9-2始まり
虚ろな目をした執事がナイフを片手に持ちながら、屋敷の中をふらふら歩きだした。
何も映していないような、何かだけを見つめているような、形容し難い不気味な瞳に変わり果てていた。
ねずみの姿を探す。
「小さくて、傷つけてしまいたいほど可愛らしくて、慎ましくて、イイ子。そうですね、君は」
独り言だ。
「人一倍純粋で、優しく正しくあろうと日々努力して、精一杯己に抗ってきたのですね」
今解放してあげますからね。
執事はそう呟く。ふふ、と薄い笑いが漏れる。
薄暗い闇の中を、執事は進んでいるのか後退しているのかもわからないまま、ただ探し続ける。
焦る必要はない。出口をねずみは知らないのだから。
「ぁぁ、別に、今は他の召使でもイイのか」
最後に一番のご馳走を残しておくと言う程で言うのなら、今は誰でもいい。見つけた人間の血を吸わせればいい。
執事は右手に握るナイフに目を向けた。この闇の中でもそれは不自然なほど銀色で、執事の脳を楽しませるのだった。
ラットは、いつの間にか中庭に入っていた。脳が、警鐘を鳴らしている。
どこかに隠れないと、身の安全を守らないと。本能の部分がそう叫んでいた。
「はあ、はあ・・・」
恐怖ですくむ足を無理やり動かしながら進む。闇の中が混乱して赤に見える。
人を殺した時と同じ、自分が自分でなくなっていくような感覚。
だめだ、この感覚は強すぎる。ラットは、得体の知れない何かに呑み込まれて消えてしまう自分を妄想した。
「やばい、やばいやばいやばい・・・っ!!」
ラットは、茂みに身を隠そうとした。どうにか逃げなければと、体が勝手に動いているような感覚だった。
しかし、ピタ、と足が止まる。
「・・・何、考えてるんだ。殺されそうになってんのに・・・ッ!」
ラットは湧き上がってきた考えに自分でも驚愕した。
『逃げないで、ストライダーと向き合う』
それはラットの胸に、天使が息を吹きかけたようにふわりと浮かんだ。
ありえない、意味がわからない。とうとう頭がおかしくなったのか。
命の危機に晒されて、『彼』の異常さに当てられて、気が狂ってしまったのだろうか。
イェーゴーに殺されそうになっているのにイェーゴーのことを考えるだなんて。
『これは彼と向き合うことでしか解決しない。今まで逃げて解決したことがあったか?』
ラットの中の何かが、そう囁きかけた。否定すれば消えてしまいそうな儚い声だった。
しかしそれは他のどんな恐怖よりも強かった。
ラットは自分の体を抱いた。
そもそもなぜ、イェーゴーがあんなことを?ラットは荒くなる呼吸を必死で整えようとしながら、『彼』の姿を脳内で反芻した。
逃げな
返り血のついた唇がゆっくりとそう動いた瞬間、ラットはイェーゴーに何かがあったと悟った。
どう見ても、あれは『本当の彼ではない』。ラットは、そう感じた。なんの根拠もないけれど・・・。
「何か、あったんだ。あの人に」
ラットの唇は恐怖で青く染まりながらもそう呟いた。
あの、いつも正しくあろうとする優しい人が、あんな目をするだけの何かがあったのだ。
ラットは、顔を上げる。
「それなら今一番苦しいのは、俺じゃないじゃないか」
革靴の足音が背後で響く。ラットは振り返らなかった。
今一番苦しいのは、一番怖がっているのは。
「・・・見つけた」
ラットの耳元でイェーゴーの声がした。
イェーゴーはラットの首筋に刃を当てる。ラットの肌はその冷たさに沸きたった。
ラットは、今、恐怖を感じていない自分に気づく。焼けるような感情がラットの中身を満たしている。
ストライダー、と優しく呼びかける。ナイフはまだ首筋につけられたまま。
ラットはイェーゴーに向き合った。
もしこれが、最後だとしても。
この人に繋いでもらった命だ。
「あんたのために使うよ」
ラットは当てられているナイフを両手で包み込む。ラットの無意識の唇は、イェーゴーの唇に触れた。
ナイフが落ちた。
また唇が重なった。
目を上げれば紅の月夜だ。
イェーゴーは泥沼の中で自分のされていることをぼんやりとだが理解した。
あたたかくて何か、優しいものがイェーゴーの中に流れ込んでくるような気がした。
イェーゴーは急に、縋り付くように、何度もラットにキスをした。ラットはイェーゴーに強く頬を包まれて、獣のように口付けられて、それをただ受け入れた。
イェーゴーの震える指の上にラットの手が重ねられている。
彼は思った。自分は今ナイフの代わりに少年の掌の温度に触れている。
溺れている。互いの意識の波に呑まれていく。
どこまでも深い場所まで二人で潜っていくみたいだ。
助けてほしい、許して欲しい。
自分のしてきたこと全てを、ラットに赦されたい。
イェーゴーはいつしかそんなことを思っていた。
今まで自分が一番必要としていたものが、こんなところで与えられるなんて想像もしていなかった。
イェーゴーが生まれた時から最も欲していたのは、食料でも寝る場所でもなかった。
それは愛だった。愛とは恐ろしい夜に、誰かが隣にいて手を握ってくれることだ。
イェーゴーは、愛をこの手に掴んだような気がした。
あの日、ラットを始めて見て連れて帰ったのが、自分と似ていたからでもあり、優しさでもあったとしたら。
そして、ラットに見惚れた。
もしそうだったのだとしたら。
「・・・っ」
イェーゴーの瞳の中に、涙がいっぱいに溜まっていた。
じきに彼は気づくだろう。
彼がどういう人間かは彼自身が決めることができる、いや、彼自身にしか決められないということを。
いっぱい満たしてあげるから お餅。 @omotimotiti
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