたら寄ってください」

 来たときは是非。その時は欧州の話を聞かせてくれ。敗戦したもと職業軍人の語る大戦の体験は、現役でおそらく数年以内にはまた国外へ出征するだろう俺にとって興味深いことばかりだった。蒸留酒をゆっくり飲みながらマスターにも一杯付き合って呑んでもらう。だいぶ酔ったが名残にもう一杯、とか思っていたところで背後のドアが開く。

 振り向かなかった。誰かは分かっていた。昼間のうちに使いをやって、場所と時間を指定した。時計の針は指定時間より三十分くらい早い。俺はさらにその一時間前に来ていた。

 早足の足音が背中に近づいてきて。

「一人で来るなって言っただろ。ここのマスター同族だぞ」

 肩を抱かれる。マスターが聞き取りにくい早口で告げられる。顔を覗き込まれる。

「勘定。うえ使わせてもらう」

 オマエも一杯飲んで行けと、告げる余裕は与えられない。

「……、ッ」

 肩を掴まれた手が皮膚の下に埋まる。シャツの生地越しにそれが出来るとは知らなかった。身体が揺れる。崩れ落ちそうになる。腕が差し伸べられる。縋りつく。カウンターの椅子から剥がされて担がれる。くらくらしながら目を閉じているうちに階段をしばらく登って上階へ。そこの部屋が幾つか連れ込み宿になっているのは二回目の来店時に知った。

 部屋に連れ込まれ寝台に投げ出される。清潔な敷布の感触を愉しむ間もなく覆いかぶさってきた相手に唇を塞がれる。ベルトが抜かれて前をはだけられる。シャツを引き抜かれ裾から胸元に手が差し入れられる。乱暴じゃなかったが性急。尖りかけてる先端を押しつぶすようにされて細く声が漏れた。

「……憎い」

 掠れた声に耳朶を擽られて悶える。そのまま全部、とりあえず委ねた。



 

「海の上いくなら乗る艦ぐらい教えとけ」

 返事をせずに敷布の上で腹ばいに煙草を吸う。

「陸軍さんはウチの店来ないから、どこ行ったのか誰にも尋ねらんねぇし」

 聞けたところで憲兵の乗艦予定は公表されていない。知ったところで海の上。陸上なら三階の窓から入って来れる奴だが訪問は不可能。

「先がみえないの辛いから期限切れって先に言ったのアンタだろ」

 真顔で責められる。鼻で笑う。俺には百年とかふざけた期限を押し付けておいて、十日やそこらに文句を言われる筋合いはない。

「喧嘩の後でそのまんまバックレはないだろって言ってんだ」

 喧嘩。

 したかな。

「白々しいんだよ黙ってさき帰りやがってたいがい陰険だぜアンタ」

 まあ、その傾向があることは否定しない。でも留守中に重ねられてた葉書の枚数に免じて戻ったのを知らせてやったのは優しいだろ。職場あての封書は開封されるから転居や事項の挨拶を装った葉書の数は日を経るに従って同じ消印が五枚もあったりして、必死すぎて笑えた。

 笑わされたら、たいてい負けだ。

「せめて謝らせろ。……悪かった。二度としない」

「謝らなくていい」

 言葉の内容はともかく、俺が返事をしたことに男はほっとした様子。

「こっちが勝手に落ち込んでただけだ」

「嫌味言うなよ。マジ悪かった。反省してる」

「嫌味じゃない。まぁアレだ。もしかしてオマエの気まぐれがたまたま長続きして、万が一にも長い付き合いになると仮定してだ」

「それは嫌味だろ」

「理解して欲しいことは説明が必要だってのは分かってる。なんでなのか自分でも分からなかったからとりあえず逃げた。心配させて悪かった」

「……」

 俺の素直さが意外だったらしい。男は驚いた顔をして黙り込む。頑固で強情な俺なりに反省しているのだ。

 黙って帰ったことじゃない。黙ってても分かってくれると思い込んでた前の男に対する手抜かりを。言わなきゃ分からないに決まっているのに許容が喫水線を超えるまで黙ってた。相手にとっては突然の裏切りで、気の毒だったと反省しているのは本当のこと。反省以外の気持ちも大量にありはするけれど。

「カマトトぶる心算はないし、自分がウブい方とも思っちゃいないんだが」

「……あのな」

「売春婦がシたりサれたりすることだって意識がある……、らしい」

 自分自身でさえ何日も考えなきゃ分からないのに、他人に自然と伝わるはずはない。

「そういう風に扱われた気がして塞ぎこんでた。サァビスのつもりだったんなら、感謝できなくて悪かった」

「あ……、のな」

「どうしてもやりたいなら慣れる努力はする。でも多分、ノリが悪くなっちまうのはなおらないと……」

 最後まで言い果てず煙草を毟りとられた唇に、強引に重なってきた口づけは長かった。点けたばかりの火が指を焼きそうになってようやく開放されたとき、飲み込み切れなかった唾液が枕に派手に零れた。そんなつまらないことを妙に覚えている。

 時計を見る。まだ日付は変わってない。部屋に入ったのは宵の口だったからご休憩時間にしては十分だが。

「……珈琲のみ損ねた」

 喉が渇いていた訳じゃなかったが惜しくって呟く。バーのマスターがネルドリップで煎れてくれるドイツ式のはたいそう美味い。

「まだ間に合う。砂糖抜きで?」

 そうだと返事をする。

「アイネ タッセ カフェー ビッテ(Eine Tasse Kaffee, bitte・コーヒーをください)」

「あ?」

「なんでもない。ついでに泊まれるかどうか聞いてきてくれ」

「泊まりはいつも大丈夫だ。明日の朝飯の用意頼んでくる」

 男がバタバタ服を着て地下のバーへ降りる。いつもがどれくらいのいつもなのか、しどろもどろの言い訳を聞きながら眠った。




 二度目の大戦が始まる数年前、むかしのはなしを思い出す。

 たかが口淫で大騒ぎしたのはとおいむかしのこと。でも心の中では昨日の出来事のように鮮やか。意識は時間を超越して、昨日の事を過去に流しもすればその逆も易々と有り得る。大騒ぎしたのはおおむかしなのにそういえば、まだ二度目されてないなと思い至る。

 今時はなんていうんだったっけ。

「……、ラチオ」

 たいそうろくでもない単語を口走りながら目覚めて。

「あ?」

 寝ている俺を抱きながら髪を撫でてた男が至近距離で、鳩が豆鉄砲くらった顔をしていた。

「……してやろうか」

 感傷たっぷりの雰囲気をぶち壊してしまった気まずさにろくでもないことを口走りさらなる恥をかく。せめて真顔で正面を向いて、からかっているんじゃないことを伝えようとした。売春婦扱いされた気がして塞ぎこんだのはむかしのはなし。あれから100年近い時間が流れて世間も俺の認識も変わった。今なら行為の一部として受け入れられる気がする。

「なに言って、んだ」

「ナンかむかしの夢みて、むかしっからワガママばっかり言って来たなって」

 しまった。

 男の表情がみるみるうちに、困惑から悲しみに変貌する。情けない顔を見られたくないのか、ぎゅっと、もう一度抱きしめられる。

「死んだら会える、とか思ってるか?」

 少しも。

「だから怖がってないのか?」

 考えたこともない。俺はこの世で特定の宗教を信仰しなかった。俺じゃない誰かが頭の中で考えた妄想を真に受けるのは馬鹿馬鹿しいと、それは100年、ずっとブレていない。もちろんそれが俺の勘違いで死後の世界や来世とやらが本当はあるのかもしれない。でも見るまでは信じられない。人食い鬼だの吸血鬼だのと同じく。

「怖くない、ことはない」

「うそつき」

「決め付けンな」

 本当のことだ。そんなに嘆かれると怖くなってくる。自分が死ぬことがどうこうじゃなくて、死んだ後のこの男のことが心配で、

 だからって死にたくない、とはまた少し違うが。

 想われてるうちに居なくなりたいという甘い感傷を吹き飛ばす嘆きを目の前で見せられて、いっそ今から浮気して幻滅させてやろうか、とか。

 顔見知りに押し倒された瞬間そう思った。一瞬だけだった。見目が悪くない以外とりえのないアレに俺たちの仇役は務まらない。100年間の終わりがアレじゃあまりにも間抜けだ。

「歯ぁ捨てるぞ」

 同じ事を考えていたらしい男が冷たい声を出す。頷いた。差し歯を作るなら型取りに使うだろうと思って洗面所の鏡の前に置いて、殴って熱を持った右手を冷やしていたのが悪かった。しっかりバレて、全部しゃべらされた。

「死ぬなって言う権利はない。……俺が殺すんだ」

 もうそんなのは、むかしのはなし。忘れていいから俺のことも適当な時期に忘れろ。俺たちの真似をして『期限』を切られた餌がその通りに何人か死んで、中にはまだ寵愛を受けてるのも居て逆恨みされたりした。あの頃から覚悟はできてる。

「だからって巫山戯ふざけた真似は二度とするな。残り時間が少ないから多寡くくってんなら考え違いだ。相手は必ず生首にするし、アンタは必ず、泣くほど後悔させる」

 恫喝も語尾が震えてちゃ台無し。

「わかった」

 怖がってやれない代わりの返事。

 ぎゅっとまた抱きしめられながら気がつく。妙な夢を見てしまった理由に。放り出されたスマホから小さな音で音楽が流れていた。『坂の上の雲』のサントラのオープニング。繰り返し見たから頭の中でこのメロディーとあの時代とがリンクしたんだろう。

 ああ、そういえば。

「仕事、どうした?」

 こいつの勤めているホストクラブは夜から朝までが営業時間なのに。

「休憩で抜けてきた。……見せたいものがあって」

「戻れ」

「体調不良で今日は早退だ。もう連絡した」

「あのなぁ、そういういい加減な処から綻びて色々バレるんだぞ」

 散々繰り返した小言を男は無視して腕をとく。スマホを拾って音声をミュートにし、そして。

「生首なら見ない」

 画面を差し出され顔を背ける。

「いまさらヤワいフリするな」

「フリじゃない。オマエのなぁ、男衾三郎絵巻っぽいノリにはついてけないんだ」

 100年たってもそこは変わらない。俺が生まれ育ったのは西洋化の進んだ近代日本であって、砲撃戦で粉砕された死体には耐えられても民間人への斬首は受け付けない。『馬庭の末に生首絶やすな、切り懸けよ。 此の門外通らん乞食・修行者めらは用ある者ぞ、蟇目・鏑にて駆け立て駆け立て追物射にせよ』の、戦場以外で軍人以外を相手の残虐は肯定できない。おぞましい。

 綺麗ごとと言われても構わない。ヤワいって笑いたきゃ笑え。徴兵でなく職業軍人だった俺の、100年たっても残ってる最後の矜持。

「色恋と生首は」

「だから言うなって」

「ぬきがたく繋がってる。最初に惚れた従妹は結婚してた。旦那を殺して俺のものにしようとしたら、入れ替わられて、俺は従妹の首を落とした」

「……」

 なんだか。

 聞いたことのあるような話。

「それからずっとだ。業っていうんだろう。ずっと首がついてまわる。アンタも知ってる妓楼の女将みたいに、亭主殺されるぐらいならあたしを好きにしなさいよとかって帯を投げつけてくるようなのも居て、そんなのだけは例外だがほんの少しだけで、それ以外はずっと。800年、ずっと」

 それが本当なら、俺もその業とかの例外じゃなかった訳か。

「アンタだけだ」

 なにが。

「首を見せたら胴も持って来いって、俺に言ったな」

 あれは。

 偽装工作に胴体が必要だったから。

 首だけ転がってたら猟奇事件だが、胴も揃ってりゃただの殺人になる。

「赦して庇ってくれたのはアンタだけだ」

「……」

 沈黙を守ったのは浪漫殺しの自覚があったから。

 俺には俺の事情があっただけ。それはこいつも分かってる。その上で庇われたって本人が解釈したのなら、その主観を否定する権利は俺にはない。

「とおくにいくなら、つれていけ」

 泣くな。

 かわいそうになる。


 


 

 





 

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