穂波
それがいわゆる恋心によるものであったのか、単なる性欲の発露であったのか、私には分かりません。でも、もう私は彼を愛することになってしまいました。たとえ彼にその気持ちがなかったとしても、私は亡霊のように彼の影を追い続けるしかないのです。
それは去年の冬、大学のサークルでスノーボードの合宿に行った時のことでした。中学生の頃からテニスを続けていた私は大学でもテニスサークルに所属しており、そのサークルでは毎年冬になると北陸地方のスキー場に合宿に行きます。
その時は三十人程が参加していたでしょうか。午前中にスキー場内のロッジに着いた私達はボードやウエアのレンタルを終えて、お昼すぎから滑り始めました。
スキーは何度か家族旅行でしたことがあったのですがスノーボードは今回が初めてで、その日はボードの上に立つというところまでがやっとでした。私を含めて初心者の人は全体の三分の一程いたので、できないもの同士、雪の上におしりを着いて遠くの山を見ながらおしゃべりしていました。
女の子たちは、ゲレンデ効果なのか、念入りにメイクをしているからなのか、いつもよりとてもかわいく見えます。男の子たちはそんな女の子のかわいらしい瞬間を捕らえては、目を丸くして、まるで自分だけのお宝を見つけた少年のように満足げになった後で、目線を下げてはにかむのでした。
さて、日が落ちて、真っ白の山が赤とオレンジの中間ぐらいの色に染まりはじめた頃、私達はロッジへと引き返します。食堂でみんなで夜ご飯を食べました。
男の子の内の一人がジャンプをしようとして失敗し、頭に大きなたんこぶを作ったという話を聞いて、笑ってしまいました。実は私もその現場をリフトの上から目撃していたのです。
話の途中、ふと視線を長い机の端の方にやると、一番奥に座っている佐々木君と目が合いました。彼は私たちと同期ですが、二年生になってこのサークルに入ってきたので少し周りと距離がありました。寡黙で遠慮がちな性格もあってかサークル内で友達と呼べるような人は一人もいないようでした。みんなの顔色をうかがって笑うべき時に無理やり笑顔を作っている彼を気の毒に思って、私は時折彼に話しかけていました。私が最初の友人になれれば、彼にとってこのサークルが楽しいものになるのではと思ったのです。彼の返事はいつも曖昧でした。世の中全ての人間の言葉の平均をとったような、無難で敵を作らない、空気を掴むような彼の言葉はそのまま、彼のこれまでの生き方を映しているようでもありました。
そんな佐々木君が今回の合宿に参加するとは、正直私は思っていませんでした。ラインの投票の「はい」の欄に彼の名前を見た時は、「無理しなくてもいいのにな」と思ってしまいました。
合宿の時の話に戻りましょう。佐々木君は私と目を合わせると、先程まで見せていた笑顔をふっと消してうつむいてしまいました。きっと作り笑いがバレたことを恥づかしく思ったのでしょう。彼にとって私は他の人よりも距離が近い分、恐ろしい存在なのかもしれません。距離が近くなればなるほど、その人を恐がってしまうというのはなんだか悲しいがします。私は彼のことを別に嫌っていないのに。
共同浴場のお風呂から出て自販機コーナーに向かうと、佐々木君が籐椅子に座っていました。私は飲み物を買って、彼の隣に腰掛けます。お互いに無言でした。私は夕食の時のことが、少し気まずかったのですが彼は自分から私に話しかけることはないので彼がどう思っていたのかは分かりません。私はその気まずさの中に、なにか彼との秘密を共有しているような特別感を感じ、沈黙が心地よくさえありました。
無言のまま数分が過ぎ、飲み物を全て飲んでしまった私は籐椅子から立ち上がろうとしました。その時です。
彼は私にキスをしました。隣の椅子から身を乗り出して、左手を私の右頬に軽く添えて、キスをしました。
私はただ、石のように固くなって彼を受け入れました。石になった私には彼の唇の感触がとても柔らかく感じられました。視界の端に見える彼の白い首筋に一本深いしわができていて、その溝の中に私自身が深く、深く落ち込んでいくような、そういう感覚がして、耳の先はこれ以上ないほどに熱くなり、官能に痺れる頭が重心の位置を見失って私は再び籐椅子の中に崩れ落ちてしまいました。彼は暫く私を見下ろしていましたが、取り返しのつかないことをしてしまったと思ったのか、怯えたような顔で足早に私のもとを去りました。
それから今日にいたるまで、彼とは一度も会っていません。帰りのバスでも彼は目を合わせてくれませんでしたし、最近はめっきりサークル活動にも顔を出しません。でも、私は彼のことを愛しています。朝、目が覚めた直後、夜、ベットに入った後、混濁した意識の中でいつも蘇るあの首筋の乳白色に包まれてまどろんでいる時、私は何よりも幸せなのです。
天使と悪魔 ハイカンコウ @haikankou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます