9-1始まり


 しかし最後の日というのは、必ずやってくるものだ。


 共に眠りについた二人は、特に何もなかったにもかかわらずなんとなく気まずい思いをしながら翌日を暮らしていた。

 ラットはずっとイェーゴーのそばを離れなかったし、イェーゴーもそれを黙認していた。周りのメイドや使用人が妙な目線を寄越しても、二人は何食わぬ顔だった。

 友でもない、恋仲でもない、互いが互いの一部のような気持ちさえ二人の間にはあった。

 その夜世界が急激に加速することも知らずに、そこに存在していた。


 日が暮れる。

 闇は屋敷中を飲み込んだ。

 今晩もワインが注がれる音がする。マートレッド・スマイルが椅子にゆったりと身を預けていた。

 マートレッドが仕事の相手の愚痴をこぼすのを、イェーゴーは聞いていた。

「その男というのが、もう本当に情のない輩なの。今まで何人殺してきたのかしらっていうぐらいのね」

 マートレッドはちらとイェーゴーに目線を送った。それが最後のゲームの始まりだった。


「私を殺して」

 マートレッドの赤い唇は言葉をこぼした。


 イェーゴーはギョッとして、椅子を見る。マートレッドの表情は伺えない。

「って言ったら、あなたどうする?」

 しんと静まり返る。

 イェーゴーは自分の唇が、潤いを求めて乾いていくのを感じた。


 駄目だ。いけない。

 自分の中でまだわずかに残っている部分が悲鳴を上げる。

 マートレッドの声が頭の中を駆け巡って、止まらない。

「あら、返事がないわね。もう一度言ってあげましょうか」

 マートレッドがワインを飲み干した。その喉はクククと笑い震えている。

「私をーー」

「やめっ・・・て下さい・・・」

 イェーゴーは俯いて目をギュッと瞑る。マートレッドは立ち上がる。その掌にはナイフが握られているのだった。


「・・・苦しいのね」

 可哀想に、とマートレッドが悲しそうな顔をする。グラスをテーブルに置くと、空いた両手でイェーゴーの首を引き寄せた。二人の鼻先が擦れる。

「欲しいって、言って」

 マートレッドの甘い息がかかる。

「私が欲しいと望んで」

 解放してあげる。

 そう囁き、マートレッドは、

 イェーゴーの震える片手にナイフを、握らせたのだった。


 そして羽織っていたものを無造作に脱ぎ捨てると、自身のゆったりとしたローブの胸元を、ビリビリと開け放した。

 マートレッドの白く光る肌は、目眩を引き起こすのには十分だった。

 さあ。

 さあ。

 さあ。

 マートレッドの恍惚な微笑みも、肌も、ナイフも、ぐらぐらする視界も、イェーゴーの意思を奪っていく。


「ぐ、う・・・」

 自分がうめいていることすら気づかないまま、イェーゴーはナイフの感触を無意識に掌で確かめている。

 一歩踏み出していく。こちらに胸元を開けて両手を広げている主人の元へ。獲物の元へ。

 切り裂いてマートレッド・スマイルの血の色を確かめたい。

 イェーゴーは涙を流していた。


 もう誰も傷つけたくない。


 そして、ナイフは獲物の胸を掻き切るのだった。


 ―――――――――――――


 何か物音がしたとラットは感じ取った。

 下の方だ。一階だろうか。

 何かが切られたような、久しぶりに聴くような部類の音だった。

「・・・気のせいかな」

 ラットは児童文学の本に再び目を通し始める。しかし物音は止まない。派手な音が鳴り、びくりとしたラットは、立ち上がる。


 もしかして誰か、倒れた?

 真っ先に階段に向かう。まず初めに自分の身を案じることをラットはしなかった。生まれてからそれを欠かしたことは一度だってなかったのに。

 この屋敷に彼の存在があるという絶大な安堵と、彼に何かあったのかもしれないという焦りがラットの足を突き動かすのだった。


 階段を駆け降り、自分の心臓が高鳴るのにも気づかないままラットは彼を探す。

 前にも後ろにも廊下しかない。

 一瞬思考が止まると、物音はまた続いた。今度は何かをズルズルと引きずるような音だ。ラットの後ろの方から響いてくる。

 ラットは駆け出した。


 そして最奥の食堂室の閉じられた扉にたどり着いたとき、急に生臭い匂いがしてラットはギョッとした。

 扉の取っ手に手をかける。それは鋭い冷たさをラットの掌に返してくる。

 ラットは、ざくりと何か抉るような音を聞いた、気がした。

 

 イェーゴーは倒れている獲物の前にしゃがみこんでいた。

 ナイフに彼の歪んだ笑顔が映りこんでいる。泣きながら笑っているようだ。

 マートレッド・スマイルはどこか微笑を浮かべたまま、瞳の色を失って死んでいた。

 その白い肌には赤だけが、絡みつく糸のように美しく彼女を彩っている。

「あははは、あはは、はははは」

 イェーゴーがナイフを振り下ろすたびに糸は飛び散って食堂室を染める。

 狂った画家がキャンパスを染め上げていくように。


 そして、その背中を遂に発見する一人の少年が居た。

 ラットの顔から血の気が引いていった。

「ぁ・・・う・・・」

 後ずさる。その瞬間イェーゴーの動きがピクリと止まる。執事はゆっくりと振り返った。

「ひっ・・・!」

 執事は、にたあとわらうと、獲物を一度見てまた少年に笑い掛ける。

 音もなく立ち上がる。少年は体が動かない。

「な、どうしたんだよ。何があったんだ・・・やめ・・・」


 少年の背中が壁についた。

 いとも容易く追い詰められる。

「や、嫌だ」

 少年は力なく怯えた顔を見せ、執事はそれに目を見開いた。

 本当に、ぞくぞくさせてくれる。

 イェーゴーはラットの左右の壁に手をつく。唇の辺りに返り血がぼんやりと移っている。事態が呑み込めず混乱するラットの瞳を、覗きこんだ。


「逃げな」

 血と金木犀の匂いがラットの鼻腔をくすぐる。嫌悪感と恐怖で、吐きそうになる。

「逃げろよ、ねずみ」

 ナイフがラットの白い頬を滑る。一本の直線から美味そうな赤が垂れて、落ちた。

 さあ。

 さあ。

 さあ。


 ラットは声にならない声を発した。

 それが最後、少年は理性の糸を放して、無意識の内に走りだしていた。

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