第7話


 窓の鍵はかけていなかった。あいつが『帰ってくる』かもしれないと思ったから。手負いにしたからには自分で始末したいと上官に告げた言葉が嘘か本当か自分でも分からない。ただ五日前、俺が『世話している』若い娼妓との逢引場所を襲撃したときの、驚きすぎて反撃もしなかったあいつの顔は目の前にチラチラした。

 俺が裏切るとかは微塵も考えていなかったんだろう。自分が別のを抱いてる、まさに現場に踏み込まれといてどうしてとか口走りやがった愚かさはいっそ笑えた。大戦後の不況で父親が事業に失敗して帝大進学を諦めるまでは未来の学長か法務大臣かと高等科の教師たちが夢想するくらい頭が良かったくせに。

 俺のことを結局、何も理解していない馬鹿だ。愛情かどうかは知らない。凄まじい執着心を持っていることは明白。自分自身でぞっとするくらい。別の女を抱いたことなんかはどうでもいいが、俺との約束を裏切ったことを許せなくて、いっそ殺してしまいたいくらい。

 あいつの機嫌を損ねれば喉に埋められた爪に一生苦しめられる。それは少しの抑止力にもならなかった。刑事罰をどんなに重くしても犯罪は根絶できないのと同様に、強い感情は不利益を易々と上越す。

 痛みで支配できると思われた不本意、約束を破るような奴じゃなかったのに俺が知っているアイツじゃなくなったこと。他の男とやらに輪姦させて愉しもうとかに至っては俺が死ぬかアイツを殺すかというくらいの凄まじい怒りのような。

 上官さえ承知して苦笑した俺の短気さを、分かってなかった、あいつが悪い。

 ただ。

 逃げていく寸前のあいつの表情がチラチラする。悲しそうな顔を見たのは二度目だった。進学先を変えると告げられた十五のとき以来だ。あのとき、学費を、貸してやろうかと俺は口走りかけた。まだ未成年でもそれくらいの資産は十分にあった。あいつの親は若死にした父の友人だったし、助けてやれば供養にもなる気がした。

 でも言い出さなかった。学費援助の申し出は地元の有力者から何件もあったのに受けなかったのも同時に聞いたから。それでもあのとき、言うだけいっておけば良かった。偉くなったら返せよと貸せば受け取ったかもしれない。そうしたらこの今はなかった。忘れかけていたむかしがいまに繋がって、いまさらの後悔にチリチリ、胸の奥が焦げる。

 後悔はそのひとつじゃない。あいつが俺を軽く扱うのは俺が長年、それを許してきたからだ。両親が居なくて可哀想に、兄弟が居なくて可哀想に、引き取ってくれる近親もいなくて可哀想に、使用人に育てられて可哀想に、寂しくてかわいそうに、と。

 ずっと思われてた。同情に反発するよりも、だから庇ってやらなきゃと優しくされる充足を選んできたのはおれ自身。あいつは俺を庇護してきたつもりだから、俺が反逆するとかは思いつかなかっただろう。

 俺は足元を掬った。裏切ったからには仕留めなきゃならなかった。仕損じたのは腕が足りなかったせいだと思いたいが、足りてないのは覚悟だと頭の片隅で分かってる。見切りをつけたつもりが諦め切れていなかった。咄嗟の場面で失うことを怒りとは別の感情が拒否した。俺は自分自身の執着の強さを見損なって、そのせいであんな大怪我をさせたまま逃がして苦しめてる。

 俺の爪どころじゃなく痛いだろう。可哀想に。早くとどめをさしてやらなければ。けど心の隅にはあいつの苦痛をいいきみだと満足してる俺も居る。俺の愛情と身体を散々に扱ってくれた報復が果たせたことをどこかで悦んでる。苦しみの様子をこの目で見たくもある。

 もちろん、見たくなくもある。だから外出を契機に逃走して行方を捜そうとはしなかった。

 ひとのこころはうつろいやすく、わがこころはうつりゆくかげのごとし。

 徒然草のむかしからみんなが聞き飽きた警句。でもきっと、俺を含めて、誰も分かっていない。




 そんなことを考えながら床に就いたせいで眠りは浅くて繰り返し悪夢を見た。血の匂いさえ嗅いだ気がして頭をふる。否、振ろうとしたとたんに前髪を掴まれて後頭部を敷布に押さえつけられる。

 動くな、危ない、と。

 心配そうに言われて大人しく従った。優しくされる弱いところがある俺は、寂しがりなのは間違いない。だからあいつの不手際を庇う形で馴染みになった妓楼に上陸のたびに行った。お帰りなさいと迎えられるのは心地よかった。月々の手当を出している客に対する色町の習慣でしかなくても。

 喉元がチリッとした、その一瞬後、ざわ、っと全身が覚醒する。

 ひとのこころとじぶんのこころの中をゆらゆら揺られているような曖昧な感覚は一瞬で醒めた。水中から水面へ浮上したように視覚も触覚も蘇って、生々しい事態を咄嗟に受け入れられない。

「……、な、に」

 至近距離から見下ろされている。殆ど重なるくらい近い。薄暗い部屋の中、影になって相手の表情はよく見えない。でも何をされているのかは分かった。

「やめ……」

「もう終わった」

 無慈悲な宣告。まるで勝ち名乗り。声は宵の口に一杯だけ一緒に飲んだ妓楼の男。一瞬、酔って連れ込んでしまったのかと思った。否、そんなはずは無い。俺は確かに一人で帰って来たし、鍵は掛けなかったが閉めたはずの窓が開いて、月明かりと夜風が部屋に夜更けの気配を運んでいる。

 男の掌に頬を撫でられる。そのまま顎を掴まれ唇を重ねられる。深部を貫かれていて、暴れるどころか身動きするのも怖い。

「ン……、ッ」

 男が肘をつく動きにさえびくっと、悶えて息が漏れる。弱い電流を流されたみたいに身体が反応する。繋がった場所から火花が芯に散る。

 男が笑った。近すぎて表情は見えなくても気配で伝わる。濡れた舌に唇を舐められて惑いながらひらく。絡めとられる。ビクビクしながら顎を掴んでた指が外れて耳たぶを撫でられる。触れる手の熱さが移ってこっちの熱まで上がる。

「……、ッ!」

 不意打ちで片方の膝を抱えられた。同時に跳ねる隙間も無いくらい押さえ込まれる。身動きをとれなくされて衝撃をそらす術もなく犯される。前立腺の裏側を容赦なく抉られて閉じた瞼の裏側が真っ赤になる。痺れる。息まで奪われる。苦しい。覆いかぶさる男の肩に手を掛ける。その瞬間にまた波が来て押し返そうとした筈がすがりつく。唇が外れる。

 息を継いだ途端に情けない声が漏れた。漏らした途端に重なった男の全身が熱くなる。嬌声がずいぶんお気に召したらしい。ぎゅ、っと、頭を抱いた方の腕の力が強まる。オスの正直な反応に妙に安心した。溜まった濁りの解消では発生しない情熱。その熱に炙られながら、どうしようもなくなって一緒に揺れた。

 



 波に揉まれて、なんども海の底に引きずりこまれては引き揚げられて、痺れる快楽と引き換えに疲れ果てくたりとした身体を抱きしめられる。

 そっと寄せられた頬の奇妙な優しさは、これで終わりじゃないことを悟られた。

 まえもそうだった。半年もたっていない過去。でも色々なことが起こり過ぎてずいぶんむかしのはなし、前世の記憶みたいに思える。

「……いやだ」

 逃がしてもらえると本気で思っていたわけじゃない。けれど一応、言うだけはいった。いやだ。こわい。やめろ。

 やめて、くれ。

 もうすんだと、今度は告げられなかった。

 代わりに触れてくる手が本当に優しくなる。屠殺する前の羊に経を読み聞かせるような薄っぺらい偽善。唇を重ねようとされる。逃げる。追ってこられる。顔を肩に埋めるようにして拒む。

 男は傷ついたらしい。頬を包む掌がすーっと冷えていく。それでも。

「アンタらが思ってるよりずっとオレたちの数は多い」

 逃がしてくれる様子はなかった。

「アンタの恋人ははぐれだったが、意外と横の繋がりも深い。誰かがドレかを喰った話はすぐに伝わる。居ることに気づかれて狩られる危険を減らす為に、餌の数は増やさない方がいい。あんなしるしを喉につけて世間を歩いたんだ。アンタのことは、もう何人も気づいた」

 少し変わった形の痣くらいで、たいして目立ちはしないと思っていた俺の考えは甘かったらしい。

「どうせ喰われるなら俺にしとけ。半分はすんだようなもんだ。痛かない。ホントに。アンタのが例外的にヘタクソだったんだ。嫌がられたら逃げられるし暴れさせたら不味くなる。だから、ふつうはちゃんとする」

 苦痛を与えないやかたは慈悲でなく美味く喰う為だという無意識の告白。そんなことを考えもしないで俺を食い散らしたアイツは正直すぎただけか。

「そう怖がるな。大丈夫だから」

 大丈夫なのはそっちであってこっちじゃない。怯えて逃れようとする、そぶりをしながら端までずり寄って敷布団の下に手を入れる。抱かれてるとき背中に当たらなかったから刀が取り上げられてることは分かってたが。

「いいこともある。仲良くしてる間は歳をとらないでいられる。なあ、このローマ時代の胸像みたいな顔でずっとだ」

 それで機嫌をとろうとしてるニヤケ顔が怖いというよりムカついた。俺自身は見えてないンだ見えて嬉しいのはオマエだけじゃないかと悪態をつきたかける。が、それより先に恐ろしいことに気がついてゾッとした。

 妓楼の女将はたぶんこいつの相手だ。化粧や装いでは理由にならないほど若々しく艶めかしかった。最初は親切だったのに途中から冷たくなって最後はにらみつけられた。こいつが俺を真面目に口説きだした頃から。あんな風になるのは願い下げた。今のどす黒い感情は今だけで十分。

「……な」

 腰骨を両手で掴まれる。く、っと、異様な感触に鳥肌だつ。肘をついて上体を起こして見る。男の親指が俺に埋まってる。皮膚が窪んでいるんじゃなくて、その下に。

「力ずくで押し込むなんてのは、有り得ないヘタクソだ。な、痛かないだろ?」

 押さえられる圧痛はともかく肉を裂かれる痛みは確かにない。代わりに爪の間から、じわり、毒が滲み出るのを内側に侵食する熱で生々しく感じた。

「ちょ、オイッ」

 舌を噛む。

 性交に疲れ果てていたわりに深く噛めた。

 血の味を感じるより先に側頭部を殴られる。ぐらりと眩暈がして今度こそ身動きできなくなる。頭痛と吐き気をこらえながら敷布に崩れ落ちる。

 本気で死ねると思った訳じゃない。自殺の方法としては手首を切ることよりもはるかに成功率の低いやり方。ただ慌てさせて殴らせて強姦の証拠を得ることと、怯んで止める可能性を考えた。

「あのな……」

 男はかなり動揺した。咄嗟に手を上げて止めた後で拒絶の強さに傷ついてる気配もある。それでも止めなかったが。

「……、せ」

「あ?」

「くイ、コロセ」

 いっそひとおもいに。

「飽きたら」

 その残酷な留保がイヤだ。いつかを待つのも、それが来たときあの女将や今の俺みたいに心をざくざく引き裂かれるのはもっとイヤだ。

「、めて……、きげん……」

 腰骨をもう一度掴まれながら必死の嘆願。

「お願いきいてやったら合意だな?」

 ジクジク染み始めた毒に泣きそうだった。少しでも楽になりたくて頷く。愚かだった。

「放してやるさ。百年たった、ら」

 慈悲も同情もない捕食者に哀願は徒労。

 嫌になるほど知っていた筈なのに、なにも分かっていなかった。








 









 

 

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