特殊任務
クラウハン共和国の外交官サジャンは、弱冠二十歳の女でありながら、特別任務の指揮を執ることになった。同年の少女たちが勉学や花嫁修業にいそしむ中、サジャンは国の動力となっている。しかし、帝政下においては下級の外交記録係だったサジャンにとって、本来ならありえないことでもあった。
――愚民政府め。
ブルシー皇帝が突如亡命し、事実上クラウハン帝国は滅亡した。しかし、民族平等を謳い、選挙によって新しく立ち上がった民主政府はまるで機能しなかった。元々の官僚を削減したため、すべての公務が停滞し、旧体制との対立が起きた。平等政策が、むしろ民族差別を浮き彫りにし、市民にまで揉め事が広がった。多くの意見を取り込もうとすれば、多くの軋轢が生まれるのは当たり前なのだ。五〇〇年も続いた大帝国の根幹を動かすなど容易ではない。結局は帝政時代のチェレウェ宰相が暫定的に政治に関わり、政府の混乱を治めようとしている始末だ。そのため、サジャンのような旧帝国官僚が、本来とは違う仕事を担うことが多くなってしまったのだった。
当然、妬みを買った。しかし、想定内のことでもあった。命令に従わない者たちは容赦なく任務から外せば良い。個人的な心情や思想に付き合っていられるほど、ヒマではなかった。
――陛下、一体どちらにいらっしゃるのか。
サジャンが唯一心を寄せるのは、絶対的な柱だ。
――必ず、お探しいたします。
もう無理かもしれないと思いながら、帝政復活が今のサジャンの生きる意味になっていた。
城内の外交準備室の前で、サジャンの部下であるモーレが姿勢正しく立っていた。その巨体と右目を覆う眼帯だけ見れば、幾戦も重ねた戦士のようだが、モーレは要人守護の役人でしかない。とはいえ、異民族の血を引く彼が、国の官服を着られることが、その能力の高さを表してもいた。上官の来訪に気づくと、眼帯の部下はさらに恭しく頭を垂れた。サジャンもそれに応じた。
「モーレ、我々はつい今しがた特殊任務を仰せつかった」
「特殊任務?」
「先日、地震で崩落した海峡橋周辺の調査だ。すぐ出発する」
ゆっくりとモーレが首をかしげた。
「我が国の海峡橋は、ケアダ公国方面へ続く唯一の連絡橋ですが……」
「どうした」
「それは同時に、不機嫌な
不機嫌な回廊――山間の国家であるケアダ公国の周辺を縫うように建造された陸橋だ。隣国の行き来も、これを使う他はなく、その面倒な道程から不機嫌な回廊と呼ばれていた。
一か月ほど前の地震により、その回廊の柱も海峡橋も壊れ、クラウハン共和国とケアダ公国を繋ぐ手段がなくなってしまったのだ。
モーレがあごに手を当てて言った。
「私は、てっきり海峡橋は廃止し、空路の計画を立てるものかと思っておりました」
サジャンはため息を吐いた。
「いずれそうなるとは思うが、今回はチェレウェ宰相直々の指令なのだ。海から上陸する」
それを聞いたモーレが、苦笑いを浮かべた。素直に承知するとはサジャンも考えていなかったが、さすがに癇に障った。サジャンは目の前の大男を見つめた。
「私は優秀な部下の意見は幅広く聞くつもりでこの任に就いた。何か言いたいようなら、遠慮はいらない。言いたくなければ、素直に従え」
「ならば、お言葉ですが」
モーレはもう笑っていなかった。
「不機嫌な回廊の下一帯に広がる森は、ケアダ公国との条約で絶対不可侵となっております。海から入るとなれば、必然的に森に近づくことになります。一方的に約束を破棄する行為、どこぞの蛮族と変わりませんぞ」
予想通りの言い分、サジャンは思わず笑みをこぼした。
「わかっている。だから、我々は特殊任務の部隊なんだ」
「……つまり?」
「宰相殿から直々に下ったご命令……民主政府を介していないのだ。要は政府非公認の部隊が勝手にやったということにすれば良い。とはいえ、相手の気分を害する必要もないわけだから、橋の破損具合と波の様子、地形がわかれば早々に引き上げる。だいたい、地震はケアダ公国が管理する不機嫌な回廊の一帯で起きたのだ。我が国の海峡橋まで壊されたのだから、調査に赴くのはごく自然だと思わないか?あちらもこちらへの連絡橋が失われ困っているはず」
「なるほど」
モーレは大きくうなずくと、柔らかく微笑んだ。
「しかしながら、サジャン殿は、まだ何かを隠しておいでだ」
その表情から発せられたあまりに鋭い質問は、サジャンを一瞬だけ狼狽させた。それをモーレは見逃さなかった。
「申し訳ありませんな。細々とした職ではありますが、上官殿よりこの城の勤めは長いもので……最近のどこか慌ただしい空気、新政府の混乱だけではありますまい」
サジャンは真っ直ぐ隻眼の部下を見つめた。自分がこの部隊に配属された時に、唯一歓迎してくれたことを思い出す。サジャンは懐中時計のぜんまいを指で繰りながらゆっくりうなずいた。
「最高機密だ。一切の他言を禁ずる」
「承知」
「我々は皇帝陛下をお探しする」
「……」
「だからといって、今の新政府とやり合うつもりはない。心配するな」
サジャンの言葉にモーレが安堵の表情を見せた。サジャンは苦笑いを浮かべつつモーレを見つめた
「新たな民主派の政治を壊すつもりはないが……ブルシー陛下の善政に不満があった民がいたとも思えない。確かに、お世継ぎもなく、ご高齢になり、自ら帝政の限界を口にしていたような御方だ。しかし、突然の亡命はやはりおかしい」
次第に、自分の言葉に熱がこもっていることに気づき、サジャンは一度咳払いをした。
「……今、どちらにいらっしゃるか。お身体に障りはないか……それを確かめるための調査、かつての臣下として当然だろう」
モーレは小さくうなずいた。
「ごもっともです。しかし、ケアダ公国方面に、手がかりあるのですかな?宰相殿がそう仰せられたのでしょうが」
サジャンは一瞬躊躇したが、あえて胸をそらせてはっきりと言った。
「昔……私が、陛下からお言葉を賜った。不機嫌な回廊の森への想いを」
さすがのモーレも驚きを隠せなかったようだ。片方の目を何度か瞬き、声を押し殺して言った。
「サジャン殿は、こちらの部隊長に任命される前は、一体……」
「外交記録の管理係だ。陛下は異国の文化にたいそう興味を持たれており、時々ではあったが物語を聞きたいと私に仰せられた」
三年くらい前だ。
恐れ多くも夕食後のひとときを共に過ごすことを許され、暖かいミルクと焼き菓子まで振る舞われた。仁徳者と謳われた皇帝陛下は、サジャンが緊張しないよう時々冗談を交えて、楽しそうに話をしていた。
「体調を崩され始めたのが一年半ほど前だったか、その頃、陛下は私におっしゃったのだ」
穏やかで優しくも、悲しげな眼差しだった。
「君なら、不機嫌な回廊の森の冒険譚を書いてくれるか、と」
絶対不可侵の森への憧れを口にされたことが、昨日のことのようだ。あれからしばらく経って、クラウハン帝国の皇帝は、一ヶ月前に突然姿を消してしまった。
モーレは、今度はいぶかしむような顔になった。
「それだけですか?手がかりは」
サジャンは首を横に振ると、声をひそめた。
「宰相殿もご存知だったらしい。一時、陛下が頻繁に遠乗りに出かける時期がおありで、決まって海峡橋からお戻りになったそうだ。クラウハン領土において、東海峡の向こうにあるのはケアダ公国と不機嫌な回廊だけだ。あの一帯は、唯一の自治国……陛下も森の情報を得ようとお考えだったのだろう」
モーレがポンと手を打った。
「読めましたぞ、サジャン殿」
「どうした?」
「チェレウェ宰相殿は、ケアダ公国がブルシー陛下をかくまっていると睨んだのではないでしょうか」
「……」
「あそこは確かに独自の文化で発展し、不機嫌な回廊というとんでもない長物があるおかげで敵の侵攻もままならない、いわば要塞都市です。しかし、それはこちら側の見方。実は森の中で秘密裏にクラウハンへの侵攻を企んで……」
「まさか」
「もしケアダ公国が五〇〇年の歴史を持つ皇帝を戴けば、多様な国が接近し、国力を増すでしょう。我が国にも陛下をお慕いする旧帝国兵がいるはず……裏切りも予見されます。いずれにしても国は乱れます」
サジャンはポケットの懐中時計に触れながら、モーレの言葉を繰り返した。
「お慕いする、か」
まさに、自分がそうだ。
「そうですぞ、サジャン殿。これは確かに特殊任務です。公にすれば、今の民主政府が慌てて何をしでかすかわかりませぬ。とりあえず、私は船と船乗りを調達してまいります」
急ぎましょう、モーレはそう言うと、サジャンに敬礼をして立ち去った。
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