その名はゴア。

 張り巡らせた配管の傷から、時折、蒸気が噴き出す。回転する巨大な歯車の中心には、青白く輝く宝石が埋め込まれている。

 血管か、それとも蜘蛛の巣の如く、建物から地面―――都市の全てに張り巡らされた人工の龍脈に虹色の光が走る。虹色の光は時々、壁にぶつかりながら移動する。その度に、虹色の粒子を噴き出しながら。


 蒸気と虹色の粒子が絡み合い、都市の全てを包み込む。まるで、霧が漂うように神秘的な光景だ。

 夕方。それは、自由であるが抵抗する力を持たない人の終わりを告げる時間。海に沈んでいく日の光は、まさしく人々に警告を告げるアラート。

 道路を埋め尽くす市場は、急いで店じまいをして帰路につく。一般人のお客さん方も、買い物籠を肩にかけて帰る足を早める。


 一斉に人々が消えていく様は壮観だが、奇妙にも映る。なぜなら、この後にも出店が開かれているから。夜だからこそ稼げる職もあるだろうに、人々は泡を食ったようにどたばたと家に帰り、扉を閉めて施錠する。

 まるで、これから起こる何かに巻き込まれないよう、安全な所に逃げ込むように。


 夜が来る。街灯に人工の光が灯り、淡い輝きが船上都市に夜が来た事を告げていく。光差す場所に影が出来る。

 路地裏は奥も見通せない程の闇が広がっている。こんな中、外を出歩いているのは、これからやってくる脅威に抵抗ないし撃退できる力を持った者のみ。

 人工の龍脈を走る虹色の輝きが、完全に消える。


 その時。


 闇の中からぬるりとでる何か。姿形は獣のようだったり、人型だったりと様々で。中には、生物ですらない物もあった。

 季節外れの仮装パーティーでも開いたのか。目を疑うような光景が、視界いっぱいに広がっている。

 絵本の中にしか載っていないような怪物が、普通に道を闊歩している。暗い色合いの豪奢な馬車を、首のない馬が引いている。空中を翼の生えた球体が漂っている。

 月夜が照らす船上は、満天の星空の下で闇の世界へと流転する。


 それはいつも通りの光景。いつも通りの日常。ここ、船上都市ラヴィスタでは、何てことない出来事。

 出歩く者は数知れず、影から闇から出でる【魔ノ物】に混じって、異形の化物も歩き出す。今宵も獲物を求めて、自らの力を試したいと、実験したいと謳う学術の徒が闊歩する。


 それに混じるのは、ただ一人の何か。全身を濡れ羽色の布に包み込み、隙間から黄金と真紅の瞳孔がこちらを覗いてくる。


『今日は……そうだな。あれを試すとしよう』


 濡れ羽色の布が蠢く。布の一部が蠢き、そこから一振りの短剣が生えるように出てきた。短剣を掴んでいるのは、腕を模した濡れ羽色の布。

 客観的に見れば、その短剣は美しい意匠が施されていた。勢を尽くしたように赤や黄色、白といった宝石が埋め込まれ、紫がかった銀に輝く翼が装飾され、何とも言えない妖しさを放っている。

 翼の装飾は柄から刃の先まで覆っており、単なる芸術品としか使えない設計のようだった。


『さて、異界に棲む鳥の生き血に付け込んだ銀は、どれほどの呪いを発するのかな?』


 無造作に、濡れ羽色の腕が短剣を振るう。それは何者も切れず、ただ空を切っただけ。だが、最も短剣に近かった鎖を纏った狼が、突然、目や口から赤黒い液体を噴出した。


「ヴぉ」


 赤黒い液体は、重力に従って落ちる事なく、狼の全身を這う。狼は声にならない鳴き声を上げて痙攣するだけで、その場から動かない。否、動けない。

 まるで、何かに締め付けられているかのように。その場から動く事を許さないとでも言うように。


『ふむ』


 それを見ている濡れ羽色の布を纏う何か―――【落天者】と呼ばれる者の一人は、興味深そうにその黄金の瞳で見据えている。


「ヴぉ……ヴ………ヴぁ…」


 狼は呻く。苦し気に泡を吹き、飛び出そうな程に目を見開く。赤黒い液体が這った跡に、何かの文字が刻まれる。文字が刻まれる度に、狼の痙攣は激しくなる。遂には声を上げる事も出来なくなった時、赤黒い液体は狼の穴という穴に入り込んで………その後、破裂した。

 血が、肉が、内臓が地面に飛び散る。砕けた骨の残骸が、血の海に浮かび上がる。鎖は腐り落ちたように溶けて血に混じり、地面に染みを作り上げる。


 しかし、その数秒後。狼だったものの残骸は、突如として黒い粒子に変わり、霧のように空中に消え去っていく。その様は、まるで空中に漂う虹色の粒子に似ていた。

 一連の様子を見ていた濡れ羽色の布を纏う【落天者】は、淡々と短剣への見解を述べる。


『対象に憑依し、その身体を縛ると同時に内側から呪いに侵す。呪いの進行は遅効性だが、発症した症状は強力。呪いの一部を外側に出し、外側に呪印を刻んで呪いの効果を向上させる、と。呪いの種類は複雑に絡み合って分からないけど、なかなか殺意の高い仕様に仕上がってるね』


 布の隙間から、黄金の瞳が短剣を射抜く。それと同時に、短剣がカタカタと震え出した。


『微弱ながら魂が宿ってる、と。これは余計だね。呪いの幼体にしては凶悪に過ぎる。元々の素体が良かったのかな?………まあ、良い』


 濡れ羽色の布が蠢き、短剣を包み込む。それに反抗してか、短剣が激しく震えて暴れ出す。


『作っておいて何だけど、君は要らないかな。という訳で………』


 ぐしゃり。肉と金属の混じったような破砕音が、包み込まれた布の内側から響く。布はなおも蠢き、まるで貪るように短剣を内側へと取り込んでいった。


『生まれたばかりで気の毒だけど、私の糧になって貰うよ。なに、いずれは吐き出すから安心しなさい。まあ、それまで生きていたら、だけど』


 不穏な言葉を言い残して、濡れ羽色の布は地面を滑るようにその場から去っていく。その先には次の獲物が待っているのか。いや、次の犠牲者が待っているのか。




 彼の者、濡れ羽色の布に自らを覆う者。

 彼の者、真赤き目玉に黄金の瞳を宿す者。

 彼の者に触れるべからず、近づくべからず。

 其れは天秤を喰らう者。其れは生命を弄ぶ者。

 其れはあらゆる闇を呑み、自らの糧とする吸血鬼。

 黒鉄の皮膚と、輝きを失った白金の髪の落天者。

 その名はゴア、その名はゴア。

 魔術の深淵に辿り着き、人の真理を解く者。




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