異世界から帰ってきました

壱ノ瀬和実

異世界から帰ってきました

 手元のスマートフォンは、十三時二十二分を表示していた。

 日付は、三月九日。あの日と同じだ。

 俺は夢を見ていたのか? いいや。夢じゃない。夢じゃないと、信じたい。

 俺の手には確かに、終末の王ヴィルギアルドを、聖剣マクドールで切り裂いた感覚が残っているし、仲間達を共に旅した記憶も鮮明に残っている。

 だが、スマートフォンはあの日の日付のままだ。

 つまり俺は――

「異世界から……帰ってきた、のか」

 三月九日。忘れもしない。俺の誕生日だ。

 今年もまた一人かと独り言つ昼下がりに、三十才を祝うべくケーキなんぞ買って、自分としてはかなり無理をして借りた新築アパートのリビングで、明かりも消さずにローソクを立て、ハッピーバースデーを歌っていた。随分と痛々しい姿だと、窓に映る自分を蔑むように見ていた。

 ――もういっそ。

 そうだ、あのとき俺は願ったのだ。

 一人にならなくて済む世界に行きたい。

 会社でも上手くコミュニケーションが取れず、座り心地の悪いデスクチェアに座って、毎日毎日同じ文言をキーボードで打ち続けるだけの日々におさらばして、違う世界で華々しく生きてみたい。なんてことを思ったところでどうにかなる、なんて考えもしない。

 だが、現に俺は異世界に旅立っていた。

 嘘みたいに胸のでかいエルフと、ドワーフと言いつつめちゃくちゃ可愛い美少女、見た目幼女の魔法使い(五百才)。そんな連中と、バカみたいなことで笑い合いながら、誰がどの武器を使うかで喧嘩して、ちょっとエッチなハプニングもありつつ、終末の王を倒す為の旅をしていた。

 三十年の人生で味わったことのない、興奮と感動の毎日だった。

 王を倒したその瞬間、俺の身体が光り始めたのを覚えている。

 さよならの時なのだと、すぐに分かった。

 別れは涙で埋め尽くされた。

 エルフのやつは自分の胸のでかさも忘れて抱きついてきたし、ドワーフなんて見た目以上に重たいくせに馬乗りになって、魔女は年甲斐もなく声を上げて泣いていた。

 そんな別れが、もう過去のものになっていた。

 今は、元の世界だ。

 しかも、異世界へと旅だったあの日に戻ってきている。

 近所のショッピングモールで買った安物の座卓の上に、さほど蝋の溶けていないローソクの火が揺れていて、ケーキの甘い匂いが漂う中に、スパークリングワインの泡が弾ける微音が混じっていた。

「夢、じゃないんだよな」

 十二畳のLDKに、今は俺一人だった。

 あんなにも広大で、あんなにも刺激的で、静けさの欠片もない賑賑しい仲間達といた世界とは、まるで違う狭い部屋。

 俺は、ローソクの火をふっと消した。

 ケーキを冷蔵庫にしまう。慣れたものだ。何年も居なかったはずなのに、染みついた家事動線が意思よりも先に身体を動かしていた。

 テーブルに座って、白のスパークリングワインをくっと飲んだ。感覚としては数年前のものだが、この世界では新鮮そのもの。少しこわごわと口にしたが、恐らく問題はない。ただ、向こうではもっとキツい酒を浴びるほど飲んでいたのに、大して度数の高くないワインが喉を焼くような感覚があった。そういえば俺はこれを、意を決して買ったのだ。この世界にいた俺は、この日まで甘い缶チューハイしか飲んだことがなかった。

 テーブルには、ケーキと共に食べるつもりだったサンドイッチがある。コンビニのものだ。正直、パンはもう飽きていた。今更食べたいとも思わない。

 だが腹は減っていた。妙な疲労感もある。

 そうだ。確かパックのご飯を常備していたはず。折角帰ってきたのだ。久しぶりに米を食べよう。俺はキッチンの下にある引き出しを開け、パックご飯を取り出してレンジに掛けた。

 おかずになるようなものはあっただろうか。ただ米を食べるのも良いが、どうせなら美味しくいただきたい。

 あちこち探ると、棚からはシーチキンの缶詰と魚肉ソーセージ。冷蔵庫には。カニかま、ちくわ、豚の細切れ肉、たまご、キュウリがあった。その多くは使いかけだったが、恐らくこれらも比較的新しいものだろう。

 懐かしさが込み上げてきた。この材料で当時何を作ろうとしていたのか、ぼんやりと思い出してきたのだ。

「ってことは……酢飯の素があるはず」

 台所の棚という棚を開けまくる。使い切れもしないのに充実した調味料入れの中に、それはあった。

「やっぱり」

 パックのご飯で上手く出来るかは分からないが、酢飯を作ることにした。

 ボウルを取り出して、ほかほかのご飯を入れる。粉状の素を入れて、しゃもじで切るように混ぜていく。

 少し冷ましておいた方がいいだろうから、その間に具材の準備だ。

 ガス台に小さなフライパン二つを並べて、火を点けて温める。あっちでは魔女が調理の度に魔法で火を点けていた。あいつがいなきゃ温かいものも食えなかったのだ。かなり面倒だったな、あれは。

 フライパンが熱せられるのを待つ間にまな板を用意し、キュウリを細長く切った。包丁の切れ味に驚く。ドワーフが作った剣もなかなかだったが、そこらの店で買った包丁の方がスッと入っていく感じがする。この包丁でなら、ドラゴンの太ももを調理するのももう少し楽だったかも知れない。

 何故だろう。何でも揃っている今の方が、なんだか満たされない気持ちになる。何もかも面倒だった異世界ではあんなにも便利さを求めていたのに、今ではどこか物足りなさを覚えていた。

「ないものねだりだな」と呟きながら、次にちくわを袋から取り出して、縦に包丁を入れた。一本のちくわを細長く四切れにする。片方のフライパンはそこまで熱くする必要がないので、油も引かずにちくわを入れた。まだ焼ける音はしない。

 様子を見つつ、シーチキンの缶を開けた。油をシンクに流す。シーチキンを小さめの器に移したら、冷蔵庫からマヨネーズを取り出し和える。

 ちくわがパチパチと音を立て始めた。もう一方のフライパンもそこそこ熱いだろう。火を弱めながら慌てて卵を三個取り出して、器の角で割り、溶き卵を作る。

 味付けは塩胡椒だけ。本当は甘くしたいが、他の具材にもそれなりに味を付けるから、今回はこのままでいいだろう。

 フライパンに油を引いて、厚焼き玉子を作る。卵液を流し、焼いて、巻いて、寄せて、また流す。それを繰り返した。

 途中、ちくわの方に醤油とみりん、酒を入れた。ちくわの蒲焼き風だ。少し焦がす感じで火を入れる。

 厚焼き玉子がある程度の厚みになったらまな板の上に移し、こちらも少しだけ冷めるのを待った。ちくわの方も火を止める。

 玉子焼きを作っていたフライパンを軽くすすぎ、また火にかけ、水気がとんだら油を敷き、今度は豚の細切れ肉を入れた。少しの塩胡椒と、焼き肉のタレで味付けをし、じっくりと焼く。

 肉は、エルフがよく好んで食べていた。いつもドワーフと、どちらが肉の取り分が多い少ないで揉めていた。あいつらは何が気にくわないのか、よく喧嘩していたように思う。

 魚肉ソーセージの袋を開けた。このビニールの開けにくさが懐かしい。歯でちぎって強引に剥ぐ。こちらも、同じように細長く切った。

「よし、これで全部かな」と言いながら、大事なものがないことに気付く。「あ、巻きす」

 どこにあったかなんてすっかり忘れている。

 だが使っていたものはあるはずだ。そもそも作るつもりでいたのだから、ないはずがない。

 こういうとき、あの年増魔女は「ほれ」と言いながらすぐに目的のものを魔法で探し出してくれるのだろう。エルフも協力してくれただろうし、あのドワーフは文句を言いながらも見つけてくれるに違いない。

 今は一人だ。一人の世界はあまりに静かだった。

 響く足音と、溜息、棚の音。そして、巻きすを見つけたときに不意に零れる「あった」の声。自分の漏らした何気ない声が、ここまで鮮明に聞こえたのは久しぶりだった。

 触りやすくなった玉子焼きを包丁で切って、冷蔵庫からカニかまを出し、一本一本を包むビニールから、三本抜いた。

 巻きすの上にラップを敷き、冷蔵庫にある海苔を取り出してラップの上に置く。

 冷ましておいた酢飯を、海苔の下側に薄く均等に広げる。巻きやすさ重視だ。

 そこに、焼いた肉、シーチキンマヨ、キュウリ、魚肉ソーセージ、ちくわ、玉子、ほぐしたカニかまを、彩りなど一切考えずに置いた。

「巻けるかな」と不安になりながら手前の巻きすを持ち、奥に向かって巻き始める。

 海苔をラップごと押さえながら、米の柔らかさを潰さないように筒型を作る。あらかじめラップを敷いておけば保存も簡単だし、食べる時にも手に海苔が付かずに済む。

「ふぅ。出来た」

 久しぶりの筈だが、結構上手く出来たんじゃないだろうか。

 それらしくはないが、我が家ではこれを恵方巻きとして食べていた。

 野菜が嫌いで、干瓢だ椎茸だといった定番を避けて、好きなもの、かつ安いものばかり入れたワガママの集合体とも言うべきこれを、俺は『ワガママ巻き寿司』と呼んでいた。

 まだ数本分の具材は残っているが、一先ずこの一本を食べてしまおう。

 別に節分じゃないから方角は気にしない。

 兎角、この米をいち早く食べたかった。

 台所でラップを少しめくって口に運ぶ。

「いただきます」

 海苔と米とめちゃくちゃな味の具材たちで構成された巻き寿司が口を埋め尽くす。

 安物の海苔に風味なんてさほどない。玉子の味もさほどしないし、細いキュウリや魚肉ソーセージに存在感なんてない。圧倒的に甘辛いちくわとシーチキンマヨの味が強い。しかし最後に口内を支配するのは豚肉の旨味だ。こいつには勝てない。向こうで肉と言えば、大小様々なドラゴンを狩って、解体して市場で売った後の屑肉を食うのが主だったから、ここまで味のあるものは食えなかった。ドラゴンは筋肉質で、味は悪くないが脂身のうまさがなかった。やはり、豚は美味い。

 ……にしても、だ。

「米、うめぇ~」

 異世界にはなかった柔らかな食感。酢の甘み。郷愁の、母の味。

「帰ってきたんだな……本当に」

 何に寄せるでもない我が家の味。ばかばかしくて、子供っぽくて、でも紛れもなく、俺がこの世界で愛した味。

 二口目も、三口目も、咀嚼し終える前に次を押し込みながら、五口食べる頃にはもう殆どなくなっていた。

 呑み込む隙のないこの食べ方が好きだ。乱暴だが、多幸感がある。

 だが、今までなら何本だって食べられたそれも、何故か一本完食したところで満足感を覚えていた。

 米と具材が勿体ないから出来る限りの数は作ったが、それらは明日の朝食にでもしよう。

 そうだ、今日は誕生日だった。

 テーブルの上に残されたスパークリングワインをグラスに注ぐ。

 口の中に残る混沌とした風味をアルコールで流し込み、冷蔵庫からケーキを取り出した。今更ローソクに火は点けない。

 フォークを小さなホールケーキに突き刺して、スポンジとクリームを取った。持ち上げた瞬間に抵抗してくるスポンジに、指先が少し力んだ。

 大口を開けなければ入らない量だ。一帯の空気もろとも吸い込むように、甘い香りを口の中に潜り込ませた。

 爽やかな甘みとふわふわしたスポンジが溶けていく。

 舌の上に幸せが広がった。

 米と、海苔と、肉と、練り物と、そして最後にはスイーツ。どれも異世界では食べられなかったものばかり。

 向こうの飯にはなかなか慣れなかった。食に関しては、あまり良い思い出もない。

 それでも、一緒に食事をした面子の思い出は、どこまで遡っても美しいものばかりだった。

 共に旅をしたエルフは、長命な種族ではあるがまだ歳は若く、俺とさほど変わらなかった。やや幼い印象だったが、何度も言いたくなるほど胸のサイズがとにかく凄くて、どんな服もサイズが合わず、何を着てもヘソが出ていて少し可哀想だった。

 ドワーフは、細い腕で良く俺の剣を研いでくれていた。同族の男が好きだったらしく、旅を終えたら告白するんだと息巻いていたが、王を倒した今、その決心はついたのだろうか。

 魔女はとにかく居丈高だった。それさえも愛嬌になる見た目だったが、あれも結局は魔法の力でそう見えていただけだろうから、時々その可愛らしさにときめいていた俺の心はなんて虚しいものだったのだろう。

 馴染みのあるものを食べているはずなのに、思い出すのは異世界のことばかりだ。

 本来生きるべきこの世界での営みのことなんて、てんで頭にない。

 ぽとり、と。正座した太ももに生温かいものが落ちた。

 涙だ。顎も震えている。

 苦しいこともたくさんあった。命の危険も数え切れない。それなのに、この安全で、静かで、美味しいものがたくさんあるこの世界よりも、俺はあの異世界の方にこそ帰りたかった。

 涙が止まらない。鼻が詰まって、無理矢理押し込むように頬張ったケーキの味なんてまるで分からなかった。

 口の中に残った巻き寿司の混沌が、クリームの甘さを掻き消していく。

 今日、この世界で俺は、三十一才を迎えていた。

 迎えたくない、今日だった。

「ねえ、勇者さん」エルフの声が聞こえる。

「ちょっとアンタ、何泣いてんの!」またドワーフが笑ってら。

「私の魔法で泣き止ませてやろうか」魔女め、からかってやがる。

 今でも耳に残る三人の声。幻聴と分かっていても、嫌に響いて離れない。

「もしかしたら、本当に夢だったのかもな」

 ずきっ、と。腹に痛みがはしった。

 何かマズいものでも食ったのかと一瞬ひやりとしたが、そういったものとは少し違った。

 だらしのないTシャツをめくると、そこには横に一本の線が入っていた。間違いない、これは、

「ガジラに斬られた時の傷……」

 敵の幹部、ガジラとの戦闘の際に追った傷だった。

 異世界である程度鍛えられた身体も、今はこの世界に居たときと同じくらい貧弱だ。きっと魂だけが異世界に飛んでいて、肉体はこの場に留まっていたんだろう。だがもしかすると、魂がこちらに戻ってくる際に、記憶と共に肉体にも僅かに向こうでの影響が反映されたのかもしれない。

「夢じゃ、なかったんだ」

 流れ続けていた涙が、止まった。

 夢想すべき世界から、自分の中に抱き続けるべき過去に変わった瞬間でもあった。それは曖昧な感覚ではなく、自分の中で確かに何かが変わったと言えるものだった。

 改めて実感する。

 俺は今から、またこの世界を生きるのだ。

 食べ慣れたものを舌に感じ、より一層味わって、しかしあの日々を確かに胸に抱きながら。

 この世界は便利なものに溢れている。だが、あまりにも不自由だ。静かで、五月蠅くて、寒気がするほどの孤独に苛まれる。

 不便ながら限りなく自由だった世界とはまるで違う。

 それでも、俺はここで生きていかなければならない。

 異世界に行って分かった。いや、ここに帰ってきたからこそ、覚悟することができた。

 生きるのだ。ここで。

 異世界での記憶が支えてくれる。

 異世界で負った傷が、あの世界で生きた証が、孤独と向き合う力をくれる。

 俺はケーキを喰らった。全て腹に収め、口の周りについたクリームと、海苔と、頬の涙を一気に拭う。

 帰ってきたのだ。

 生きて、飯を食って、寝て。

 俺は明日から、昨日と変わらない日々を、昨日までとは違う自分で生きてみせる。

 そして明日はきっと、あの混沌たるワガママ巻き寿司を食すことから始まるのだ。

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異世界から帰ってきました 壱ノ瀬和実 @nagomi-jam

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