手紙

熊澤 孝

手紙





新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン。教えて下さい。この音は、なんでしょう。そうして、この音からのがれるには、どうしたらいいのでしょう。どうかご返事ください。


 ある昼下がり、アパートの一室で男は読んでいた太宰治の小説「トカトントン」を閉じた。そして、引き出しからボールペンと適当なA4用紙を取り出して、冗談なのか或いは本気なのか返事の無い手紙を書き出した。


拝啓

先生。この手紙を書くこと、どうかお許しください。しかしもうこうでもしないと私はどうかなってしまいそうなのです。実は私はあの「トカトントン」の男と同じような目に遭っているのです。トカトントンという音は聞こえないものの、雲ひとつない日に空を見上げた時、夕暮れどきの橙色と藍色のグラデーションを見た時、たとえ曇り空でも、私はふと空を飛べる気がするのです。

私は山ノ上町というところに住んでおり、文字通り山の上に町があって、そこからは隣町、いやもっと先の町まで見えます。そこでは田舎ではありますが日が暮れ出すと商店街の灯りやら、走る電車の灯りやらが一丁前に光っています。しかし、私はそれに興味は無く、私はもっと綺麗なものを知っています。果ての無い空です。仕事帰りのある日のことです。その日の空はマジックアワーで水色の雲にピンクの影がついたなんともファンシーな空でした。その空を見上げてふと今なら飛べそうだ、とそのとき私はそう思ったのです。これが始まりでした。飛べそうというのは、そのままの意味で飛び立てそうという意味です。背中から翼が生えるのか、それとも足が地面から浮くのか、手段は分かりませんが、今なら飛べそうだ、と思ったのです。そう思うとあの「トカトントン」のように無気力になり何もかもが馬鹿馬鹿しくなるのです。しかし、その感覚は堕落したものではなく、むしろその逆でそう思う前より生き生きするのです。

そうして、そのうち私は本を読むようになりました。そこで先生のお書きになった「トカトントン」を知ったのです。私と先生の物語に出てくる男と重なるものがあります。あの男の幻聴は、私のあの今なら空を飛べそうだという感覚にどうも似ている気がしてならないのです。だとしたら、私もあのトカトントンの男ような人生を歩むことになるでしょうか。

先生、せめてあの男があの後どうなったのかだけでも教えてください。


 男は一通り手紙を書き終えると、書いた紙をゴミ箱に入れた。机の上には太宰治の「トカトントン」が置かれており、小説本とは思えないほどびっしりと付箋が貼られていた。男はまるで入試を控えた学生のように「トカトントン」を何度も読んでいたのだ。そして男は手紙を捨てた後もまた「トカトントン」を読み始めたのだった。

そこに男と同棲している女が部屋に入ってきて、「また読んでるの?」と聞いた。男は、「うん」とだけ答えて本に没頭している。ここ最近ずっとこんな感じだ。以前は男女共に他愛も無い話をしてはゲラゲラと笑ったものだが、男が「トカトントン」を読んでから会話はめっきり減り、男から喜怒哀楽は消えていた。

「いつもなに読んでるの?」

「トカトントン」と、男がぼそっと答えた。

「どんな話?」

「敗戦の絶望や仕事への情熱、それと恋のトキメキとかを感じるんだけど、その度にトカトントンという音が聴こえてその思いが一切消えてしまう男の話」

なんて重いものを読んでいるんだと女は思ったが会話を続けた。

「へぇ。なんか不思議な話だね。そのトカトントンってなんの音?」

「本人しか知らない」

「本人って?」

「わからない」

男がブルーになっているのは目に見えてわかった。女は気分転換に久しぶりのデートに誘った。

「そうなんだ。あ、そんなことより今度の日曜たまにはどっか行かない?」

「また今度ね」と、女はあっさり断られた。

「ちょっとコンビニ行ってくる」

そう言って男は部屋を出た。呆れた様子で女はため息を吐いた

男はコンビニに向かうと行って部屋を出たのだが、アパートの階段を下りたところで立ち止まって空を見上げていた。男はこの時も、飛べそうだと思っていた。






拝啓

先生、再びこのような手紙を書くことをお許しください。しかし、ふと気づいたことがあるのです。あの「飛べそう」という感覚、鬱病に少し似ている気がするんです。と言うのも、私の友人は鬱病だったのです。ある日、お見舞いとしてその鬱病の友人宅に行った時のことです。

「おぉ!よく来てくれたね!」と友人は笑顔で出迎えてくれました。その笑顔を見て、私は「よ、ちゃんとサボってるか?」と言います。これが彼と会う時の挨拶です。鬱病患者には頑張れなど元気づけるような言葉は症状を悪化させることがあるとネットで見たので、彼と会う時はサボってるか?と聞くようにしていたのです。

私が挨拶を交わすと友達が「いや、それがサボってる訳にはいかないんだよ。なんだか忙しくてさ」と、すぐに部屋の奥に行って何やらガサガサとあわただしくしていました。すると部屋の奥から花ちゃんがやってきて「久しぶり!」と、笑顔で出迎えました。彼女は友人の恋人で花絵と言って、友人が鬱病になってもずっと支えているとてもいい子です。

「久しぶり。あこれ、実家から送られてきたミカン、良かったら」そう言うと私はコンビニのビニール袋に入れたミカン十数個を花ちゃんに渡しました。花ちゃんは「ありがとう!」とミカンを受け取り台所の方へ行きました。私が「あいつ何やってるの?」と花ちゃんに尋ねると、「わからないけど、なんか最近すごい元気で。料理とか掃除とか色々やり出して」と、嬉しそうな笑みを浮かべて答えました。それを聞いていた友人が奥から「コンビニも一人で行けるようになったんだよ!多分薬が効いてきたんだな!なんか最近気分がいいんだ!なんか元気というか勇気が沸いてさ、前までできなくなってたことができるようになって、なんか今ならなんでもできそうだよ」と、声を弾ませ言いました。私はとても驚きました。前会った時はまるで亀のように布団にくるまって、俺はダメだ、いっそ消えてしまいたい。と言っていた人間が、聞くと今日は朝から布団を干し、散らかっていた部屋を掃除したと言うではありませんか。私は今の薬はよく効くものだなと感心したと同時になんだか友人と久しぶりに会えた気がしてとても嬉しく思いました。

その日は友人宅で昼ごはんを三人で一緒に食べました。昼過ぎのことです。相変わらず友人はお昼ごはんを食べるや否や部屋の奥へ行きあわただしくしていました。「まだ何かやってるのか?」と私が友人に聞くと、「ちょっと良い物が出てきたんだよ」と答えました。花ちゃんが「でも少し休んだら?」と言っても友人は「あと少し」と言ってなかなかこちらに戻って来ませんでした。少しして私が花ちゃんとミカンを食べていると、「ジャーン!」と言って友人がスーツを着て立っていました。そして、友人は「どうだ、懐かしいだろ。クローゼットの奥にあってさ。見てよ、今ならすぐにでも仕事に復帰できそうだ」と言いました。花ちゃんはその姿を見て嬉しかったのか「いつでも着れるようにクリーニングに出しておかないとね」と張り切っていました。友人は「花絵、きっと今に治るぞ!もう少し待っててくれ!」と言って鏡の前に立ち、スーツを来た自分に見とれているようでした。

その二日後、彼は飛び降り自殺をしました。

友人の葬儀後、私は花ちゃんが心配で友人宅にいました。花ちゃんは二日前に会った時とは別人なほど血色が悪く窶れていました。花ちゃんは喪服のまま椅子に座って下を向いたまま何も喋りませんでした。私はその静寂のうるささに耐えれず何か話そうと思った時、クリーニングから帰ってきたばかりの友人のスーツが丁寧に机に置いてあるのを発見しました。「そんなもの捨てておくべきだった。こんなことなら元気なんかいらなかった」とスーツを睨みつけました。

その時花ちゃんから聞いたのですが、鬱病というのはふさぎ込んでいる時よりも、元気になった時に気をつけなければいけないらしいのです。元気なのはあくまで薬の効果で、今なら何でもできそうだという感覚は一番危険な状態らしいです。何でもできそうだと言って自殺をしてしまう患者は少なくないそうです。友人はきっと、今なら死ねそうだと思い、飛び降り自殺をしたのでしょう。

私は花ちゃんがあまりにも痛々しく、窓の外を見ました。その日の空は何事もないように平凡に晴れていました。私はこの時も飛べそうだと思ったのです。いやもしかしたら、飛び出したい、だったかもしれません。今はもう覚えていません。

話が長くなりましたが、私の今なら空を飛べそうだ、という感覚は友人のように今なら何でもできそうだ、という感覚に似ていると思うのです。もうニヒルやブルーの一言では済まないのです。いつか「飛べそう」が「飛べる」に変わったその瞬間、私も自ら命を絶ってしまうのでしょうか。もちろん私は鬱病ではなく、ましてや今まで死にたいと思ったことは一度もありません。しかし、友人の一件以来、勇気が怖くて堪らないのです。私はまだ死にたくないのです。お願いです。教えてください。この感覚は、一体なんでしょうか?


 女は男の手紙を読んで驚いた。また何やら書いていたので、ほんの出来心で男がコンビニに行っている間に読んでみたら、彼がここまで追い詰められていたなんて全く気づかなかった。女は自分の鈍感さと男に対する罪悪感から何か慰め程度でも救えることはできないかと、女は男の机の上に置いてあった付箋がびっしりと貼られた「トカトントン」を読み、本を真似て次のように返事を書いた。


拝復

手紙、読みました。気取った苦悩ですね。私は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、あなたはまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この場合の「懼る」は、「畏敬」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君のその感覚は消える筈です。不尽。

って、あなたが読んでた「トカトントン」の文章をコピペしてみましたが、さっぱり意味がわかりません。

そんなことよりたまには彼女をデートに連れてけー!気分転換するぞー!







 男は、コンビニから帰ってくると自分の机に置かれていた彼女からの手紙を読んでふっと久しぶりに笑みを溢した。そして、ソファでスマホを触っている彼女の元へ行き言った。

「デートに行こう!」

「え、今から?」

女はあまりにも突然のことで驚き、自分の書いた返事が読まれたことは気づく間もなかった。

「今から!今から、そうだな海に行こう!そこでピクニックしよう!」

「あ、ちょっといいかも」

「そうと決まれば、出発だ!」

二人は支度をし、海へと向かった。途中のドライブスルーでハンバーガーを買った。

 太陽が沈み始めた頃、海に到着した。海に着いた途端男は車から飛び出し、砂浜へ走った。

「海だー!」

「ちょっと待ってよー!」と、女も男に続いて車を飛び出す。

地面は砂浜の砂でざらつき、海は果てなく広がっていた。

「あれ?食べ物は?」と、男が二人とも手ぶらであることに気がついた。

「あ、車の中だ!取ってくる!」

女は走って車に戻った。走っているのは慌てているのではなく、久しぶりに彼氏と会えた気がしたからだ。それが女は嬉しくてつい走ってしまったのだ。そこでようやく女は気づいた。もしかしたらあの手紙が彼を救ったのかもしれない、と。そう思うと余計に嬉しくて笑顔どころか笑い声すら溢れてしまう。

 女が満面の笑みで車から戻ってきた。

「お待たせ!」

しかし、彼氏の姿が見当たらない。辺りを見渡したが、男の姿はどこにも無かった。女は男の名前を呼び、探し続けた。波はザザーとうねって女の声をかき消し、橙色の陽光で空は黄金に輝いていた。  

 男はどこへ行ったのか。海に入って入水自殺したのか、或いは本当に空へ飛び立ったのかそれは本人にしかわからない。

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